3-2 奉行所の牢2
大勢が近づいてくる音がする。
小十郎は、胃から込み上げてくるすっぱいものをこらえて、その場で背筋を伸ばした。
こういう場合、両手はつくべき? 頭は下げておくべき? 何も悪いことはしていないのに? いや、相手は小十郎より身分が上だから……。
いろんなことが無秩序に頭の中を駆け巡る。
冷静になって考えれば、習った作法通りに礼を取ればいいとわかるのだが、混乱中の小十郎の頭はまともに働かなかった。
ひと目で身分が高いとわかるその武士が視界に入ってきたとき、あろうことか立ち上がり、背中を牢屋の壁に押し付けていたのだ。
更に、ぱっと照り付けた松明の明かりに目を焼かれ、本能的に顔をそむけた。
まずい。そう思ったのは、まだ目が慣れないながらも、ドン! と槍の柄をつく音が聞こえたからだ。他にも複数が、乱暴に石の床を蹴りつける音がする。
明らかに小十郎の態度に憤慨している。どうしよう。本当にどうしよう。
「大江小十郎か」
太い、不機嫌そうな声でそう問われ、とっさに声が出なかった。
ああまずい。
「大江小十郎かと聞いておるっ!」
ひくり、とのどが詰まった。バクバクと心臓が鳴り、まともに息が吸えない。
突き付けられた松明が眩しすぎて、バシバシと瞬きを繰り返しているうちに、じわりと涙がにじんだ。
「……ねずみ」
よりにもよってこの瞬間に、何故そんな言葉を呟いたのか。
視界の片隅を鼠が横切ったからか? 今の今まで気にもしなかったのに?
「なんだと」
案の定、小十郎のその声が聞こえた者は激怒した。
ガン! と大きな音がして、槍の穂先が牢屋の中にまで突き込まれた。
小十郎は「ひいっ」と声なき声を上げ、ますます壁に背を押し付けた。
そこでようやく目が慣れてきて、狭い牢屋の前に十人ほどの武士がいるのを見て取った。
その中のひとり、身なりから明らかに身分が高いとわかる小柄な武士が、怒り狂って槍を突き出している男の肩に手を置いた。
「殺しては話が聞けぬ。下がっておれ」
――こ、殺すとか言わないでほしい。
渋々と下がった配下を押しのけ、木格子の前に立ったのは、特徴的なちょろりとした口ひげの、四十ほどの男だ。
「面と向かって鼠と呼ばれたのは初めてだ。なかなか肝が据わっておるではないか」
松明がその男の背後から当たっているので、距離は近づいたが表情は読み取り取りにくい。だが、細めの目が眼光鋭くきらめいているのはわかった。
「ワシを根津久兵衛と知っておるのだな」
――違います。知りません。知っているわけないでしょう。
小十郎はぶるぶると首を左右に振った。
根津様は少し首を傾け、おそらく松明の明かりに鮮明に照らされているのだろう小十郎の顔をじっと見つめた。
「なんとまあ、まだ子供ではないか」
「ですが殿のお名を知っておりました」
――知りませんって!
声にならない小十郎の抗議が聞こえたわけでもあるまいに、根津様と槍男がそろってこちらを向いた。
「悪さができるような子には見えぬが……」
「そうですか? いかにも火の不始末をしそうではないですか」
――しない、しないです。そんな悪いことは絶対にしません。
ぶんぶんと首を振っているうちに、たまっていた涙がボロリとこぼれた。
「あ、あの」
小十郎は壁に張り付いたまま、ようやく喉から声を絞り出した。
木格子の向こうに立つ全員の視線が、ぎゅんと音が聞こえそうなほど一斉にこちらを向く。
その瞬間。黒い小さな影が床を走った。
気づいた数人が、「うおっ」と叫びながら足を上げた。
彼らの足元を素早く横切ったのは、松明の明かりと大勢の気配に驚いた数匹の鼠と、それを追うキジトラ猫の姿だった。
しばらくしてその場が落ちつき、気詰まりそうな気配が漂う中、根津様が軽く咳ばらいをした。
「まさしく鼠であったな」
「いや、鼠の一匹や二匹に怯えるのはおかしいでしょう」
「そのほうも飛び上がって驚いていたではないか」
ようやく誤解がとけたと、小十郎はほっと息を吐いた。そうそう。根津様を鼠と呼んだわけでは断じてない。
改めてその場に両膝をついて座り、丁寧に頭を下げる。
「帳方に勤めております、大江小十郎でございます。先ほどはその……驚いてしまって、見苦しい様をお見せしました」
「……ふむ」
石床に向けていた視線をおずおずと上げると、根津様は顎を撫でながら興味深そうにこちらを見下ろしていた。
慌ててパッと視線を床に戻す。
配下の者との気安い会話を聞いて、穏やかな気質のかたかと期待していたのだが、じっとこちらを見つめる目は全然優しくない。
嘘など簡単に見抜かれそうで、ひやりとした。この人を相手に、秘密を保ち続けることができるだろうか。……いや、だからこその「黙っていろ」なのだろう。
黒ずんだ石の床を見ながら、小十郎は必死にこれからどうするべきか考え始めた。
牢に放り込まれてからかなりの時間が経っている。もっと前から考えておくべきだった。
いつもそうだ。ギリギリになって尻を蹴飛ばされないと動けないのが小十郎の悪いところだ。
今まさに、崖っぷちギリギリのところに立たされている。一歩間違えば、真っ逆さまに落ちて行ってしまうだろう。
気づかれないように、そっと呼吸を整える。
大丈夫だ、大丈夫。感触としては悪くない。鼠に怯える青瓢箪だと思ってくれている。
「黙っていろ」というのが、黙秘を貫けということならそれは無理だ。刀を突き立てられたら、どこまで黙っていられるかわからない。
そうならないように、話の流れを調整するのだ。
そう、隠し坑道の存在を悟られてはならない。知られた時点で尼子家から大目玉、最悪本城家は鉱山を取り上げられるなんてことになるかもしれない。
小十郎は、出仕二日目にして、そんなお家の命運を背負わされた不運を嘆いた。
……くそう、隠し坑道なら隠し坑道らしく隠し通せよ!