1-2 奉行所と帳場
竹内に連れてこられたのは、周囲とは隔絶した雰囲気の白塗りの建物だ。
表には、「銀山奉行所」と達筆で書かれた看板がぶら下がっている。
壁は白塗り、屋根には分厚い瓦が乗っていて、目を凝らせばそこかしこに複雑な装飾が見て取れる。一目で金をかけているとわかる立派なその建物こそが、これからの小十郎の職場とのこと。
道中にあった、今にも崩れそうな作業小屋とのあまりの格差に、ぽかんと口が空いた。何なら、これまで見てきたどんな建物よりも立派だった。
なんでも、鉱山を差配している奉行だけではなく、尼子家のほうからも偉い人たちが視察に来ることがあるらしく、鉱山を見下ろす位置にある山吹城や、本城のご一門が暮らす屋敷よりも堅固で、贅を尽くした造りなのだそうだ。
もちろん、下っ端も下っ端な小十郎には大して関係がない話だ。
任官したのは帳場と呼ばれる部門で、このご立派な建物の一角にありはするが、お勝手口のすぐそば、隅も隅だった。
一応、役人の詰め所と呼ばれている建物は別にもあり、新任の小十郎はそことこことを行き来するのが当面の仕事なのだそうだ。
竹内は、新任の小十郎を、奉行所にいる先任たちに紹介して回った。
下の身分の者へは威圧的な態度の竹内だが、案の定、同輩や上役に対してはぺこぺこと頭を下げる。小十郎も竹内の背後で、丁寧に頭を下げ続けた。
それを特に苦には感じなかった。小十郎は紛れもなく下級武士で、下から数えた方が早いほどの家格なのは確かだし、年もおそらく一番若い。
小十郎が働かなければ家門が立ち行かないという自覚もあった。
父が討ち死にし、兄もまだ義足で立つのがやっとなのだ。ここで上役に気に入られるのは、小十郎自身にとっても、家門にとっても必要なことだった。
顔見せの挨拶というよりも、竹内が上役に阿るための会話を延々と聞かされ続け、それが終わったのはもはや朝とは呼べない刻限だった。
小十郎は、明日の朝からここにきて仕事を始めるようにと命じられ、使い込まれた机の前に放置された。
何をすればいいのかの指示がなく、困惑して立ち尽くしていると、背後から肩を叩かれた。
「おぬしも大変だなぁ」
太くて明瞭な声に振り返ると、小十郎よりいくらか年上に見える若い武士が立っていた。
背が高く、体格も良く、声変わりといっても大して変わらなかった小十郎とは違い、低く男らしい声をしている。
「竹内殿は……」
彼は何かを言いかけて口を閉ざし、ぐるりと周囲を見回した。いつの間にか集まっていた視線がさっと散る。
「まあいい、こっちの仕事を手伝え。確認の終わった帳面を詰め所に戻す」
やることがあるのはいいことだ。救われた気がして表情を緩めると、相手もニコリと笑顔を返してきた。
「わしは瀬川宗一郎だ。おぬしは?」
「大江小十郎です」
「小十郎か」
瀬川はうんうんと頷き、棚に置かれていた冊子をポンポンと渡してきた。
運ぶべき冊子はもっとあったが、渡されたのは小十郎が抱えることが出来る量だ。瀬川はそれより多く運ぶつもりらしく、両腕でがっつりと冊子を抱える。
「ここは風が濁っている。驚いただろう?」
歩きながらそう問われて初めて、小十郎は、最初に鼻をついた臭いを感じなくなっていることに気づいた。
「ここの水は飲むな、すすめられても飯は食うな……その分だと、竹内殿はおぬしに説明しておらぬのだろうな」
水を飲むなというのはわかる。大森の脇を流れる川を見れば、鉱山から出た水は汚れているのがわかるからだ。
ああ、それもそうか。そんな水で煮炊きした食べ物はよくないということなのだろう。
だが通いの役人はともかくとして、この敷地内に住んでいる鉱夫たちはどうしているのだろう。あれだけの人数の飲料水、あるいは食べ物を外から運んでくるのだろうか。
それを問おうと口を開きかけた時、ふと瀬川の足が止まった。その険しい視線を追って、屈強な男がこちらを見ていることに気づく。
