6-1 鉱山奉行所 奉行居室
突如として現れた尼子軍は、現れた時と同様さっと消えた。
もちろん比喩だ。だが、それぐらいあっさりと夜の闇に紛れどこかに行ってしまった。
てっきり同行するものとばかり思っていた根津様は、「それは得意なヤツに任せる」と言い置いて、指示だけをして再び奉行所に戻った。
五百か、それ以上の軍勢がどう動くのか……あまりいい予想はできない。
まさか山吹城に向かったのか? 鉱夫たちの軍は大森の町の北、山師たちに圧を掛けにいくのだとすれば、山吹城は手薄だ。
どうしよう。このことを本城の殿に伝えるべきか?
小十郎はこの期に及んで、まだ本城を主家と考えている自身が情けなくなってきた。
根津様は、先ほどまでいた帳場とは真逆の方向にずんずんと進む。
おっかなびっくりに冊子をめくり、揺れる蝋燭のあかりに浮かび上がる文字を慎重に追う。
ちらりと横目で見た根津様は、脇目も振らずぱっぱっと紙をめくっている。
その動きは単調で、これは要るもの、これは要らないもの……と、積まれた冊子を仕分けしていく仕草に感情の入る余地はない。
小十郎はため息を飲み込んだ。
ここは帳場ではない。帳場の書類の確認は後回しだそうだ。ではどこかというと……言いたくない。絶対に言いたくない。いや事実は事実として受け入れなければ。
「白湯にございます」
肝が極太の小菊が、楚々とした口調でそう言って白湯を運んできた。紙を濡らしてはいけないから、少し離れた場所に置く気遣いもなかなかのもの。
根津様に差し出すものは割と近くに、小十郎は遠くにという塩梅も、高く積まれて処理されない冊子の量を見ての判断だろう。
「おお、ちょうど喉が渇いたところだった」
癖が強そうな外見に反して、妙に愛想がいい。にこりと笑うとますます鼠……というよりも鼬のような顔つきだ。
目じりに皺を寄せて白湯を受け取る表情は、こんな状況にもかかわらず上機嫌だった。
仕事がうまく行っているからだろうな。思うようにやる人のようだからな。
ここはお奉行さまの居室だ。居室と言っても、住んでいるわけではないので執務部屋とでもいうべきか。
戸を開けた瞬間、壁一面に置かれた棚に、お奉行は仕事熱心な御方なのだと感心するべきか、隠しものは手近に置きたがる気質だと穿ってみるべきか、おおいに迷った。
もちろん、決定的証拠となるようなものはここにはないだろう。監査が来るとわかった段階で処分を考えただろうし、それが詰め所を爆破することだったというのは「待て」と言いたいが、理由はわからなくもない。
小十郎がまず頼まれた仕事は、ない可能性が高い隠し忘れを探すことだった。「ある」ものを探すのではなく、「ない」ものを探すのは難しい。
だが根津様は面倒くさがることもなく爆速で仕事をこなしている。
ちゃんと見ているのか気になるぐらいに、ひとつの冊子に目を通すのが早い。こちらの三倍、いや五倍の速さで手を動かしているから、積まれた冊子の山は小十郎の前にある半分以下だった。
不意に、のそりと佐倉が動いた。
これまで部屋の柱に背を預け、目を閉じ微動だにしなかったのに、唐突に刀を引き寄せたから驚いた。寝てたんじゃなかったのか。
「不忍にございます」
障子越しに聞こえた声は小さく、佐倉が動かなければ聞き逃していたかもしれない。
「入れ」
根津様は湯呑を傾けながら普通の声色で言った。
「失礼いたします」
すうっと障子が開いた。建付けは悪くないが、蝋を塗ったようにスルスル動くほどでもなかったはずなのに、微塵の引っ掛かりもない。
小菊が怯えたように身を震わせた。
静まり返った奉行所内なので、近づいてくる者がいればわかる。そのはずなのに、足音はもちろんのこと、障子を開ける音すらしなかったからだ。
「殿は入れと申されたぞ」
刀の鞘を掴んだままそう言ったのは、佐倉だ。
障子を開けた男は、暗い闇に溶け込むように暗い色の着物を来ていて、両手を前に付き額を床に押し当て、さながらそういう形状の置物か人形のように動かない。
「恐れ多いことでございます」
男は、その体勢からどうやってか更に低く首を垂れた。
「申し上げます。目代様が無事山吹城にはいられました」
「本城に動きは」
「はい。おおむね予想通りかと」
「仁万か」
「はい、仁万です」
根津様と男はさらに何度か短い言葉を交わし、やがて根津様が「わかった。松田様に書簡を書く故、届けてくれ」と言い置いて会話は終わった。
そして何故か、根津様が小十郎を見る。
聞いてはいけなかったかときゅっと口を閉ざすが、目をそらせることは許されなかった。
「聞いたな」
にんまり、と唇を引き上げて囁く。
「仁万だ、小十郎」
名を呼ばれて、背筋が冷えた。さながら、人さらいを前にした迷子のような気分だ。
本当にこの道でいいのか。まだ引き返すことが出来るのではないか。
そんな小十郎の逡巡などお見通しなのだろう。根津様は傍らに置いていた冊子をこちらに向けた。
「銀五貫。仁万湊」
五貫。下級武士なら十人は養える金額だ。いやいやそういう話ではない。
「……拝見します」
小十郎は積み上げられた冊子の山をわきによけて、根津様に近づいた。
みたところ帳簿だ。たいしたことは書かれていない。少し大きめの取引なら、五貫ぐらいおかしな額でもないはずだ。現在の販路は陸が主とはいえ、仁万や温泉津などの海路がまったくないわけでもないだろうし。
直接手では触れず、顔を近づけて書面を見る。
やはり変わったところはなさそうだ。続きは別経由の搬出が単調に記録されている。
首を傾げようとしたところで、根津様は頁を二枚ほどめくった。
まただ。また五貫、仁万湊。
頻繁というわけではないのだが、やはり気になる記述だった。
「どう思う」
更に次の次をめくるとまたある。
根津様の試すような問いかけに顔を上げ、意外と近い距離にあった鼬顔に「ひゅっ」と息を飲み顎を引いた。
「隠し坑道ひとつぶんに見えます」
あっ、しまった。ここまで露骨に言うつもりはなかったのに。
……そう。一見地味な数字のようだが、毎月搬出しているようなので合わせると結構な量だ。
年間にしてざっと六十貫か? 武士だけの軍勢を武装込みで百人分ぐらい用意できそうな量だ。
「いや、隠して掘っているのなら二つ三つ分はあるのやもしれぬ」
根津様はうんうんと頷き、冊子を手元に引き戻した。
あとは、年間搬出量を合計し、尼子に年貢として収められたものと比較するのだそうだ。
……誰が?
言わずものがなの問いかけは、口の中に溶けて消えた。
「兵を、仁万に送ったのですか?」
代わりにこぼれたのは、もっと踏み込んだ言葉だ。
小十郎はしまったと口を押さえたが、返ってきたのは蝋燭の明かりに揺れる「悪そうな顔」だ。
山吹城ではなかったと安堵したい気持ちは、あっさりと覆された。
いや待て、これはもっと大きな話になるのではないか。
漠然としたその危惧が確信に至るまで、それほど時間はかからなかった。
いろいろと試されている小十郎君14さい