1-3 崩落1
幼少期から、刀よりも畑で鍬をふるうことが多かった小十郎だが、畑仕事をする田舎者の全員に体力があると思わないでほしい。
むしろ食うに困る貧しい暮らしで、どうやって屈強な身体を作るんだ。
槍や刀をもって戦場を駆け回った父や兄とて、そう大柄というわけでもない。母など小枝のように痩せている。
何が言いたいかというと、急斜面になっている山道を駆け上るには、小十郎の足腰は貧弱だったということだ。女や子供や老人ですら、重い荷物を担いで往復する道のはずなのだが。
更には、大勢が避難しようと山を駆け下りてきていて、その人波に逆行するのも大変だった。
押し返されて後退することもしばしばで、小さな崖のような場所から滑り落ちていてもおかしくなかった。大勢が一斉に叫んで走り抜けていくので文句も言えない。
もうもうと砂煙が立ち込め、まともに目も開けられないし息も吸えない中、ようやく騒ぎのもとにたどり着いた。
崩落が起きてから四半刻は経っていたと思う。
必死だったから気づかなかったが、そこは崩落現場ではなく、土砂の中から掘り出された者たちが集められている場所だった。
乱雑に並べられた死体は土まみれで、戦場を知らない小十郎にとって地獄のような光景だった。
砂塵で目をやられて、涙が頬を伝う。瞬きをしても、もはや異物感ではなくヒリヒリとした痛みしか感じない。
山道を登って息も絶え絶えの小十郎は、その涙が生理的なものか、自分が泣いているのかもわからない状態で両膝を折った。
生きている者もいる。だがその者たちも、腕や足が無残に潰れている。
細い声で泣く子供が、動かなくなった男にすがっている。父親だろうか。だがその子の足も、太ももから下が血まみれだ。
……なんてことだ。
内心逃げ出したくてたまらなかったが、小十郎はぐっと奥歯を噛み締め頬の涙をぬぐった。
「崩落」という言葉は聞いたことがある。鉱山でしばしば起こる事故なのだそうだ。
しばしば? ……その言葉を覚えた時にはわからなかった現実に、打ちのめられそうになる。
小十郎は懐から取り出した手ぬぐいで、血の気の失せた顔をしている子供の足を縛った。
戦場から戻った時、兄の足はすでに失われていた。止血をしてもらわなければ死んでいたそうで、その時のことを根掘り葉掘り聞いていたのだ。
「と、とうちゃ」
小十郎よりもずっと小さな子供が、力のない声で父を呼ぶ。
ちらりと見た屈強な鉱夫は、もう息をしていなかった。その胸元の守り袋を首から抜き取り、子供の手に握らせてやると、うつろな目にブワッと涙が浮かんだ。
「……生きろよ」
小十郎はそう言って、泥が乾き始めた子供の手を、守り袋ごとぎゅっと握った。
その後も、どんどん死体と怪我人は増え続けた。
時間を経ることに死体のほうが多くなり、苦痛の声に交じってその近しい者たちの嘆き声が響く。
小十郎にできることはほんのわずかで、死体と怪我人の仕分けと、可能なようなら止血の真似事と、悲壮な表情の子供たちの頭を撫でることだけだった。
そうこうしているうちに周囲を取り巻いていた砂塵が薄れ、春の陽光が容赦なく現実を突き付けてくる。
いったい何人死んだ? どれだけの怪我人が出た?
「邪魔だ!」
そんな小十郎の背中を、誰かが強く押した。
つんのめって吹き飛ばされそうになり、振り返ると、いかにも気が荒ぶった男が怪我人を二人、両脇に抱えて仁王立ちになっていた。
背中を押されたというよりも、空いている場所に怪我人を寝かせたかったようだ。
小十郎はとっさに両手を伸ばし、意識のない怪我人たちを支えようとした。仁王立ちの男はそれを振り払うように分厚い身体をねじ込ませ、二人を土の上に寝かせた。……ああ、ひどい怪我だ。
「医者を」
思わずそう呟いた言葉がにかぶせるように、盛大な舌打ちが返ってきた。
そんなものは来ないと言いたいのだろう。
小十郎とてわかっている。鄙びた田舎の片隅の、食うに困るほどの貧乏武家の出だ。
医者を呼ぶには金がかかる。いい医者ならなお高い。目の前にいるような、眼球に木片が突き刺さっているような怪我を診てくれる医者は、こんなところには来ない。
男が運んできた怪我人は、片方は女だった。小十郎の母に近い年齢だ。肩のあたりに腕ほどの太さの木切れが食い込んでいる。
右目に木片が突き刺さっているのは、鉱夫にしては線の細い若い男だ。日焼けして顔も泥で汚れているが、瀬川ぐらいの歳だろう。
二人とも土気色の顔をしていて、いまにも息絶えてしまいそうだった。
彼らを運んできた男が、女の傍らに両膝をついた。分厚い手でするりと彼女の頬を撫で、痛みをこらえるような表情になる。
「逝くな、逝くな、わしを置いて逝くな」
そうか、この男の連れ合いか。
男の慟哭は短く、小声だったが、鋭く小十郎の胸を刺した。
まともに見ていることが出来ず、目を背けるが、それでも視界に入るのは地獄絵図だ。
ここにいる誰もが、小十郎が関所を通り抜けた時には生きていた。奉行所で挨拶まわりをし、詰め所まで帳面を運んでいたその間に、どれだけの命が無残に散らされたのだろう。
「怪我人を山から下ろそう」
その呟きが、誰かの耳に意味のある言葉として届いたとは思わない。独り言のように頼りなく、細い小さな声だったからだ。
小十郎はゆっくりと息を吐いた。
医者がいないにしても、止血などの手当てはできる。大森の町に行けば薬売りもいる。こんな時代だ、多少なりと治療の心得がある者もいるだろう。
大切なのは早さだ。時間が経てば経つほど、怪我人の命が失われていく。
それから覚悟だ。下っ端役人の小十郎は、勝手な真似をする権限などみじんも持ち合わせていない。いや逆に、初日の何も教えてもらっていない今だからこそ、知らなかった分からなかったと言い訳もつくのではないか。
そんな風に身構えてしまうのには理由があった。小十郎以外の役人の姿が、いまだどこにもないのだ。
これだけの騒ぎが起こっていて、気づかないなどあり得ない。つまりは、役人たちは気づいているのに来ないのだ。
現場を仕切っている者たちはいる。だがその誰も武士ではない。
つまりは、崩落事故の対処は役人の仕事ではないのだろう。
初日から目立ちたくなかったが、仕方がない。新人の出しゃばりで片が付くなら、いくらでも頭を下げる。
小十郎は手を伸ばし、背中を丸めている男の腕をつかむ。反射的に振り払われたが、構わず声を掛けた。
「大森の町に、医者がいないか聞いてくる。薬師の心得がある者には心当たりがある」
妻だけを見ていた男の目が、ゆっくりと小十郎の方を振り返った。
「……なんだと」
「怪我人を山から降ろす。手を貸せ」
「無理だ。我らは関所を越えることを許されておらん」
鉱山で働く者には罪人も多い。もちろん一般の働き手もいるが、特に危険な坑道内で岩を掘る役目は、そういった者たちが担うのだ。
「ならば連れてくる」
小十郎は、真っ赤に充血した男の顔を、至近距離から見据えた。
「生きているなら、諦めるな」
奇しくもそれは、父が最期に兄に遺したという言葉だった。