4-10 太助の旅籠から山道再び
小弓を手に取り、左手で革の握りをつかむ。
弓の腹を膝に当ててそっと押し、弦が軽く張り返すのを確かめた。
木の芯が、まだしっかりと生きている。
それもそうだ。子供の遊びは終わりだと、箱に封じてたった半月ほどだ。
弓を脇に置き、次は傍らの矢筒を手に取る。筒口から短い矢が七本、羽根を揃えて並んでいる。
すっと一本、引き抜く。
わずかに差し込む月明かりにかざすと、使い込まれた矢羽根がやや擦れているのが見て取れた。破れてはいないだけまだましか。
指で矢柄をひとなで。ゆがみがないことを確かめる。
矢じりについては、半月前に点検をしたので問題ないはずだ。
小十郎は、握ったままの矢を、瞬き数回分の間だけじっと見下ろした。
慣れ親しんだ軽さの、慣れ親しんだ矢だ。
これで誰かを射るのかもしれない……そんな予感が、手の中でじくじくと重みを持つ。
だが臆している場合ではない。飛び立った鳥を射抜くことが出来るのだから、人の急所に当てることなど簡単なはずだ。
矢を元の位置に戻し、筒を背負う。
胸の前に回った紐をひと結び。動いても揺れず、走ってもぶれない位置を確かめた。
そして、弓を拾い上げ静かに立ち上がった。
こちらも、くるりと身についた動作で背中に回し、弦が肌に擦れないように角度を整える。
手を伸ばせば、指先が自然と弦に触れる位置に納まり、これで音もなく弓に矢をつがえる体勢は整った。
「……本気でおひとりで行かれるんで」
一連の動きを無言で見守っていた庄次郎が、気づかわし気な口調で言った。
月明かりがわずかに指す窓側、庄次郎の表情はまったく見えない。
だがそれでよかったのかもしれない。この男に、無理だ駄目だと言われたら、そこで諦めていたかもしれない。
……いや違う。小菊だ。小菊を探しに行くのだ。
「鉱山に入るには、符丁がいる」
腰ひもに括り付けて懐深くに納めていた割符は、正当に鉱山の関所を通してくれるだろう。庄次郎や山師らも持ってはいるはずだが、彼らは奉行所の中にまでは入れない。
「絶対に見つける」
沸き起こってくる不安を押さえつけ、背に負った弓矢の重みを確認する。
「町の方は任せる。山の中に入ってしまえば、今はまだ安全なはずだ」
庄次郎は、小十郎がたびたび命を狙われていることを知らない。
知っていたら止められていただろう。 だからあえて、言わなかったのだ。
伝八がこの場にいないのも、都合がよかった。
あの男を信じることができないのは、得体のしれなさよりも、この町の者ではないという認識があるからかもしれない。
それでいうなら、宗一郎もだ。
この町に鉄砲を持ち込み、鉱山では炮烙玉を使った何者か。
それが宗一郎と関係していないとは言い切れない。
町の外れ、蹴飛ばして落とせる丸太の橋まで行く途中に、その番所はある。
大森の町と鉱山とを隔てる最後の関門。明るいうちは開け放たれ、人や荷の出入りが絶えぬ場所だ。
まずはそこを通してもらい、門番たちに注意喚起をして……と、頭の中で立てていた算段は、番所が見えるところまで近づいたとたんに崩れた。
明かりは消え、番人の姿もない。建て付けの悪い開き戸が風にわずかに揺れているだけで、不気味なほど静まり返っていたのだ。
おかしい。
番屋には、夜には常に見張りがいる。昔からよく知っている気のいい男たちだ。
彼らのほとんどが武士ではなく、年寄や名主の配下の者たちだ。通してもらった後に、木戸をしっかりと封鎖して、誰も通さないようにと伝えるつもりだったのに。
数刻前にここを通った時には、まだ普段通りの喧騒、普段通りの門番たちが立っていた。
そろそろ門を閉めるかという掛け声も聞こえていた。
小十郎は、不気味なその静けさに否応もなく緊張しながら、足音を潜めて番所に近づいた。
夜じゅう明かりがともっているはずなのに、どこもかしこも真っ暗だ。
門番たちの詰め所をのぞいてみようと、戸に手を掛けたところで、太助のことを思い出した。
番所に助けを求めようとしたと聞いた。てっきり寺町か山吹城方面だと思っていたのだが……もしかしてここか?
