4-2 福船屋
じくじくと傷が痛む。やはり少し熱を持っている。
小十郎は新しい布で覆われた両手を見下ろした。
これが武士の手か? 抑えきれない無力感に、じわりと涙の幕が張った。
父や兄のように、槍を持って戦場を駆け回るのは不得手だと自分でもわかっていたから、この職を選んだ。もし戦に行って、自分までも討ち死にしたら、家族が食っていけなくなる……というのは言い訳だ。
その判断をした時、あえて見ないようにした惨めさが、小十郎を苛んだ。
この期に及んでも、戦うことではなく、いかに難を回避するかを考えている。
情けない男だ。武士と名乗るに値しない。……そんなことはわかっている。
「これからどうされますか」
手の布を替え終えた伝八が、控えている者に盥を渡してから静かに問いかけてきた。
短い手当ての間に語られたことは、武士たちは数日前から徐々に数を増やしていること。大きめの旅籠に至っては占拠されているに近い状況だということ。
そいつらのお陰でいつも旅籠に泊っていた商人や職人たちはあぶれ、安い木賃宿に一泊した後に他の町に移動したそうだ。
小菊ら親子が営む小さな旅籠が、その難を逃れているかどうかはわからない。確かめに行きたい気持ちはあるが、そうすることで逆に目立ってしまう可能性もある。
今のところはまだ、誰も無体な目にあっているわけではなさそうだが、何かが起こってからでは遅いのだ。
小十郎は「すう」と息を吸い込んで、震える喉から無様にしゃっくりがこぼれないよう、少しだけ息を止めた。
「……この事態を、味方の誰も気づいていないという事はあり得ない」
幸いにも声は震えなかった。
ゆっくり顔を上げると、近い距離にある伝八の目が、ろうそくの明かりに鈍く光った。
「はい。瀬川様や番所の方々、非番で長屋などにいたお武家様は、少なくとも」
「ならば、何故騒ぎにならない?」
あの武士たちは実は本城家側の者だとか? 監査に来た尼子家が念のために護衛を増やしているとか? あるいは……。
「何者かが町からの報告を止めているのかもしれない」
仮に、本城家側が意図してそうしているのなら、むしろ小十郎は邪魔しないよう推移を見守るだけにするべきだ。尼子の影共の場合でも同様。
一番問題なのは、あの武士たちが敵の尖兵で、その存在が上の方まで伝わっていない場合だ。
小十郎は、神妙な顔をしている伝八から顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。
「何が起こっているのか調べなければ」
小菊は無事だろうか。恐ろしい思いをしていないだろうか。
逃げたくなる気持ちを、幼いころからよく知る少女への心配にすり替えて、気持ちをなだめた。
「はい。手前どもにとっても他人事ではございませぬ。お手伝いさせてください」
こちらはこちらで、伝八が信用できるか問題はまだ解決できていない。
武士かと尋ねた言葉は聞かないふりをされたが、否定しなかったというのが答えだと思う。
武士だった、あるいは今も武士かもしれない。つまり生まれついての商人ではなく、事情があって身をやつしているということだ。
そんな怪しい奴に本城家の内情を知られるのはよくないが……。
「大江様」
背筋をすっと伸ばした伝八が、両手を前についた。
「手前どもは、瀬川家に出入りさせていただいております。若君の御身に何かあっては困るのです」
若君……宗一郎のことだろうな。そうか、そもそもこの男は、宗一郎に頼まれて小十郎を山から脱出させたのだった。瀬川家に仕えている、という申告に嘘はないのかもしれない。
「では、宗一郎殿の屋敷の様子は見に行ったのか?」
「はい。ですが行かせた者がまだ戻りません……道中で何かあったのやも」
伝八は深刻そうにそう言って、膝の上で拳を握った。
集合場所に指定されたのは大円庵、つまり寺町にある。宗一郎の屋敷はおそらく更にその先だ。
道沿いにいくつかの番屋があって、夜になると出入りに制限が掛けられるから、伝八の使いの者がそのどこかで止められた可能性は大いにある。
あるいは、宿場通りにいた武士たちの一味が、大森の町から城への道を封鎖していることも考えられた。
「……無事だといいが」
小十郎のつぶやきに同意は返ってこず、伝八はぎゅっと眉間のしわを深くしながら首を振った。
「気がかりなのは、武家町の様子がわからないことです」
「いやさすがに、そちらに何かがあればもっと大ごとになっているはずだ」
……何もかもが本城家の画策なら、その限りではないが。
飲み込んだ言葉が聞こえていたかのように、伝八は深刻な表情のまま頷いた。
小十郎はしばらく黙り、いろいろなことが過る頭を軽く振った。
誰も信じることはできない。だが、ひとりで何とかできることではない。どうすればいいかの答えなど、すぐに出せるはずはなかった。
「事情を知っていそうな者に心当たりがある」
小十郎はそう言って、立ち上がった。
この町はどんどん拡張していっているとはいえ、小十郎にとって幼いころからの馴染みだ。
勝手知ったる庭先のようなもので、建屋と建屋の隙間や山際のくぼみなども熟知している。
一切大きな通りを横切らずに、古くからある町の中心部、目的の店に到着した。
もちろん表からではなく、勝手口から。
「大江の坊ちゃん」
いきなりの訪問にもかかわらず、薬屋の店主は起きていて、都合がいいことにその場にいるのは彼だけではなかった。
「おお、ご無事でしたか」
蝋燭ではなく灯明のあかりなので、室内の様子は全く分からなかったが、聞こえてきた男の声で誰かわかった。
「庄次郎さん?」
大森の町には、町年寄りがひとりと、名主が三人いる。本城家に仕官している武士以外の者たちをまとめるのが彼らの仕事で、小十郎も昔よく世話になった。
子供のころは身分など関係なく皆で走り回って遊び、同じように拳骨をくらったものだが、名主の熊谷庄次郎は悪戯小僧たちを捕まえる名手なのだ。
一歩足を踏み出そうとして、伝八に止められた。
唐突に突き出された腕に、危うく鼻先をぶつけるところだった小十郎は、苦情を言おうとしてそれに気づいた。
薬屋は常に青臭い薬草の匂いがしているので、すぐにはわからなかった。
鉄さびの臭い。血の臭いだ。