7-1 鉱山防衛1
ひそかに油を垂らす。草も木も土も赤茶色なので、油の色がそれほど目立たないのがありがたい。鉱山特有の臭いのせいで、油臭もほぼ感じず都合がよかった。
「……」
馬場がそっと小十郎の腰に括り付けられた紐を引く。わかっている。あまり前に身を乗り出しすぎるとさすがに見つかってしまう。
与力頭の佐田が回収を後回しにするだけあって、焙烙玉が収められた木箱は結構大きく、しかも複数個重なっていた。筵を掛けられ、他の備品に紛れるように置かれている。
確実に油をそこに届かせるために、危ない橋を渡らざるを得なかった。
小十郎と馬場とあとひとりがいるのは、幸田が示した焙烙玉の箱の真上だ。
切り立った崖とはいえ、真にそびえたつ壁だというわけではない。要は限りなく壁に近い山の斜面なので、真上にたどり着くまで足元が危うく、ついてからもまっすぐ立っていることもできない。
三人の身体を支えているのはところどころにある岩と、赤茶色の木の幹だ。木はおそらく枯れかけているので、小十郎はともかく、馬場ともうひとりの体重をどこまで支え切れるか怪しかった。
奉行所内部にある油のおおよそを、足場のいいところまで運ばせた。
その一部を竹筒にいれて腰にぶら下げ、崖上に持ってきたのだ。
山肌に沿って大量の油を垂らせるなら楽だったのだが、確実に炮烙玉の箱まで届かせるほどの量は持ち運べなかった。
限られた量で何とかするために、やはり木箱にできるだけ近いところに油を垂らす必要がある。
それには相当身を乗り出さなければならず、たぶん腰の紐がなければ今頃崖下まで転がり落ちていただろう。
赤茶色の笹の茂みに頬や手足を切られながら、手持ちのすべての竹筒を空にしたところで、自力では身体を引き上げることができないことに気づいた。
じたばたともがくと、馬場が気付いて紐を引いてくれた。更に笹に肌を切られながら引き上げられ、複数の手が小十郎の帯をぐいとつかんだ。
ガサゴソと茂みの音を立ててしまったが、幸いにも眼下に続く隊列は気づかなかったようだ。
ほっとして息を吐く。
だが安心するのはまだ早い。これから油が広範囲に撒かれるのを待って、実際に火をつけなければならない。
小十郎が息を整え、帯を掴んでいる男たちに頷きかけると、馬場もいくらか安堵したように頷き返してきた。
風が吹く。かさかさと、まるで秋の山のような乾いた枯れ葉の音がする。
この位置からは、山道の状況は全く分からない。
うまくいっているのか? 失敗したらどうなるんだ?
そんな不安ばかりが募る中、ざわざわと不穏に葉擦れの音がする。
小十郎が目を凝らした先で、大きく両手を振る味方の兵の姿が見えた。
油を撒き終えた合図だ。
馬場が手早く、油を浸した手ぬぐいの上で火打石を鳴らした。
団子にした手ぬぐいにボッと火が付く。それが大きな炎になる前に、もう一人が放り投げた。
炎の塊はあっという間に小十郎の視界から消えた。
心の中で、静かに数字を数える。
複数の場所で火がつけられたはずだが、うまく油に着火してくれるだろうか。
数を五十まで数えたあたりで、少し離れた場所で、怒声が聞こえた。
さらに少しして、ドン! と覚えのある大きな音。いや振動。
よかった。炮烙玉に火が付いた。
これを合図に、更に山の上のほうに行った幸田が、補強の普請という名目で作られた仕掛けを作動させる手はずだ。
うまく動かせるがわからないが、そう難しい仕組みでもないはずだから、何とかなると期待している。
何もかもが準備不足で、思い付きの策がどういう結果をもたらすのか、小十郎だけではなく他の男たちもわかっていなかっただろう。
熱気を感じて周囲を見ると、おそらく火打石からこぼれた火の粉が枯れた笹に飛び散ったのだろう、パチパチと燃え広がり始めていた。
「行きましょう」
小十郎がそう声を掛けるまで、残りの二人は燃え広がる炎を口を開けてみていた。
山道の騒ぎはますます大きくなるが、仕掛けが動く気配がない。
幸田が手間取っているか、仕掛けを作動させるのを止められたか。
想定内ではあるが、よくない。実によくない。
様子を見に行くか迷ったのは短い時間だ。だがそれが、小十郎の命の明暗を分けた。
「大江殿!」
馬場の声が遠くに聞こえた。
まだ腰ひもでつながった状態のもう一人が土砂に飲まれ、立ち止まった小十郎ごと崖下まで流されそうになったのだ。
立ち止まっていなければ、おそらくそのまま土砂の下敷きになっていただろう。
だが丁度、太い木の幹が小十郎と男との間にあった。流された小十郎と男とが、その木に引っ掛かった状態で宙づりになった。
ゴゴゴゴゴと不気味な地鳴りがしたのは、それからだ。
遅れて聞こえたその轟音は、山が崩れる音だった。
気づけば馬場に腕を掴まれていた。骨が折れそうなほどの強さで。
何か言っているようだが、よく聞こえない。まだ轟音が続いているからだ。
紐? 腰ひもを解けと言っているようだ。
ぐぐぐっと腰に紐が食い込んだ。胴体が真ん中で千切れそうだ。流された男とまだつながっているからだ。
小十郎は掴まれているのとは反対側の腕で、手探りで腰ひもを探り当てる。果たしてこれを解くのが正しい事なのか、熟考している暇はない。
馬場の手に、さらに力がこもった。
三人の身体がつながっているので、小十郎が踏ん張れなければ馬場も流される。
ぎゅっと目を閉じて、結び目の端を引いた。