3-6 奉行所奥
奉行所の建物の脇から入った細い道の先、一見建屋と建屋が並んでいるような場所の奥に、目を引く黒い壁の一角があった。
屋根が連なっているので、一見奉行所とつながっているように見えるが、別の建物だ。
奉行所の、いかにも金がかかっている外観とは違い、そこだけ黒い焼き板の壁で、明り取りらしいものもなく、どこから入ればいいのかもわからないつくりになっていた。
低木の茂みの脇の、知っている者しか入ろうと思わないような隙間に、身体を横にして潜り込む。
しばらく横歩きに進むと、足元が土から石に代わり、右を見れば奉行所につづく引き戸、左を見ればその離れの出入り口になっていた。
まさしく、密談をする為だけにあるような構造だ。
小十郎は緊張しながら、宗一郎の後ろに続いて黒壁の建屋の入口をくぐった。
おそらくは直属上役の樋口様、いや、鉱山奉行である左近将監様ご本人が待ち構えている……そう腹を括った小十郎だが、案内された先にいたのはひとりだけだった。
畳はなく、土壁に節だらけの杉板を打ちつけただけの六畳。窓は潰され、頼みの光は隅の菜種油灯台一本のみ。煤けた芯が不規則に揺れ、その人物の影を闇と同化させている。
灯火の円の中心で、片膝を貧乏ゆすりする男……竹内だ。
皺の刻まれた顔だけが灯に浮かび、この場にいるのがいかにも不本意だという風に、ジロジロと小十郎を睨んでいる。
灯心がぱち、と弾ける音とともに、鋭い舌打ちが聞こえた。
「……来たか」
掠れた声に叱責の色が混じる。
「生きて戻ったようだな」
「ご心配をおかけしました」
小十郎は作法通りに座り、静かに頭を垂れた。
舌先にある棘は、しっかりと飲み込んだ。ここで火花を散らしてもいいことはないからだ。
竹内はたったひとつだけある書き物机の上を神経質に指で叩き、鼻を鳴らした。
「何も言うておらぬだろうな」
きっと隠し坑道のことだ。直接言葉にしない臆病さに思うところはあったが、表情は崩さずにじっと竹内の顔を見返した。
「恐れながら、何をでしょう」
「余計なことを喋っておらぬか、と聞いている!」
声は抑えていたが、貧乏ゆすりがますます忙しなくなる。
小十郎は、どう答えるのが正解かわからず黙った。隠し坑道の事を口にすれば、その秘密を知っていると暴露するのと同じだ。できることなら、知らぬと思ってくれた方がいい。……今更かもしれないが。
小十郎があいまいな表情で首を傾げると、竹内は薄い唇を曲げ、鼻から鋭く息を吸った。
「竹内殿」
きっと怒鳴りつけようとしたのだと思う。だがその威勢は、宗一郎によって遮られた。
「小十郎は出仕して二日目ですよ。何も知りません」
背の高い宗一郎が衣擦れすら立てず小十郎の隣りに進み、胡坐をかいて座る。裾が床を払う音すらない静かな所作だった。
「余計な口を挟むな!」
言葉面だけは強いが、あきらかに虚勢。不安を隠せない目で宗一郎を見て、さっと視線を逸らす。
「まあいい。大江は明日からここに通い、書類の清書をするように」
さっそく閑職に追いやられるのか? これ以上余計なことを喋られては困るから?
小十郎は、やはり口封じされるのかもしれないと身構えた。
見るからに人気のない奉行所の奥だ。人ひとり処分されたとしても、誰も気づかないだろう。
同じことを考えたのだろうか、宗一郎が軽く手を上げながら口を挟んできた。
「待ってください。小十郎は手を怪我しています」
「……なんだと」
暗くて気づかなかったのだろう。竹内は上ずった声をあげて、慌てたように小十郎を見た。
「医者に見せるべきです」
「ひ、ひどいのか?」
思わず口をついて出た、そんな感じだった。竹内は咳ばらいをして、ちらちらと小十郎の手に目をやる。
その引きつった顔から、爪でもはがされ拷問を受けたと思っているのかもしれない。
小十郎が口を開くより先に、宗一郎が話をまとめにかかった。
「しばらくは某の屋敷で面倒を見ようかと思うております」
「それは」
「尼子家の監査が帰るぐらいまで、静養したほうがよいのでは」
職務に忠実なら、「筆を持つぐらいなら大丈夫」と言うべきだった。昨日までの小十郎なら、間違いなくそうしていただろう。
だが今は、目立たないようおとなしくしておいた方がいい。
竹内は舌打ちの後に、「好きにしろ」と吐き捨て、荒々しい足音を立てながら部屋を出て行った。きっともっと上役の方々に報告に行くのだろう。
板戸が閉まり、灯芯の燃える音と二人の呼吸音だけが残る。
「まだ着任して二日です。本当に休養してもよいのでしょうか」
長いとは言えない間の後、小十郎は不安を隠せず呟いた。
宗一郎はようやく落ち着いたように息を吐き、肩をすくめた。
「尼子がいるうちはここで清書させられるだけだぞ」
「それは別段問題はないのですが」
少し手は痛むが、筆が持てないほどではない。書き物も嫌いではない。
「そぞろまた刺客が来るやもしれぬ。落ち着くまでここにおらぬほうがよい」
小十郎は口を閉ざし、じっと宗一郎の顔を見返した。
「……聞きたいことが山ほどあるのはわかる」
しばらくして、宗一郎は難しい顔をしながら言った。
「だがここでは話せぬ」
おいそれと口にできない内容なのだろう。だがそれを察するのと、この男を信じてもいいのかとは別の話だ。
宗一郎は外の様子に耳を澄ませ、薄めに障子をあけて誰もいないことを確認してから、低い声で切り出した。
「昼間の移動は目につき過ぎる。夕刻、引き荷が関所を越える刻に紛れて出る方が安全だ」
小十郎は包帯の手を膝に置き、慎重に問い返した。
「それまでここに潜むのですか」
「ここは駄目だ。通ってきた道すがらに米蔵があっただろう? 夕方まではそこで休め。蔵番には話をつけた」
宗一郎の用意周到さに内心舌を巻きながらも、小十郎は譲れない要件を示す。
「……長屋へ寄りたいです。身の回りの物をいくつか取りに行きたいのと、ひと言だけ、留守を知らせる書きつけを残したい」
宗一郎は眉根をわずかに寄せた。
「狙われるぞ」
「むしろ大元がどこにあるか確かめるいい機会では」
「それも一理あるな……よし、こうしよう。夕刻、町の辻に米俵を載せた荷車を一台出す。私はそれに随行し屋敷へ回る。お前は長屋で荷をまとめ、書付は手短に済ませろ。合流点は大円庵の灯籠前、酉の刻が打つまでに来い」
計画を示したあとで、宗一郎は目を細めた。
「疑うのなら、ここで別れてもいい」
言葉は淡々としているが、視線は真正面からぶつかってくる。
宗一郎とて、小十郎から信頼されている訳ではないと気づいているのだろう。
小十郎は短く息を吸い、うなずいた。
「承知しました。書付は最小限にまとめ、刻限までに向かいます」
「いい返事だ。では蔵で傷を休め、日暮れを待て」
宗一郎が灯芯を摘まみ、炎を消した。油煙が細く立ちのぼり、昼間にもかかわらず深い闇が室内を染める。
小十郎は立ち上がり、暗がりに向かって深く一礼してから部屋を出た。




