5-2 鉱山関所
懐に潜めた符丁を握りしめ、普段より多めに篝火が焚かれた関所に近づく。
あちらからも小十郎の姿が見えてくるはずだ。だが見張りの男は関所の内側を見ている。
何だ? 何かあったのか?
無意識のうちに足が早まった。
「………っ!」
甲高い声が聞こえた。子供の声だ。
叫んでいる内容はわからない。だが……小菊だ!
ざっと土を蹴って全速力で駆けた。驚いた門番がこちらに気づき、身構える。
幸いにも、初日に顔をみた男だった。それでなければ、小弓を片手に駆け寄ってきた小十郎を初手から排除しよとしたに違いない。
だがそれが、時間を稼いでくれた。
「放せっ! 放せぇぇぇぇっ‼」
小十郎が目にしたのは、屈強な男にぶら下げられた幼い小菊。足をじたばたと動かし、必死で抵抗している。しかもその男が、宿場通りから丸太の橋まで小十郎を追いかけてきた奴ともなれば、とっさの行動の引き金としては十分だった。
走りながら右手で矢を取る。
門番が慌ててこちらに向かってくるが、間に合う。速度を緩めず走りながら弦を離した。
小十郎の武器は小弓だ。長弓に比べて威力はそれほどない。だが人の無防備な身体を射抜くには十分で、狙い過たず武具のない腕に命中した。
駆け寄ってくる門番の手を、ゴロリと身体ごと転ぶことで躱し、更にもう一本。
「ちっ」
思わず舌打ちがこぼれた。外した、というよりも武具で受けられた。
ぐっと襟首をつかまれ体勢が崩れた。門番だ。だがあと一本撃つ間はある。
小菊が地面に落とされ、尻もちをついている。せめてあの子が起き上がり、こちらに向かって走ってくる時間は稼ぎたい。
「小十郎様っ!」
関所を挟んで、小菊との間には五人以上の男たちが立ちふさがっている。
だが狙うは、寸前まで小菊をぶら下げていたあの男。やはり威力に欠けるのだろう、上腕に刺さった矢を無造作にへし折り、蚊に刺されたほどでもないと言いたげだ。
先ほどは急所の喉を狙ったから防がれたのだ。足ならどうだ?
そこからの事は、妙にゆっくりと感じた。
三本目の矢を放つ。集まってくる男たちの間を縫って、過たず目的の男に届く。男は避けようとしたが、それは織り込み済みだ。
男は予想した通りの動きをした。矢は、その太ももに吸い込まれるように刺さった。
小菊がこちらに手を伸ばして走ってくる。涙でぐしゃぐしゃの不細工顔だ。
「っ、太助が切られた! 急いで戻れ!」
そう叫んだ瞬間、ガツンと後頭部を殴られた。
倒れる姿を小菊には見せまいとしたのだが、倒れるどころか地面を乱暴に引きずられ、みぞおちに容赦なく槍の柄を叩きこまれて苦悶の声を上げてしまった。
ごめん。不細工って思ってごめん。弱くてごめん。そのまま走れ。気にせず走れ。後ろを見ずに山道を下れ。
「小十郎様っ!」
逃走経路は開けた、町には兵が向かっているが、小菊ならうまく避けるだろう。
逃げろ。今すぐ逃げろ。
しくしくと泣く声に引き寄せられ、意識が浮上した。
小菊? 泣いているのか? 負けん気が強く強情な小菊が泣く所など、ずっと幼いころ以来見たことがない。
「こ、こじゅ……」
盛大に号泣する小菊の泣き声。
ドスンと腹に重い者が激突して、衝撃で息が全部出た。
「小十郎様!」
激しく咳き込む。揺らすな! ガンガンと後頭部が床にぶつかる。
「……無茶をする」
なおも泣き続ける小菊の大声でよく聞こえないのだが、誰かがそう言った。
「殺されていてもおかしくなかったぞ」
ひょいと小十郎の顔を覗き込んできたのは、槍男、佐倉だ。ちなみに今は槍は持っていない。
「ああ起きるな」
飛び起きようとして悶絶した。小菊の頭突きにではなく、頭に激痛が走ったからだ。
恐る恐る手で触れてみると、冗談のようにぽっこりと盛り上がっている。
まさか小菊のせいではないだろう。……思い出した。
鉱山の関所で、小菊を逃がそうと小弓を射たのだ。小十郎の頭を殴りつけたのは、おそらく門番の槍だ。今更ながらに肝が冷える。殴りつけられた程度で済んでよかった。刺されていたらそれどころではなかったはずだ。
「気分はどうだ? 眩暈などはせぬか」
「……少し」
「吐き気はどうだ?」
やけに親身だ。怖くなってくる。
「ありません」
佐倉は心得たように何度か頷いて、「まあ、大丈夫だろう」と言った。
あまりにも優しい口調だったので、懐柔するつもりかと目を凝らす。
室内は暗く、まだ夜のうちのようだ。
見知らぬ部屋の、見知らぬ寝具の中に寝かされていて、ここはどこなのか、あれからどうなったのか……怖くて聞けない。
「こ、小十郎様が死んだかと思った!」
びいびいとむせび泣いていた小菊が、ようやく意味のある言葉を漏らした。
「死んだかと思ったぁぁぁぁぁっ‼」
むんずと胸ぐらをつかまれたので、また揺すられるのかと警戒したが、小さな頭をぐりぐりと擦りつけてきて、なおいっそう大音声で号泣しはじめた。
どうすればいいのかわからず、きょきょきょろと視線を泳がせ、最終的にしがみついてくる小菊の背中に恐る恐る手を添えた。
温かい。生きている。
少なくとも、この子を死なせずに済んだのはよかった。
「女を泣かせちゃあいかんな」
佐倉は先ほどからずっとニヤニヤと笑っている。この男の対応が違うのは小菊のせいもありそうだ。
「……何がどうなっているのでしょうか」
「それはこちらが聞きたいね」
カツン、と硬い音がした。
これまで存在すら気づかなかったのだが、同じ部屋の上座ほうに、膝を立てたくつろいだ姿の根津様がいた。
根津様の前で昏倒していたのかと青くなり、慌てて背筋を伸ばそうとしたが、小菊の馬鹿力で胴回りを圧迫されてできなかった。
カツンと再び音がする。脇息で頬杖をつき、反対側の手で扇子を弄んでいる。軸の部分が時折床にぶつかり、カツンカツンと音がするのだ。
小菊の大号泣が不快なわけではないだろう。情けなくも小十郎が気絶していたことも。
だが間違いなく、その痩せた顔に浮かんでいるのは苛立ちと怒りだった。