4-9 太助の旅籠2
戸が開いた瞬間、青ざめた春の顔を見て察した。
視線が絡んで、彼女もまた小十郎が知っているのだと気づいただろう。
きゅっと下唇が噛まれ、口角が上がりえくぼが浮かんだが、それはまるで泣き顔のようだった。
「小菊は」
――お山に。
小十郎の問いかけに、春は唇の動きだけで告げた。
同時に、勝手口の内側から伸びてきた手が胸ぐらをつかんできた。
春がその腕にしがみつき、もう一人が反応する前に庄次郎が剛腕で介入した。
苦痛の声を上げる間もなく、吹き飛ばされ昏倒してしまったひとりと、春がしがみついている男。勝手口の周辺にいたのは春を入れて三人だ。
「まだ奥にふたりおります!
男の腕にしがみついたままの春が叫ぶ。
「っ、離せ女!」
「抜け荷の銀を隠し持っております!」
じたばたともがく男はそれなりに大柄だったが、春が全体重を乗せて腕を逆向きにひねり抵抗を封じていた。
土間を駆け抜け、土足のまま厨から旅籠内に飛び込んだ伝八が、狭い廊下を利用して巧みに二人を相手取って小刀をふるった。
くぐもった声がいくつか。暴れる音も悲鳴もなにもなく、敵は倒れ伏した。
小さな旅籠に宿泊していた浪人は合計六人。その人数にはふさわしくない荷物の量に、太助が疑心を抱いたのは昼過ぎ。
ほかの客たちをそれとなく逃がし、番所に訴え出ようとしたところで勘付かれたそうだ。
刃をちらつかされはしたものの、殺すつもりはないと、逆に明日までの面倒を頼んできたというのは、図太いというか、ことが露見するはずはないという自信の表れか。
春いわく、その「明日」が来れば殺されると感じていたそうだから、やはり忖度や配慮の必要のない夜盗扱いでよさそうだ。
三人は暗くなるのを待って、逃げようとした。
だが、小菊が抜け出したところで、目ざとく気づかれた。
夫婦は縄で縛られて、ひとしきり小菊の行く先を聞かれた挙句、太助にあの子を連れ戻すようにと命じ、二人の武士とともに夕刻、宿を出たそうだ。
春は人質になった。そして、太助は切られた。
間違いなく口封じだろう。こうなってくると、小菊も無事か怪しい。
「小十郎様がお勤めの奉行所に行けば、抜け荷の調べをしてくださるだろうと。……小菊には会いませんでしたか」
「すまない。会っていない」
覚悟していたのだろう。春は真っ青な顔で頷く。
「太助は怪我をして、円ら堂で手当てを受けている。早く行ってやれ」
庄次郎の言葉を聞いて、震える息にすすり泣きが混じった。
「ですが、小菊が」
「急がないと間に合わねぇ」
ぶるりと春の唇が震えた。カタカタと数回奥歯が鳴り、きゅっと口を閉ざして嗚咽をこらえる。
そんなことはない。太助は絶対に生き延びる。きっと春は、そう励ましてほしかったと思う。
だが小十郎ができたのは、震える彼女の背中をそっと撫でることだけだった。
「これを見てください」
春が震える足で円ら堂に向かうのを見送って、やはりひとりで行かせるのは酷だったかと考えていた時、物言わぬ骸と肩を外されて唸っている男たちの荷物を調べていた伝八が顔を上げた。
大きめの背負子に、重そうな木の箱。確かに流浪の武士のものにしては不審な荷物だ。
だが伝八が示しているのはその横に立てかけてある細長い包みだった。口のところのひもを解くと、黒々とした鉄の筒が現れた。
それが何か、すぐにわかった。
「……鉄砲か」
小十郎には書物と噂話からの知識しかないが、最近の戦では当たり前につかわれる飛び道具だ。
扱いも難しいと聞くし、相当に値が張るだろうから、一介の浪人が持ち歩くものではない。
「太助はこれを見て確信したのか」
それでないと、いくら不審だとしても、おいそれと客の荷物を覗き見るような男ではない。
太助は、かつては父について戦場を渡り歩いた足軽だった。当然鉄砲を見たことがあるはずだ。
客がこんなものを持って宿泊していたら、素性を確かめなければと思ってもおかしくない。
そして自称浪人たちは、ますます口封じする必要に駆られたわけか。
小十郎は両手で顔を覆った。しばらく無言で息を詰めてから、乱暴にごしごしと擦る。
鉄砲がこれひとつだと考えるべきではない。大森の町に、いったい何挺持ち込まれたのだろう。
宗一郎と対峙している男たちの余裕は、いざとなったら鉄砲があるという自負からかもしれない。なるほど、これも荷改めを拒否する理由か。
「……宗一郎殿に伝えた方がよさそうだ」
「はい」
頷く伝八に向けて、更に言葉を続けようとして、ふと鼻についた独特の臭い。焦げたような、 松脂のような、そして……あれだ、腐敗臭に似た独特の臭い。
いやなことを考えてしまった。そんなはずはない。二回にわたる仙ノ山での崩落と関係しているなど……。
「大江様?」
動きを止めて固まってしまった小十郎に向けて、首を傾げる伝八と庄次郎。
きっと、屋内の暗さでも察しが付くほどに、ひどく良くない顔色をしているのだろう。
ちらり、と庄次郎の足元で悶えている男に目を向ける。
鉄砲や、背負子で銀を運ぼうとしているところからも、敵だと断定していいだろう。
しかし、見るからに浪人風の身なりだし、無精ひげや月代の不格好さからも、主持ちには到底見えない。
そんな男たちを、山で見た焙烙玉と結びつけるのは突飛だろうか。
伝八に、宗一郎への伝言を頼んでから、小十郎は小菊ら親子が使っている部屋に向かった。
仏壇の下の引き戸の床板は外せるようになっていて、中には黒ずんだ木箱が眠っている。
中身は、半年ほど前に太助に預けたものだ。そんな御大層なものではない。
「ああ、まだそれを持っていなすったんですか」
肩の骨を外したままの捕虜を、容赦なく後ろ手に拘束して縄でぐるぐる巻きにしていた庄次郎が、小十郎が木箱から取り出したものを見て笑った。
「それだけは随分とお上手でした。……なつかしいですねぇ」
お上手とかいうな。確かに、子供が使うような武器だけど。
小菊ともう一人、商人になった友人とともに、庄次郎ら町の男衆に習った子供の頃の遊び。
武士が使う長弓ではなく、その半分ぐらいの大きさの弓だ。
小弓と呼ばれるその武器は、威力も飛距離も弱いので、たいていの武士は使わない。せいぜい、馬上から射る時ぐらいのものだろう。
情けない話だが、刀術はからっきし、槍も同様。長弓は強すぎて引けない。
そんな小十郎が唯一まともに扱える武器が、この小弓なのだ。
和弓(長弓)大きさ約2.2m 最大飛距離約200~300m 矢の長さ約85~95cm
小弓(短弓)大きさ1.2〜1.6m 最大飛距離約50~150m 矢の長さ約50~70cm
小弓と言っても意外と大きい。