3-4 奉行所の牢3
根津様からひと通りの尋問を終え、再び牢屋に戻された。
真冬でないことを感謝するべきだろう。それでも、石床の牢はひどく冷える。
吐いた息は白くはなかったが、石床から伝わってくる冷気に身体が芯まで凍り付きそうだった。
できることはやった。
隠し坑道のことはしゃべらなかったし、根津様がそれに言及することもなかった。
小十郎にしてみれば、最大限の努力をしたと言いたいところだが、正直、いろいろと気づかれていると思う。そもそも知っていたという可能性もある。
出仕二日目にして、精神的にゴリゴリ削られ、肉体的にも、今思えばかなりの危機だった。
こんなに頑張ったんだから、お手当てとか褒賞とかないだろうか。……ないんだろうな。
溜息を飲み込んで、がっくりと膝をつく。
大丈夫か、この先もここでやっていけるのか。
不安は募るばかりだ。
「大江様」
暗がりから声を掛けられて、ぎょっとした。
人が近づいてくる足音などしなかった。……いや、悪い方へ悪い方へと考え込んでいたので、聞いていなかっただけかもしれない。
目を凝らす。わざわざ声を掛けてきたのだから、用があるに違いないのに、その男は暗がりの中に佇み何も言わない。
ようやくこの暗さに目が慣れてきて、明り取りからわずかにこぼれる月明かりの助けを借りて、男の様子が少し見えてくる。
独特の服装と、手に槍を持っていることから、牢番らしいというのはわかる。声に聞き覚えがないから、先ほど宗一郎を呼びに来た男ではないだろう。
瞬間、わずかに過った警戒心が仕事をした。
とっさに身をよじらなければ、格子の隙間から突き出された槍に心臓を貫かれていただろう。
冷たい石床にペタンと尻をつけて座り込んでいたので、飛びのくことはできなかった。ただ後ろに手をついて、槍先が目の前を横切るのをギリギリでかわした。
一度目はそれでよかった。だが狭い牢内、座り込んた体勢のままでは、二度目三度目の回避は無理だ。
とっさに格子から突き出た槍の柄を掴んだ。少しでも躊躇っていたら、そのまますっぱり両手の指が落ちていただろう。
後から考えたら、なんて無謀なと思うが、その時は必死だった。
お互いに無言のまま、槍の柄を引っ張り合う。小十郎は非力な少年だが、相手もそれほど力がある方ではなかったのが幸いした。
堅い木格子に、全体重をかけて槍の柄を押しつける。
小十郎の細腕と牢番の腕とが互いに逆方向へ力を掛け合い、細長い柄が弓なりにたわんだ。
――みしり。
攻防の中、じりじりと穂先を石床近くまで下ろし、尻を滑らせて柄を抱え込んだ。牢番は外側から全体重を預け、さらに上体を乗りかかるようにして押し込んでくる。
――みりっ……みりっ……。
沈黙と暗がりの中、柄が軋む音だけがやけに大きく響いた。
もしこのままだと、こちらの腕が先に折れる。あるいは鋭い穂先が小十郎を切り裂くだろう。
もう駄目かもしれない。ぎゅっと目をつぶって、間近に迫った死を覚悟した。
その時。
――ばちん‼
闇に乾いた破裂音が響いた。槍の柄が、木格子が当たっていたところで折れたのだ。
折れた下半分が石床を跳ね、牢番の手から離れて転がった。
残ったのは三尺ほどの短槍……否、小太刀ほどの刃と化した穂先。落ちたのは牢の内側だ。
小十郎は素早くその穂先を拾った。
折れた柄の部分のささくれが、鋭く手のひらに突き刺さる。それを上塗りするように、体内へ駆け上がる昂りが、声となって零れた。
「殺されてなどやらぬ!」
穂先を逆手に握り直す。短くなった分、格子越しでも取り回しは利く。牢番が狼狽して腰の刀に手をかけるのが見えた。
小十郎は反射的に身をひねり、刀がまだ鞘口を離れぬうちに折れ槍の穂先を突き上げた。
鋼と鋼が擦れ合い、鈍い火花が闇の中でぱっと弾ける。
牢番は顔を引きつらせ、受けきれぬままに刀を落とした。
穂先は牢番の襟首に食い込む寸前で止まっている。
「——動くな」
小十郎の掠れた声が響いた。
牢番は喉を鳴らし、かがみ込んだまま後ずさる。手は落ちた刀へ伸びかけたが、穂先を更に押し込むと、途端に全身が硬直した。
「動けば喉を貫く」
情けなくも細かく震えながらの宣告に、牢番の目も怯えたように揺れた。
その視線がはっと別の方向に向いたのは、巡回の兵が近づいてくる気配があったからだ。
次の瞬間、牢番の肩口から誰かの手が伸び、がしりと後ろへ引きずった。
「何をしておる!」
響いた怒声は佐倉のものだった。
「おぬし運が良いの」
どこか別の場所に連れて行かれる牢番を見送って、佐倉が呆れ口調で言った。
「銭を握らされて口封じにでも来たのだろうが、あれではな」
そうか。口封じか。
小十郎は冷たい石床にへたり込んだまま、まだ震えを止めることが出来ずにいた。
命じられた通り黙っていた。隠し坑道についてひと言も漏らさなかった。だが秘事を抱えた者たちにとっては、小十郎の忠誠心などあてにできなかったのだろう。
そこでようやく、起こったことが生々しく現実味を帯びてくる。
震える手で顔を覆おうとして、両掌が血まみれだという事に気づいた。たいした怪我ではないだろうが、血でぬるりと光っている。
「なんだ、怪我をしたのか?」
手を見せるようにと言われて、素直に差し出すと、松明を持ってこさせた佐倉が傷口を見て顔をしかめた。
親切にも手当してもらいながら、ぐるぐると色んなことを考えているうちに、小十郎はあの牢番は間者かもしれないと思いはじめた。
昨日も橋のところで追いかけられた。隠し坑道の事を知る前だ。
だから今回もきっとそれとは別口で……。
「痛いです」
「結構深く刺さったな」
至近距離にある佐倉の不愛想な顔を見ているうちに、泣きたくなってきた。
違うと思い込もうとしているのは、小十郎の弱さだ。
「痛いです」
「辛抱しろ」
小十郎はぎゅっと唇を噛んだ。
佐倉は手際よく棘を抜き、酒で湿らせた麻布を巻きつける。傷口に染みた強い匂いが鼻を突き、涙が滲んだ。
「……終いだ。明るい時に棘が残っていないか確かめろ」
「ありがとうございます」
礼を言った途端、胸の奥で固まっていたものがほどけ、ひくりと嗚咽がこぼれた。
佐倉は火皿の上で布を炙りながら、ちらりと目だけを向けてきた。
「鉱山には利を狙う外道が寄って来る。誰が味方で誰が敵か見分けがつかん」
火皿に血に染まった布を落とすと、ぱち、と音がした。灯心が揺れ、影が壁を這う。
「油断するなよ、若造」
佐倉の声には叱責より、わずかな憐みが混じっていた。