3-7 脱出
再び細い通路を抜け、他よりはいくらか赤茶げた色の少ない土を踏み、先ほど横目に通り過ぎた蔵を見つけた。
昼でも薄暗いその一角には、二棟の土蔵が並んでいる。近いほうにあるのが米蔵だ。
足早に近づくと、入口の分厚い扉に頑丈そうな鉄錠が掛けられているのが見えた。よく見ると錠は外されている。
さっと周囲を見回して、誰もいないことを確認してから扉に近づいた。気配を伺ったが、中にも人がいる様子はない。
閂を外し、重い扉を細く開けて、内側の引き戸にもカギがかかっていないことを確かめた。
一息ついて目を閉じる。今ならまだ引き返せる。
米蔵に勝手に潜り込むなど、閑職に追いやられるどころかお役御免にされかねない。
だがこのままだと、きっとまた刺客に襲われる。それを回避するために、宗一郎の話に乗ると決めたのだ。
「……よし」
小十郎は意を決し、蔵の中に身体を滑り込ませた。内側の引き戸は開けたまま、急いで外扉を閉める。
日中の明るさが遮られると、蔵の中は一気に闇に包まれた。
実際は高い位置に明り取りがあるので、真の暗闇という訳ではないのだが、暗がりに慣れない目には、積み上げられた俵の輪郭しか見えない。
目が慣れるまで立ち尽くしてから、ふらふらと足を進めた。
筵を掛けられた俵と俵の間に入り込み、膝を抱えて座る。尻をついたところから石の冷気が伝わってきて、それが昨夜の騒ぎを思い起こさせた。
蔵の中は重苦しいほどに静かだった。耳を澄ませば、遠くで人の声はするが、その遠さがなおのことこの場の静けさを強調している。
心細い。
まるで子供のように、闇の中にお化けでもいるのではと不安になる。
だが一度も出会ったことのない化け物よりも、真に恐ろしいのは人だ。
痛む手をかばうように抱き込んで、震える息を吐いた。
一体いつまでここにいればいいのだろう? 本当に迎えは来るのか?
押さえつけても込み上げてくる不安に底はなく、小十郎は狭くて暗い場所で膝を抱え、天井に近い高い位置から漏れている明かりをじっと見上げた。
どれぐらい経っただろう。そっと身体をゆすられ、小十郎は飛び起きた。
不覚にも眠っていたらしい。
「しっ」
口元に手をあてられて、ひゅっと息を飲む。
「米の荷入れに参りました。福舟屋伝八と申します」
暗くてよく見えないが、髷の形から商人だというのはわかる。
「取り急ぎこちらを。大小はお預かりしても?」
伝八は小十郎の返答を待たず、藁の笠と使い込まれた感のある蓑を押し付けてきた。どちらも大人用にしても大きめだ。
「関所を抜け大森に入るまでは、恐れながら大江様は福船屋の手代にございます。頭を低くして、お顔を見られぬようにしてください。門番には鼻薬を利かせております故に、見逃してくれるはずです」
想像していた以上に大ごとになっている。
ここまでする必要はあるのか? 裏口からこっそり抜け出すものとばかり思っていた。
「お急ぎを」
急かされて、ほとんど反射的に笠と蓑を受け取った。
やがて小十郎とまったく同じ笠と蓑を身にまとった男たちが、肩に俵を担いで蔵に入ってきた。
たちまち周囲が威勢のいい掛け声と、忙しない人の出入りで騒がしくなる。
折しも夕暮れ、夕陽が山際を赤く染める刻限。
藁の笠と蓑を着た手代が一人増えたところで、立ち合いの兵の誰も気にもとめなかった。
大勢がゴロゴロと空の荷台を引いて関所に近づく。小十郎が早朝に通ったところではなく、少し離れた位置にある通用門だ。
荷台がすれ違うことが出来る幅なので、米などの搬入だけではなく、銀の搬出にも使われていそうだ。
近くにいる兵が咳払いをした。小十郎の肝がひゅっと縮む。
ほのかに漂ってくるのは酒の匂いか? 早くも夜番に備えた景気づけだろうか。
「福舟屋です。先ほど運び入れた荷の返しでございます」
伝八が手ぬぐいで包んだものを差し出すと、門番は特に確認する様子もなく包みを懐にねじ込んだ。
「おうご苦労」
余計な会話は一切なく、閂が外れ、格子戸がきぃと開かれる。
なんてことだ。あまりにも手慣れすぎている。伝八の手際はよすぎるし、門番たちもそうだ。
この様子だと、常日頃からこういうことがまかり通っているのだろう。
小十郎は足元の土を見据えたまま、伝八やそのほかの同行者たちと同じように小さく礼をして関所をくぐった。
既に篝火が焚かれ、煌々と照らされた関所と違って、その先はすでに夜の色をまとい始めた山道が続いている。
あっけないほど簡単に、関所を越えた。超えることができてしまった。
……これって大丈夫なのか?
「振り返らないでください」
前にいたはずの伝八が、いつの間にか小十郎よりも後ろにいた。
「まだ見られております」
耳元で囁く声に感情はなく、もしかするとこの男こそが刺客なのではないかという疑いが過る。
小十郎はすっと笠を下げて、俯いた。
暗くなった山道を、足元に注意しながら進み、視線だけで周囲の様子をうかがう。
誰もかれも似たり寄ったりの恰好をしていて、一人増えようが減ろうが、気づかれないだろう。
ひやり、と首筋が冷えた。
ますますとんでもない窮地に陥れられかけているのかもしれない。
無意識のうちに腰の刀に手を伸ばしかけて、二本とも伝八に預けたことを思い出した。
「伏せて」
伝八がそう言った瞬間、真後ろから突き飛ばされ木の幹に両手をついた。
鋭い痛みが脳天まで走り、本能的に身体を丸くする。
振り返った先で、小十郎と同じ格好をした数人が山道から逸れ、茂みの中に分け入っていくのが見えた。
ひゅん、と弓が引かれる音がする。同時に、小十郎がもたれかかっている木にカツカツと二本、矢が突き立った。
高い位置ではあったが、明確に狙われたのだとわかる。
小十郎は、ごろりと地面に転がって避けた。いや避けたというより逃げたと言ったほうがいい。
同じようにうずくまっている、同じ格好の集団に紛れて、台車と山の斜面との間に身を潜めた。
やはり待ち構えられていた。
そうなってくると、みなと同じ格好をしているのも、夕闇の中脱出したのも、悪くない判断だということになる。
……いや待て、ならば何故この集団の中に小十郎がいるとわかったのだ?
そっと口元に手をやり、うめき声がこぼれるのを塞ぐ。
誰もかれもが信用できない。
「ご無事ですか」
しばらくして、これ以上襲撃はなさそうだと判断したのだろう、伝八が近づいてきた。
「お怪我は?」
小十郎は、細かく震えているのを気づかれないように、ぎゅっと手を握った。
「……いや」
伝八は頷いて、さっと暗がりに目を配った。
「それでは急ぎましょう」
「待て、山の中に逃げて行った者たちはどうなる」
暗い中で、伝八が驚いたようにこちらを見た。
「戻ってくるのを待つべきではないのか」
「……いいえ。あの者たちなら自力で大森まで戻りましょう。それよりも、後ろがつかえてきております」
小十郎ははっとして、関所に続く山道を見上げた。
結構な数の運び手たちが大声で騒いでいる。負傷した者もいるようだ。
あちらこちらで矢を射かけられたという声が聞こえるので、もしかすると小柄な者を標的にしたのかもしれない。
「わかった」
小十郎は立ち上がり、蓑についた土と小枝を払った。