6-3 鉱山奉行所 奉行居室3
夜明け間近に、書類の分別が終わった。要るほうに分類されたものは証拠書類として預かり、集計をするそうだ。小十郎が。……そう、小十郎が。
思わず情けない顔になってしまったが、根津様は満足そうに頷くだけだ。
「いまから少し眠るがよい。二刻ほどで起こす」
さも親切そうな口ぶりだが、絶対に「ありがとうございます」とは言わないからな!
小心者の小十郎は、どう頑張っても小声で「はい」と頷くしかなく、くらくらと眩暈を覚えて「うう」と唸る。
要るほうの冊子は、全体から見ればそれほどの量ではないが、ひとりでは持ち運びも困難そうだ。これの集計をするのか……どれだけ時間がかかるのか、いやどれだけ猶予をもらえるのか。
そもそもどこで作業するのだろう。まさか奉行所内で? 上役たちが戻ってきたら確実に殺される。……戻ってくるのなら、だけど。
不吉なことを考えそうになり、慌てて頭を振った。
「三日いただければ」
神妙な口調でそう言うと、「ふん」と鼻を鳴らされた。
「つまり、三日で戦にかたをつければよいのだな」
戦⁉ いま戦って言った⁇
「だがなぁ、腰兵糧だけで補給のことは考えておらぬようだから、もって二日だろう」
ふらっと頭の重みに身体がぐらつき、慌てて背筋を伸ばす。
やはり鉱夫たちの軍勢は、威圧するだけにとどまらず、戦になると考えているのか。いやいや、この口ぶりだと、尼子の五百の兵のことかもしれない。
わずかな希望を胸に「わかりました」と頷き、結局二日で仕上げると約束してしまった。
「では、馬場を残していくゆえに、気張れ」
満足そうにそう言った根津様ご自身は、福屋の殿様とともに山吹城に出張るのだそうだ。
せかせかと部屋を出て行く後ろ姿をあっけにとられて見送っていると、馬場が長いため息をつくのが聞こえた。目があう。互いに共感して再びため息がこぼれる。
あの人、休憩なしで行くつもりだぞ。
二刻休めと言われたが、とてもじゃないがそんな気分になれそうになかった。
結局一晩寝ずに文字と格闘してしまった。明らかに寝不足で目がシバシバする。
そういえば昨夜もその前もろくに眠れていない。
きっと今だけ、踏ん張りどころだと目をこする。
すっかり夜が明け、室外は現実感がないほどに明るく平穏そのものだったが、小十郎の心は眠気よりも、何かに掻き立てられるような焦りの方が強かった。
今頃、鉱夫たちはつるはしの代わりに刀を持って戦っているのかもしれない。
しかも相手は山師、彼らの身内もいるだろう。身内が身内を攻めている。そんなことがあっていいのか。
いや、もしかすると本城の殿は、鉱夫に戦わせる気はないかもしれない。山師たちと内々で話を通じているとか? それを尼子が許すとは思えないが。
「……いかん」
小十郎はさっと首を左右に振った。余計なことを考えると手が止まる。
もとより体力があるほうではない。気力まで尽きれば、見過ごしや間違いが出てしまいそうだ。
「小十郎様」
小菊が白湯を差し出してきた。眠くなりそうになるたびに声を掛けてくれるので助かっている。
ちなみに、この水は厨の水瓶から汲んだもので、毎日大森の町から運ばれてくる。
「あの、その」
礼を言って白湯を受け取ったところで、言いにくいことがあるように口ごもっていたので顔を上げる。小菊の小さな顔の丸い目が、普段よりも不安そうに揺れている。
小十郎は察して、だがまだ無理だと息を吐いた。
「……町に戻りたいか」
小菊が申し訳なさそうに視線を手元に戻した。
状況が状況だから辛抱しようとしている。そのいじらしさにぎゅっと胸が詰まった。
「おとうが切られたあと……小十郎様のお役に立てと言われたのです」
そうか。小菊は太助が切られたあの場所にいたのか。
小十郎はもう一度息を吐いて、明るい屋外に目を向けた。
普段と何ら変わりない春の日差しだ。小十郎にも小菊にも馴染みの空は青い。
「まだ、死んだと決まったわけではない」
最後に暗がりで見た太助には息があった。あの男の死を信じたくないのは小十郎も同じ。
小菊はきゅっと唇を引き締め、頷いた。気丈でしっかりした子だが、親の安否が気にならないわけがない。
ふと、今なら死に目に会えるかもしれない。そんなことを思った。
きっと小菊もそうだ。
だが二人とも、それ以上このことは口にしなかった。
与えられた仕事は重い。だがどこかで、これだけしていればいいと思っていたのかもしれない。
集計するべき冊子の山をひとつ片したところで、部屋の外が騒がしいことに気づいた。
実際はかなり前から怒声が響いていたようだが、集中していてまったく耳に届いていなかった。
何事かと目をしばたかせて顔を上げるのとほぼ同時に、スパン! と障子が開かれた。
その向こうで仁王立ちになっていたのは、船をこいでいたので隣室で寝かしていた小菊だ。
「小十郎様!」
キンと耳に優しくない甲高い声。
「石銀の方向から軍勢!」
ひと眠りして弱気を振り切った張りのある声色は、絶賛寝不足中の小十郎の鼓膜を容赦なく痛めつけた。さっと両耳を抑えて顔をしかめる。
石銀地区経由で、また尼子の兵が送り込まれたのか?
「しっかりしてください! 敵ですよ敵!」
暢気に構えていた小十郎は、冷や水を浴びせられたように息を飲んだ。
なんでも、隠し坑道を探していた根津様の配下が、手傷を追って戻ってきたのだそうだ。
まさか福屋が裏切った? え?
とっさに正常な判断ができなかった。
真っ先に思ったのは、事の真偽ではなく、福屋の殿と同行している根津様の安否だ。
冷静になれ、考えろ。
頭の中で周辺の地図を広げる。ズキリとこめかみが痛んだ。指を押し当て、更に思案する。
いや福屋が本当に裏切ったとして、山吹城に攻め込むにしても、石銀地区は通らない。福屋の本拠地は、山吹城よりも南にあるからだ。
だとすればどこだ?
「小十郎様っ!」
がしっと両腕を掴まれ、激しく前後に揺さぶられた。
どうやら考え込んでいる暇はないようだ。
複数の男たちの怒声が、聞こえてくる。
小十郎は無言で、今の今まで書き記していた帳面を閉じた。手が届くところにあった油紙に包み、さらにそれを布でくるんだ。
「小菊」
真剣な表情でこちらを見る少女の顔は、まだあどけない。
彼女にこんなことをさせていいのか。そんな自問は、ますます激しくなる外の騒ぎにかき消された。ここで捕まるよりはましだ。
小十郎は黙ってそれを小菊の背中に回し、前でぎゅっと縛った。
幸いにも冊子一冊分なので、目立たないし、重さが負担になることもないだろう。
「町まで走れ」
小十郎を見上げる大きな黒い目が、真剣な光を放つ。
「無理に守ろうとせずともよい。命と秤にするようなものではない」
「……小十郎様は?」
「うん」
少し湿った手ぬぐいを懐から取り出し、さっと広げて小菊の頭にかぶせた。
「必ず後から行く」
薄っぺらい言葉だ。小十郎も小菊も、そんな事はわかっていた。
お互いに至近距離で目を見交わした。一瞬より少しだけ長い時間だ。
それで、十分だった。