小十郎の手は、木戸に伸ばされたまま止まった。
この戸の先に、太助を切った敵が身を潜めているのかもしれない。
伸ばした手をそっと下ろし、今更だが足音を潜めて後ずさった。
冷静に考えれば、敵がいるのだとしても番所ではなく、そこを見張る位置に隠れていそうだが、この時の小十郎にはその判断はできなかった。
これまで通り、建屋の影伝いに身をひそめながら、静かに町の境の木格子まで走る。
小菊がここを通ったか、門番に聞いてみようと思っていた。それがこんな状況とは。
何が起こっているのかいまだにわからないが、尋常ではない事態だということは確かだ。
夜間は閉ざされる格子戸は、遠目には普段通り閉じているように見えていたが、よく見れば閂が掛かっていない。
さっと見回すと、目立たない位置に隠されるようにして置かれている。そして……
小十郎はぐっと奥歯を噛み締めた。
月明かりも刺さない路地裏。丁度番所の横手の細いところに、こちらに向いて伸ばされた白い手が見えたからだ。明らかに死体だ。門番のうちの誰かの。
無言のまま、彼らの息がないことを確認した。
総勢四人。夜ごとの番人の数は二人なので、丁度交代の刻限に殺されたのかもしれない。
これはもう、一刻の猶予もない。
何かが起こるのだとすれば、この夜のうちだと確信した。
子供のころから山を駆け回っているからと言って、体力があるわけではない。
気持ちは急いて、鉱山に続く山道を走りだしたが、すぐに息が上がった。
木の幹に手をついて、ぜいぜいと喘ぐ。まだ半分も来ていない。
この道を通ったのは数刻前だ。その頃はまだ太陽があった。
すれ違う者がいたら気づいただろう。年端もいかぬ少女ならなおのこと。
一本道なので見逃したとも思えず、入れ違いになったか、あるいは、小十郎が奉行所を抜け出した時にはあの子はすでに中にいたのかもしれない。
騒ぎにもなっていなかったから気づかなかった。
知っていれば、逃げ出しはしなかったのに。
気合を入れて再び走り出す。とはいえ体力問題はどうしようもない。
せめて足は止めるまいと、わき腹の痛みをこらえながら先に先にと進む。
ようやく鉱山の関所が目視できる距離まで来た。夜の山は暗く、篝火の明かりは遠くまでよく見える。
おそらく距離的には三分の二ほどだろうか。
木の幹に手をついて荒い息を継ぎ、あと少しだと自身を鼓舞する。
月明かりが道に差し込んでいる場所を避けようと、斜面沿いを進んでいる最中、きらりと何かが光るのを見た。
この場所は、伝八の手代の振りをして山を下る際に、射られた場所だ。
何者かが射た矢が、回収されずに木の幹に刺さったままになっている。
さああっと風が吹き、木々の隙間から月明かりが差した。
矢には、それぞれ特徴がある。その矢羽根や矢柄、矢じりなどだ。
木の幹に刺さっている矢には見覚えがあった。鷲羽の矢羽根だ。黒い強めの縞が入り、鋭く尖った羽軸がまっすぐに伸びている。
薄明かりに浮かぶその詳細を見た瞬間、小十郎の口から「ああ」と乾いた声がこぼれた。
血を吹き倒れる神屋の肩から生えていたものと同じだった。
弓矢については素人につき、空想の中に落とし込むのに苦労しました
か、会話がほぼなし回w




