5-5 鉱山奉行所内3
ここまでくれば後には引けない。いかにうまく、穏便に! ことを収めるかだ。
小十郎は、暗い夜の廊下を、手燭を持って歩いていた。
考えがまとまらないのは、聞きたくなかった衝撃の事実のせいもあるが、真後ろからスタスタと聞こえてくる足音に心底怯えているからだ。
暗い。怖い。振り返りたくない。
揺れる明かりが作る影から、今にもお化けが出てきそうだ。だがそれよりももっと恐ろしい存在が真後ろにいる。
無言の根津様だ。
武ばった所の少ない方なのに、闇の中にあの目が光っていると思うだけで震え上がってしまう。
きっと頭からガブガブと食われてしまうのだ。
「どうした?」
帳場が見えてきたあたりで足取りが重くなり、不審そうに声を掛けてきたのは佐倉だ。
「い、いえ」
小さく首を振り、気を取り直して先へと進む。
出仕初日、ここから宗一郎「殿」と一緒に帳面を運んだ。それがたった三日前だというのが信じられない。
奉行所を出てすぐのところで陣内とやらに見つかって、宗一郎殿はさぞかし肝を冷やしただろう。一介の新人文官を装うために、護衛を遠ざけていたのだろうから。
根津様によると、宗一郎殿が本城家に婿養子として入るということはまだ知られておらず、尼子から訳アリで送り付けられた厄介者と思う者も多かったそうだ。
……まあ、そうだよな。いずれ本城を名乗り、もしかするとご嫡男を押しのけるかもしれないなどと、本決まりでもないのに言えるはずはない。
知っていた者がいたのは確かで、だからこそ狙われることになったのだろうが。
ちょっと待って。この先もこの設定で行くのか? まさか小十郎が護衛の代わりに張り付くとかないよな? ……無理。絶対無理。
ますます裏切り者扱いされる未来しか思い浮かばず、手蜀を持つ手が震えた。
危ない。袖を握っている小菊の頭の上に落とすところだった。
「こちらです」
小十郎は閉め切られた戸の前に立って咳払いした。
「任官して三日目ですので、どこに何があるかはわかりませんが」
期待されても困るので、はっきり言っておく。
佐倉が手で退くようにと言ったので、素直に数歩下がった。
しまった。根津様の真横に立ってしまった。見ないぞ。絶対根津様のほうは見ないからな。
「……っ」
不意に腕を掴まれて、飛び上がった。
見ないと心に決めていたのに、とっさに身構え怯えた目で根津様を振り仰いだ。
幸いにも、根津様はこちらを見てはいなかった。
「奉行所内はざっと調べてある。人はおらぬはずだが、用心は怠るな」
これは小十郎に言ったのか? この人は何故、忠告するようなことを言ってくるのだ?
同じことを考えたらしい佐倉が、首だけでこちらを振り返って肩をすくめた。
「はいはい、荒事は某の仕事でございますよ」
同時に、蹴破る勢いで引き戸を開いた。
静まり返った夜の奉行所内で、その音は身をすくめたくなるほど大きかった。
「……誰もおりませんな」
入口のところでひと通り帳方の中を見回した佐倉が、なんということもない口調で言った。
「棚の間も見てまいれ」
「その間に後ろから襲われたらどうされるんで?」
「馬場がおる」
根津様が小十郎を戦力にいれていないようで助かった。
初日に案内されたときには人が多くいたせいか感じなかったが、帳場はかなり広かった。
奥のほうに帳面が置かれた棚が、手前には文机が並んでいる。室内は暗すぎて、手燭のあかりだけでは見渡せない。
あたりまえだが、一昨日ぶりの帳方を懐かしいとは思わなかった。
無人なのでただただ不気味だ。
「さて、どれだけの記録が残っているかな」
安全と分かった帳場に足を踏み入れながら、根津様がつぶやく。
ひやりと背筋が冷たくなるような口調だ。
これはあれだ。記録があれば隅から隅まで調べるし、なければ隠したいことがあるのだろうと追求しくるやつだ。
「裏方には裏方のやりかたがある。せっかくだから教えてやろう」
結構です! 御免こうむります! ……素直にそう口にできる気質ならどんなにいいだろう。
小十郎は頬をひきつらせながら、「ご教授賜ります」とぼそりと返した。
小菊と馬場の手で、部屋中の明かりが灯された。暗がりに慣れた目には堪えるほどの明るさだ。
佐倉と小十郎は、端の棚からすべての帳面を運ぶようにと命じられた。
根津様自ら、すべてに目を通すようだ。
取り急ぎ奥の棚からと言われたのには理由があって、人は本能的に重要なものは奥にしまい込むものだからだそうだ。
だが、無駄骨のような気がした。
たった一度、ちらりと目にしただけなのだが、明らかに一昨日より帳面の数が少ないからだ。
これは言ったほうがいいのか? 胸に納めておくべきか?
「……あの」
棚ふたつ分の帳面を積み上げ終えてから、小十郎はおずおずと口を開いた。
黙っていても、記録に隙間があることにはすぐに気づくと思ったからだ。
根津様が顔を上げた。
そのことを告げようとした小十郎の口が、不意に止まった。
やはり言わないでおこうと思ったわけではない。とある重要なことに気づいたからだ。
はくはくと口が開閉する。だが言葉が出てこない。
たぶん、尋常ではない顔色をしていたと思う。
じっとこちらを見ていた根津様が、帳面を閉じた。真剣に話を聞く態勢だ。
ありがたいことに、問い詰めてくるようなことはなかった。
ひとつ、ふたつ、みっつ……と、浅い呼吸を繰り返してから、小十郎はようやく喉から声を絞り出した。
「詰め所が」
ごくりと唾を飲み込む。
昨日、仕掛けられていた炮烙玉が爆ぜた。目的は銀山そのものだと考えていたが、違うのかもしれない。
他ならぬ宗一郎が、書類を詰め所まで運ぶ仕事をしていた。
下っ端に見られて困るようなものではないだろうと思い込んでいた。
「……大事なものはすべて燃えたかもしれません」
ぎっしり棚に積まれていた帳面。
その側に、油紙に包まれた焙烙玉が隠されていたのだ。




