4-3 円ら堂
小十郎は、目の前にある腕を下げさせて、暗がりに目を凝らした。
屋外も暗いが、月があるだけまだましだ。小さな灯明だけでは、暗い室内の様子はさっぱりわからなかった。
ただ、血の臭いがする。怪我人がいるようだ。
「すみませんが、戸を閉めてください」
薬屋円ら堂の主人、長玄の声は普段通りで、こんな状況にもかかわらず慌ても焦りもしていなかった。
小十郎はそれにいくらか安堵を覚えながら、後ろ手に引き戸を閉める。
ここは薬屋の勝手口で、こじんまりとした土間と、一尺ほどの上がり端、その向こうに板間の部屋がある。普段は閉め切られている部屋の中には囲炉裏があるはずだが、火が入っていないのではっきりとは見えない。
小十郎は黙って草履を脱いで上がった。いつものように足を拭けというお小言が飛んでこない。
すり足で敷居をまたぎ、室内に入ると、なお一層強く生臭い臭いがした。
そして目を凝らして見た先にいたのは、見知った男だった。
「……太助」
ああ、なんてことだ。
ピクリとも動かず横たわっているのは、小菊の父だった。肩からわき腹あたりまで袈裟切りの刀傷があって、うつぶせにされている。
そっと伸ばして触れた手は冷たい。むき出しの傷からの出血はまだ完全には収まっておらず、止血の為に使ったのだろう布が盥に山積みになっている。
「医者は」
「止血だけして、他の怪我人を診に行きましたよ」
腕組みをして座っていた庄次郎によると、太助は番屋の近くで倒れていたらしい。何かがあってそこまで逃げてきたのだろう。
「太助本人は、抜け荷を見てしまったと言っとります」
庄次郎は、その詳しい話を聞くためにここにいるのだそうだ。
ゴリゴリと薬研で薬をすりつぶす音が止まった。これだけ暗くては、薬の調合は難しいだろうに、長玄は迷いなく作業を続けている。
「生き延びることが出来るかどうかは……まあ、半々でしょう」
長玄の淡々とした口調は、気休めにしか聞こえなかった。
半々? これだけ血を流しておいて?
そう思った瞬間、太助が死ぬのかもしれないという実感が追い付いてきた。
「……死ぬのか」
小十郎のその質問に答えが返ってくるまでにしばらくかかった。
「人は誰でも、いつかは死ぬものです」
長玄の返答に、小十郎はぐっと奥歯を噛み締めた。
そんなことはわかっている。父が討ち死にし、兄が足を失くした。この世が厳しいものだというのは理解できている。
だが頭で理解するのと、近しい者の死を目の当たりにするのとでは、まったく意味が違った。
これは遠いどこかの出来事ではなく、今ここで、現実に起こっていることなのだ。
「……春と小菊へは」
「まだ伝えておりません」
庄次郎はかぶりを振った。正確には、伝えることが出来ていない、だろう。
「武士が大勢いるからか」
「知っとられましたか」
小声の問いかけに、庄次郎はほっとしたように息を吐いた。
小十郎はもう一度太助の手に触れ、その冷たさに怯みながらも、脈はあるのかと手首を探った。わからない。指先に拍動を感じない。
だが傷口からじわじわと血が滲み出ているから、心の臓はまだ動いているはずだ。
「会わせてやりたい」
もし助からないのなら、見送らせてやりたい。大江家に仕えた男を、ひとりで逝かせたくない。
「……大江の坊ちゃん」
庄次郎の声が低くなった。
かつてはそれを聞けば、叱られる前兆だと身構えたものだが、今は違う。この男の苦慮が伝わってくる。
そうか、難しいのか。
ほんの目と鼻の先だ。誰かを旅籠まで走らせて、母子を呼ぶだけだ。
そんな簡単なことが出来ない理由はひとつしかない。あの大量の武士のうちの誰かが太助を切ったのだ。
そこまでわかっていて庄次郎が「難しい」というのだから、名主の彼ですら動けない状況なのだろう。
小十郎はそっと、太助の手を臥所に戻した。
「店主」
再びゴリゴリと薬研で薬草を砕き始めていた長玄の手が止まった。
「明け方までもつだろうか」
「……こればかりはどうでしょうかね」
「もたせてくれ」
語尾が震えた。声に涙が混じった。だが誰も、それを指摘はしなかった。
しばらくして、長玄が長く息を吐き頷いた。
「手はつくします」
小十郎は「頼む」と細い声でつぶやき、重い腰を上げた。
「どうされるおつもりで」
再び入ってきた勝手口から出た小十郎を、庄次郎が追ってきた。
その手には少し長さが短い刀が握られている。
小十郎はちらりとそれに目をやってから、今出たばかりの勝手口を振り返った。
「太助は抜け荷と言ったのだな」
それが空耳ではなく、確実に伝えたのならやりようはある。
庄次郎は何かを言おうとして、今ようやく気付いた顔をして伝八に警戒の目を向けた。室内は暗すぎたので、小十郎がひとりではないことはわかっても、誰かまでは判別できなかったのだろう。
「……福船屋さんじゃないか」
そこに含まれるのっぺりとした、うわべだけの愛想。一見にこやかなその口調の陰に、ぞっと背筋が冷えるような敵意を感じた。
「大江の坊ちゃんと仲が良いとは知らなかった」
「いやとんだことで」
数刻前に初めて会ったのだと言いたかったのだが、それより先に伝八が口を開いた。
「大森で商いをしている者として、町の治安は気になりますので」
こちらもにこやかだが、慇懃無礼にも聞こえる。
庄次郎の顔つきがますます険しくなった。
「今聞いた話は他言無用だ」
「抜け荷の件ですか」
月明かりは思いのほか明るく、庄次郎が刀の柄に手を当てたのがはっきりと分かった。
……止めるべきか。流れを見守るべきか。
一瞬でも躊躇してはいけなかったのだ。次の瞬間には、双方ともに抜き身の刃を喉元に突き付け合っていた。
「待て」
小十郎は慌てて制止の声をあげた。
伝八は元武士、あるいは現在も武士ですが、商人として帯刀はしていません。
抜いたのは、ひそかに隠し持っていた小太刀よりも短い刀です。