4-4 円ら堂裏
円ら堂の裏口は密集した商店通りには珍しく坪庭がある。
平らに削られた岩を地面に埋めて飛び石のようにしていて、つまりその……段差があるわけだ。
焦って「待て」と声をあげたが、同時に思いっきり躓いてしまった。
石の角に草履の先を引っかけて、止めるどころか両手を前に突き出した形で転びそうになった。……顔面から。
わざとではない。誓ってわざとではない。
だが、人は転びそうになると顔を守ろうとするものだ。
前に出していた手を顔を守る位置に動かそうとして、近い距離にいた二人の腕に全体重をかけてしまった。丁度抜き身の刃物の腹を合わせて、互いの首筋を標的にしているところなのに……だ。
伝八の小刀の切っ先が、庄次郎の袴の一部を切り裂いていた。伝八のほうは切れたのは袖なのでまだましだが、庄次郎は袴が斜めに切れて太ももが見えている。
「……坊ちゃん」
庄次郎の威圧的な低い唸り声に、「ひっ」と首をすくめる。
ここ二年ほど、拳骨を食らわなくなっていたが、まだあの硬い拳を忘れてはいない。
ごめん。本当にごめんって。
だがその袴では、足さばきにさわりが出るだろうから、着替えた方がいいと思う。
やがて二人は気がそがれたように刀をおさめた。どちらもあきれたような表情だったのは気にしないことにする。流血沙汰にならなくて本当によかった。
やり合っている最中に乱入するのは危ないとか、運が悪ければ両手を失っていたとか、袴の恨みかクドクドと説教された。
い、今はそんな場合ではないだろう。
「いいですかい、坊ちゃんはいつもそう……」
「まあまあ、名主殿」
なおも続きそうなお説教を止めてくれたのは伝八だった。
「そういうことは後で」
伝八はさっと周囲を見回して、耳を澄ませるような仕草をした。
「あちらの方向で何かあったようです」
それは下町、町人たちの長屋がある方向だった。小十郎自身の住まいがあるところでもある。
確かに、怒声のようなものが聞こえる。
喧嘩は日常茶飯事の下町だが、こんな時刻、床にはいるのが早い者ならとっくに夢の中で、普段は猫の声ぐらいしか聞こえない。
たまに夫婦喧嘩が通りの端まで聞こえることもあるが、そんな感じでもないし。
庄次郎はさっと夜の裏通りに目を凝らし、様子を見に行くか否か迷っているようだった。
小十郎は、意を決して顔をあげた。
「庄次郎殿」
足を踏み出しかけていた庄次郎が振り返る。
「戦が起こるかもしれない」
ぎょっとしたのは伝八もだった。
庄次郎は何かを言おうとしたが、それより先に再び長屋のほうで叫び声が上がった。空耳でなければ、悲鳴のようにも聞こえた。
「いつかはわからない。起こるとすれば近いうちだろう」
伸ばした手で太い腕を掴む。
「備えを」
この町は、近年急速に人口を増した。二千、もしかすると三千人以上の住人がいるだろう。鉱山で働く者、常に山にいる者を含めるとその倍よりも多いはずだ。
例えば銀山をめぐり毛利と尼子の戦が起こったとしても、本城の殿がそこから兵を集めることが出来たら、決して弱い戦力ではない。
だが不安材料もある。大森の町には流れ者が多く、自治傾向が強いので、実際にはどれだけの兵が集まってくれるか……。
ひやり、と背中に冷たいものが過った。
果たして本城の殿が、尼子家がそれを許すだろうか。
小十郎は庄次郎から手を離した。
月明かりの下で視線が合って、幼いころから見知った男の、見たことがない表情の変化をつぶさに見つめた。ことが抜け荷どころではないと察したのだろう。さっと血の気が引き、次いでギッと目つきが鋭くなる。
この男がいつか敵に回るのかもしれない。そんな想像をしただけで、ぎゅうと胸の奥が軋んだ。
小十郎は一歩下がって、かつては見上げるほど大きく見えた男の目線が、随分と近くなっていることに気づいた。
「医者が見ている怪我人のことと、長屋の騒ぎは任せるよ。できるなら数日の食糧をもって、女子供は町から遠ざけた方がいい。寺町はダメだ。城に近すぎる」
「小十郎様はどうされるんで」
大江の坊ちゃんではなく、名で呼ばれるのは初めてかもしれない。小十郎は小さく口角を上げた。
子供だった小十郎は、元服して大人の仲間入りをした。幼い己を見守ってくれた大人たちを、今度は守る立場になると信じていた。
……だが、違うのかもしれない。
そんな危惧を、小十郎は頭を振って否定した。
いや、そんなことにはならない。主君である本城の殿に従うのは当然だが、同時に、馴染みの者たちを救いたい。それが両立しないなどあり得ない。
「宿の武士たちをなんとかする」
どうやって? という無言の問いに頷きで返した。
自信はないし、本当にできるかはやってみなければわからない。
銀の抜け荷だろうが、毛利の尖兵だろうが、よからぬ者なら去ってもらう。それだけだ。
「宗一郎殿にも手を貸してほしいが……頼みに行く時間はないな」
いや、身分ある家の御曹司なら、巻き込まない方がいいのかもしれない。
「お待ちください。それは」
伝八が止めようとしてきたが、軽く首を振って退けた。
「今なら穏便に済ませるかもしれない。まだ寡兵だ」
鎧兜で武装しているわけでもなく、長物を持っているわけでもない。宿屋通りを占拠したとて、数はしれている。
その状態で大勢の男衆に囲まれたら、分が悪いと思うはずだ。
「神屋のじいさんはまだ起きているかな」
大森の町の年寄である神屋は山師の総元締めだ。あの爺さんなら、町だけではなく山のほうにも影響力を持っている。残りの名主たちも、町の危機ともなれば力を貸してくれるだろう。
「半刻で、じいさんたちを集めて宿場通りに行ってみる。庄次郎殿は女衆に話を通しておいて」
大森の町は細長いので、すべてを囲って攻め込むことはできない。川の上流方面は道が細いし、出雲に通じてもいるから、そちらを退路にするべきだ。
「本当に戦になるかどうかはわからないけど、攻め込まれる前には何らかの予兆があると思う。そうなったときに、すぐに逃げ出せるよう支度を」
「……わかりました」
庄次郎は少し躊躇ったのちに頷いて、一歩離れた小十郎をまじまじと見降ろした。心配してくれているのが伝わってきて、少しむず痒い。
たっぷり数十回呼吸する間黙って、やがてその武骨な顔に、いつもの不遜な笑みが過った。
「無茶な真似をしたら小菊に詰められますよ」
「……明け方までに連れてくる」
古馴染み過ぎて、小菊の名を聞けば何でもいうことを聞くと思っているから困る。
不貞腐れた口調でそう言うと、バンバンと背中を叩かれた。
「痛い!」
袴が切れたところから、太ももだけではなく下帯も見えているんだが……教えてやるのはやめにした。