5-7 鉱山奉行所前
根津様はじっと小十郎を見つめてから立ち上がった。
小十郎もあわてて腰を浮かせるが、後ろからポンと佐倉に肩を叩かれる。
「ここからは大人の仕事だ」
「い、いえ某は」
元服を済ませた大人なのだ、そう言おうとして、ひっくと思いっきりしゃっくりが出た。
これはいけない。
おいて行かれそうになって慌ててついていくが、先導する馬場が手燭をもっているので足元がよく見えていなかった。敷居で躓いて大きな音を立ててしまった。
立ち止まった根津様がこちらを振り向く。
何かを言おうと口が動いたのは見えたが、それよりも、佐倉が勢いよく正面の戸を開ける方が早かった。
ごう、とまず音を感じた。夜の闇に燦然と輝く篝火。いくつもの松明が燃え盛る音だ。
ばさり、と旗指物が揺れる音。馬たちの嘶き。
奉行所の前の広場に、圧倒されるほどの軍勢がひしめいていた。
どこからこんな人数が湧いて出たのだ。馬までいるし。夜だから多く見えるだけだろうか。
派手な備えではなく、夜に溶け込むような地味色の武装なので、よけいに人数の把握が難しかった。
確実に言えるのは、これだけの数の兵はどこにもいなかったはず、ということだ。
しかも監査だなんだと内々に働く兵ではなく、純粋に武力としての兵だ。
「……どうやって」
ぞわりと全身に鳥肌が立った。
大森の町を経由しての派兵なら、神屋や庄次郎は気づいたはずで、何らかの忠告をくれただろう。つまり大森経由ではない。このぶんだと山吹城も気づいていないだろう。ではどこから?
「あっ」
福屋家だ。石銀地区を通って、ひそかに兵を移動させたのだ。
しかも今は本城側で働く鉱夫も、奉行所の者たちもいない。山を守るための兵も……。
「組頭の幸田とやらは、こちらで確保しておるゆえに心配せずともよい」
ようやく耳に届いた根津様の言葉に、小十郎は呆然と立ち尽くした。
何もかもが、思いもよらない方向に突き進んでいく。
してやられたというか、手のひらの上で踊らされたというか。
思わず、乾いた笑い声がこぼれた。拭わず放置した涙のせいで、目じりがヒリヒリと痛い。
「……裏方のやり方ではなかったのですか」
そう問うと、根津様はわずかに口角を上げた。
「表ざたにはならない仕事ゆえに、裏方と申すのだ」
どういう意味だ? ざっと見たところ五百、いやもっといる。これだけの兵が動いて、表ざたにはならないわけがない。
二万三万の兵が動く戦場なら、些少の数と言えるかもしれないが、石見の田舎で五百はけっこうな数だ。裏方? どこが?
そんな疑問がデカデカと顔に書かれていたのだろう。根津様が目じりに皺をよせながらこちらを横目で見た。
「よく聞け、小僧」
ふふふと不気味な含み笑いが、痩せた男の背中を揺らす。
「国を治めるには武だけでは足りぬ」
そう言い放つ根津様は、佐倉にくらべても、いや一般的な大人の中でも体格的には貧弱だ。
「知恵だけでもうまくいかぬ」
だがしかし、背筋を伸ばして一歩踏み出したその背中には、大勢の物々しい鎧武者の前に立っても見劣りしない存在感があった。
「上手くいかぬのなら、上手くいくようにすればよい」
言っていることはわかる。わかるが……それって裏方の仕事か? 要するに力づく、ごり押しだろう。
思いっきり引いている小十郎に、もう一度悪戯っぽく笑って見せて、根津様は草履を履いて土間に降りた。
これから隠し坑道を探しに行くのだろうか。あるいは、お奉行の軍勢に続くのだろうか。
焦って追いかけてきたが、どう考えても小十郎はお呼びではない。小菊もいるのだ、今にも戦に向かいそうな厄介ごとに頭から飛び込むのはちょっと。
そもそも、一介の小役人に過ぎない若輩者に、国を治める云々は大きすぎる話というか……。
すっかり腰が引けてしまった小十郎に何を思ったか、これまで黙ってずっとついてきていた小菊に足を踏まれた。
「いっ」
思いっきり踵をねじ込まれて飛び上がる。慌てて足を引くが、更に追撃。
何をする! と涙目で睨むと、小菊は小十郎の袖を掴んだまま、唇をへの字に曲げていた。
足を踏まれた痛みや怒りよりも、彼女の雷を回避せねばと思ってしまったのは、付き合いが長いせいだ。
そして小菊もまた、小十郎がどう感じるかなどお見通しとばかりに、ぎゅっと鼻頭に皺を寄せて顎を上げた。
どうしよう。小菊が何を言いたいか分かってしまった。
根津様についていけ、離れるなと。
昔から、小心者の小十郎と違って思い切りがよく、判断の早い子だった。どうやらそんな彼女の直感が、そうしろと言っているらしい。
だが小菊はどうするんだよ。小十郎は一応元服を済ませた正式な武士だが、小菊は武家でもない町の子じゃないか。こんなところに置いていくわけには……
今度は脛を蹴られそうになって、慌てて避けた。わかった。わかったって!
「根津様」
小十郎は一歩足を踏み出し、控えめな口調で言った。
踏まれた足の甲がズキズキするが、表情には出さない。
「何かお手伝いできることはございますか」
ないよね? ないよね? 木っ端役人の小僧に頼みたいことなんであるはずがない。
心の中でそう懇願しながら、勢いよくぐるりと振り返った根津様をはじめ、その場にいる大勢の視線を浴びた。
一瞬、あれ? と思ったのは、大多数の目が「正気か」と問うてきたからだ。
失敗したかもと目だけを動かすが、兵たちからは露骨に視線を避けられている。
だが佐倉は相変わらず平然としているし、馬場の表情はどちらかというと苦笑寄り。根津様に経っては……満面の笑み。
「えっ」
思わずこぼれた声は無視され、根津様にがしっと両肩を捕まれた。
「いや、助かる。まわりが武辺者ばかりで役に立たず、どうしようかと思うておった」
えっ、本当に……えっ?
とっさに数歩、後ろ向きによろめいた小十郎から、佐倉すら視線を逸らせた。