上役か? いや違う。小袖に袴姿だが、役人特有の身ぎれいさがない。しかもその目つきが不穏だ。
瀬川がいくら感じのいい男でも、ろくに知らない事情に巻き込まれたくはなかった。
どうするべきかと迷っていると、瀬川は何事もなかったかのように再び歩き始めた。先ほどまでは、小十郎の歩速にあわせてゆっくりだったのに、今度は速足だ。
息を切らしながら、なんとか引き離されずに後を追い、おそらくは詰め所なのだろう建屋にたどり着いた。
「……すまぬ」
先にたどり着いていた瀬川は、詰め所に入ってすぐのところで立ったまま待っていた。手には重い帳面を抱えたままだ。
「どうしたのですか?」
巻き込まれたくはないし、瀬川も聞いてほしそうではないが、ここで尋ねないのは不自然だろうと首を傾ける。
瀬川はぎゅっと顔をしかめてから、「いや、なんでもない」と苦笑した。
「とりあえず、帳面を運ぼう。こちらだ」
事情はわからないが、迷わず帳方の詰め所に駆け込んだのはいい判断だと思う。
何故なら、ここは奉行所と同じく、建屋の前に武装した兵が立っているからだ。いや何なら、その者たちの詰め所が隣にあるので、奉行所以上に守られている。
先に立って歩く瀬川の背中を眺めながら、小十郎は用心深く周囲の様子を伺った。
先の奉行所でもそうだったが、やはり上役たちの視線は瀬川の様子をチラチラ見ている。嫌な感じだ。
間違いなく小十郎の知らない事情があるのだろうが、何も聞かされていない以上は気づかないふりをしておくべきだろう。
「残りを運んできます。あの棚にあったものをここに持ってくればいいですか?」
そう言うと、瀬川は露骨にほっとした表情になった。
「そうしてくれるか?」
「お任せください」
だが思い返せば、一人で運べる量ではなかった。兵の手を借りることはできないだろうか。瀬川を見ていた男に突っかかってこられても困るし……。
そんな算段をしながら、帳方の詰め所を出た。
さああと風が流れて木々を揺らす。
土も木も、赤茶げた錆をまとったような色をしていて、その赤に染め抜かれたような風景はやはり異様だ。
火と灰の臭い、焼けた石の臭い、濡れた鉱石と腐りかけた木の臭い。……複雑に交じりあった判別できない雑多な臭いに、鼻の奥がつんとする。
ゴゴゴ……
小十郎は最初それを、腹の音だと錯覚した。長らく空腹に耐える生活をしてきたせいで、聞き慣れていたからだ。
だが違うと察するのは早かった。
不規則に続く低い音。足の下に感じるかすかな振動。
不意に、バキバキと生木が裂ける音がした。
「崩落だっ!」
遠くで誰かがそう叫ぶ。
「伏せろ!」
坑道どころか、穴が開いた斜面からも離れた場所にいたのに、小十郎は思わずその場でうずくまった。いやそれで正解だったのだ。たちまち周辺一帯に砂塵が立ち込め、視界が利かなくなる。
雷のような土砂の音と、大勢の絶叫が入り乱れた。
砂埃がひどくてまともに目も開けていられなかったのだが、ひと際大きな坑道の傍にある空気穴から、濃い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
そして次の瞬間、その坑道そのものも、岩が崩れ、木が砕け、逃げようとしていた鉱夫たちが土砂に飲まれていく。
小十郎は、目に砂が入らないようぎゅっと瞼を閉じた。
確実に死んだであろう鉱夫たちを見るに堪えなかったからだが、現実から目をそらした瞬間、坑道から蛇のように連なって並んでいた姿を思い出す。
そうだ、あの近くでは女子供年寄りたちも働いていた。……彼らはどうなった?
小十郎は立ち上がった。大丈夫、もう揺れていない。
だが砂塵は相変わらず視界を遮り、状況の把握ができない。
目を開けると、即座に涙がにじんだ。砂にやられて、瞬きをするたびに目の中がゴロゴロする。
ぐっと唇を引き締め、駆けだした。
それは奉行所の方角ではない。砂埃と悲鳴が続く、崩落した坑道の方だ。