3-5 奉行所敷地内
その晩は牢に留め置かれたが、次の日には無事釈放された。
一晩中まんじりともせず、暗がりの中で考え続けていた小十郎は、明るく陽が差す日中のまばゆさに眩暈を覚え、目を細めた。
ぽいと牢の外に放り出され、この先どうしようかと立ち尽くす。
仕事に戻るべきだ。上役の指示を仰ぐべきだ。
冷静な頭ではそう思っているのに、足を踏み出すには勇気がいった。
小十郎は昨晩、トカゲのしっぽのように切り捨てられそうになった。
一晩考えて、事実を直視できる程度に気持ちを整理した。
だが、この眩暈がおさまるまでは立ち尽くしていてもいいはずだ。
「小十郎!」
宗一郎の声が少し遠くから聞こえた。
一度ぎゅっと目を閉じてから、小十郎は声がした方に首を巡らせた。
宗一郎は袴が膝近くまでめくれるほどの勢いで走り、手を振っている。
小十郎は無意識のうちに足を踏み出していた。あんなに躊躇していたのに、すんなりと一歩。
踏み出した自身の足を見下ろして、一度小さく息を吐く。
「小十郎、大丈夫だったか?」
駆け寄っていた宗一郎は勢い込んでそう尋ね、さっと小十郎の両手に目を向けた。
「その手は」
「いえ、何でもありません。大丈夫です」
実際はまだズキズキと痛むが、適切に治療されたからだろう、変に熱を持ったりはしていない。
「……だが」
「大丈夫です。行きましょう」
牢番らだけではなく、尼子側の兵らにジロジロ見られながらの長話は遠慮したい。
宗一郎が迎えに来たのは厚い友情からではなく、上役に連れて来いと命じられたからだった。
そうだろうなと苦笑して、では上役たちは牢内の様子に気を尖らせていたのかと一人つぶやく。
それはそうか。本城家の命運が新人一人の肩にかかっていたのだ。いつばれるかと冷や冷やしていただろう。
「……それで」
歩きながら、こそっと問われた。
小十郎はちらりと周囲を見回しながら、小さく頷いた。
喋っていないよ。本当に。
宗一郎はいくらか不安そうにしながらも、「そうか」と頷き返してきた。
牢があるのは奉行所と同じ建屋内なので、本来ならお偉いさんがいる場所までそれほどの距離はない。だが宗一郎が案内したのは、奉行所の主殿の細い廊下を幾度か曲がった先にある裏口から出て、建屋と建屋の間を通り、更に奥に進んだ先だった。
連れが宗一郎でなければ、ついていくことに不安を感じていただろう。
いや行所の裏口から出たあたりから、諦めに似た覚悟が胸にあった。
確実に、尼子側に知られるわけにはいかない話があるのだろう。その過程で、小十郎の口をふさぐという方向に行くのかもしれない。
一晩掛けて、そのあたりの事は考えつくした。簡単に答えが出るものではないが、小十郎の中で、ひとつの結論はある。
理由のわからない悪事の片棒を担ぐような真似はできない。まして一方的に罪を擦り付けられるなど、大江家の名誉にかかわる。
確かに大江家は本城家の家臣だ。誠心誠意の忠義を尽くし、殿のご意向には従うべきだ。
例えば、例えばだ。本城の殿が尼子にいつか離反するための力を蓄えているとか、そういう事ならば別にいいのだ。
だが果たして、殿は本当にご存じなのか? 別の誰かの懐を肥やしているだけではないのか?
その疑いが晴れないうちは、耳を澄まし、目を見開き、あらゆることに懐疑心を持って、状況を探るべきだと考えている。
一介の下級武士のことなど、本城の殿にとってさしたる重みはないだろう。
仕官してたった二日。直接お会いしたのも元服時の一度のみだ。覚えてもいないかもしれない。
だが小十郎は、本城家の家臣を名乗り、扶持を頂き、鉱山の役人という立場にいる。
その分の仕事は、きちんとしなければ。
「……心配するな」
先に立って歩いていた宗一郎が、少し歩調を緩めてこちらを振り返り、小声で言った。
「絶対に悪いようにはしない」
宗一郎の言う「悪いようにしない」というのは、どういう意味だろう。
命の保証はするということか? 名誉も守るということか? そもそも、宗一郎にそれができる理由は?
小十郎は少し考えて、口を開いた。
「昨晩、牢に刺客が来ました」
少なくとも、その片方は守られない約束になる可能性があった。もう少し腕に覚えがある刺客だったら、死んでいただろう。
「医者を連れてくるとき、町中から橋のところまで追いかけられました」
宗一郎は完全に足を止めた。
さっとこちらを振り返り、近い距離で視線が合う。
「一昨日、宗一郎殿が避けようとしていた男です」
「あいつが牢まで来たのか?」
食い気味にそう問われて、さっと首を横に振った。
「牢に来たのは別の男です」
宗一郎はいかにもほっとした顔をして、「よかった」と呟いた。
どういう意味だ? 橋のところまで追ってきた男が相手なら、死んでいたと言いたいのか? 確かにそれは間違っていないと思うが。
宗一郎は、何やら考え込みながら、忙しなく視線を動かした。
「その、牢に来た刺客はどうなった? 逃げたか?」
「いいえ。尼子の兵につかまりました」
刺客という言葉に驚いていないところを見るに、そういうこともあり得るとわかっていたのだろう。それなのに、忠告のひとつ、あるいは牢番を増やすなどの対応もしてくれなかった。……ただ気が回らなかっただけかもしれないけど。
「わかった。その話は上には伝えずともよい」
だから何故、同じ新人であるはずの宗一郎がそんなことを言えるんだ?
「すべて報告するようにと言われると思うのですが」
「うん。ワシが伝えておく。あまり大勢に知られると困る」
……一体、誰が困ると?
正直、肩をゆすって問い詰めたいところだが、宗一郎の事情を知ってもいいものか判断が付かない。藪蛇のように、知らない方がいいことが増えるのは困る。
「宗一郎殿」
小十郎は、再び歩き始めた宗一郎の背中に向かって、静かに声を掛けた。
信じてもいいのか。
その問いは声にはならず、呼びかけられて振り返った宗一郎に、小十郎は軽くかぶりを振る。
「五郎左のことはどうなりましたか」
「すまぬ。それどころではなかった」
いや、一番に調べるべきことだろう。焙烙玉がまだ残っていたらどうするんだ。
そう言いたかったが、言えなかった。何故なら、目的地に到着したからだ。
そこは本来彼のような下級武士が立ち入ることは許されていない、奉行所の最奥だった。