1-4 崩落2
小十郎の主家は、本城家に変更しました
その後急いで山を下り、町へ向かった。
その際勢い余って斜面を転がり落ちそうになったとか、関所で止められて余計な時間をとられたとか、いろいろいろとあったがそれはまあいい。
知り合いの薬屋のところに駆け込むと、幸運にも、兄の足を切って命を救ってくれた金瘡医が、弟子たちを引き連れ薬を買いに来ていた。
鉱山の崩落事故と聞いて渋られたが、この爺が基本善人なのは分かっている。
多少強引に、その弟子たちもろとも鉱山に引き返そうとして、小十郎は薬屋に引き留められた。
「大江の坊ちゃん」
呼ばれて振り返るが、正直それどころではない。一刻を争うと気が急いていて、振り返ったのも首だけだった。
「……ちょっといいですか」
手招かれて、躊躇う。
母が臥せった時にはツケで薬を売ってくれた顔馴染みだが、後日ちゃんと請求してくる商売人でもある。まだ未払い分があったかと、身構えてしまったのは仕方がない。
「急いでいるんだ」
「ええはい」
わかったように頷きつつ、なお手招いてくるのに顔をしかめた。
数歩の距離を戻るなど手間でもないのに迷っていると、医者が先に行くと言ってくれたので、仕方なく暖簾の内側に戻った。
「仙ノ山にお勤めなさると聞きました」
更に身構えてしまったのは、ちょっと胡散臭い薬屋の店主が、これ見よがしに小声で囁いてきたからだ。
「町に怪しげな連中が紛れ込んでおりますよ」
「……怪しげ?」
いい加減な噂話を聞いている暇はないと答えようとして、いつもはニヤついている薬屋の表情が真剣なこと気づき息を止めた。
小十郎の乏しい知識でわかるのは、銀山が毛利やその他周辺諸国に狙われているということだ。実際に父が討ち死にしたのもその類の小競り合いだった。
つまりは何だ、他国の間者がいるというのか? ……ちょっとそれは、仕官したての木っ端役人には荷が重い話ではないか?
「十分にご注意を」
小十郎はなおも数秒、薬屋の顔を見つめた。
それだけか? どんな奴だとか、そういう話はしてくれないのか?
「……わかった」
そう答えはしたが、小十郎にはなにもできない。他国の間者など今更だ。言われるまでもなく、上役たちは知っているはずだ。
礼を言って薬屋を出た。
銀山の敷地内とは違う、人の暮らしの臭いが漂う町だ。強めの風には、煮炊きをする美味そうな臭いが混じっている。
人の喧騒が心地よいこの場所のことは、子供の頃からよく知っている。どんなに目を凝らしても、見えるのは見慣れた日常の風景だけだ。
ふと視線を感じて、宿場がある通りのほうを見た。視界がとらえたものを判断するより早く、ただ周囲を見回したふりをして顔をそむけた。
少し前に瀬川を睨んでいた屈強な男。あいつにそっくりな奴がいた気がしたのだ。
気のせいか? だが小十郎の直感が最大級の危険を告げている。
何でもないふりをして、関所への道を戻り始めた。先に行った医者たちを追いかけるために小走りで。
やがて見えてきた医者とその弟子たちは、ちょうど川に渡された丸太の手前にいた。
小十郎は声を掛ける寸前、無意識のうちにちらりと背後を見た。
バチリ、と音が聞こえそうなほどはっきりと、先ほどは宿場通りにいた男と視線が合った。
そこからは明確に逃走だった。背後から叫ばれた気がしたが、気にせずに走った。
「な、なんじゃ」
縋り付いたのは、医者の背中だ。弟子たちは荷物持ちも兼ねているから、背中がふさがっていたのだ。
小十郎は無言のまま、医者の背中を押した。
ぐらぐらする丸太の橋を強引に渡らせ、その場でぐるりと振り返る。
案の定、瀬川を恐れさせた男がすぐ近くまで迫っていた。
「行ってください。関所の誰かに不審な者がいると伝えてください!」
丸太の橋は、非力な小十郎の足で蹴るだけで簡単に動き、川に落ちた。一本が落ちれば、並べてある丸太が連鎖して傾く。
ギリギリ飛んで渡れるか渡れないかの幅だが、深さはある。その少し手前で、追ってきていた男の足が止まった。
ギロリと鋭い眼光で睨まれて、肝が縮む。
だが怯んではいけないと、険しい表情で刀に手を置く。
睨み合っていたのは、おそらく数秒だ。すぐに男の背後から、丸太が水に落ちる音を聞きつけた者たちが集まってきたからだ。
男はそれに気づいて舌打ちをして、町の方に消えていった。
「何があった⁉」
やがて鉱山のほうから、どやどやと兵たちが駆け下りてきた。十人ほどの男たちは、全員が武装し、槍を持っている。
その物々しさに、小十郎は安堵の息を吐いた。
振り返った先にいたのは、朝方に小十郎に笑いかけてくれた関所の兵だった。
再び関所を通って鉱山に戻った小十郎の目に映ったのは、広場に並ぶ怪我人たちだ。
軽傷な者もいるが、意識のない重傷者も多い。
先に行かせた医者らはすでに、怪我人の治療を始めてくれていた。
そんな中、苦痛のうめき声が蔓延する広場を縫って怒声が響いた。
「符丁がない者は通すとは、どういうことだ!」
ぎくりと身をすくめたのは、女子供だ。
屈強な鉱夫たちが怒りもあらわに身構えると、怒声を上げた竹内はわずかにひるんだが、矛を収めはしなかった。
「それにこの者たちは誰の許しを得て山を下りてきた! 直ちに石銀地区に戻れ! 頭どもは何をしておるっ」
今にも火を噴きそうな怒りに、身をすくめたのは女子供だけではなかった。
山を下りるよう指示したのは小十郎だ。符丁を持っていない医者を連れてきたのも。
頭を下げる覚悟はしていたが、竹内の剣幕を見た瞬間に、頭をよぎったのは大江家の事だった。小十郎が職を失ったら、母と兄はどうなる?
そんな迷いが、一歩踏み出すのをためらわせた。
「申し訳ございませぬっ」
不意に、広場の片隅から大きな声が上がった。人々の視線が一斉にそちらに集まり、すくと立った若者は背筋を伸ばし声を張る。
「某が命じました! 医者を連れてこさせたのも某です!」
瀬川だった。
「ここまで大きな地崩れだと、石銀地区も安全とは言えませぬ! それに医者がおれば救える命もあるはずです!」
言いたかったことをすべて言ってくれた瀬川に、小十郎だけではなく、周囲からも感謝の目が向けられる。
石銀地区がどこかはわからないが、おそらくは鉱夫たちの住まいなどがある場所だろう。それが山にあるのなら、瀬川が主張するとおり何が起こるかわからない。
だが竹内は、ますます顔を赤黒くした。若輩者から面と向かって正論を言われても、怒りが収まるわけがない。
これは、まずいかもしれない。
瀬川が叱責を受けるのは、さすがに申し訳ない。
小十郎は意を決して声をあげようとした。母も許してくれるだろう。そう思いながら。
だが予想していたような流れにはならなかった。
竹内よりも上役の何人かがやってきて、さっさと事をおさめてしまったからだ。
竹内も竹内で、上役に何かをささやかれた瞬間、パッと怒りを鎮めて迎合するような笑顔を浮かべた。
何が起こったかわからないが……助かった。