2-5 崩落再び? 2
その後、待っても待っても宗一郎殿は戻ってこなかった。
奉行所に向かってからすでに二刻は経つ。その間に早朝の鉱山は昼近くになり、淀んだ空気越しに滲む陽光はかなり高い位置から差し込んでいた。
詰め所から奉行所まで、小十郎の足でも四半刻といったところだ。何かで揉めているにしても時間がかかりすぎている。
さらに心配なのは、石銀方面に向かった幸田らの一隊までもが戻ってこないのだ。
命に係わる問題が起こるとするならそちらなので、知らせがないのは何事もないからだと楽観はできない。
小十郎は苛々と、手元に残った数枚の紙を見下ろした。
今や帳方の詰め所は見る影もない。残っている資料は握りしめているこれだけだ。奉行所には清書したものが保管されているだろうが、焼失した中に大切な記録があったかもしれない。
現場にいたのに、止められなかった。
小十郎にそれが可能だったかはさておき、こうなってしまった責任を問われるかもしれない。
「大江様」
名を呼ばれて顔を上げると、火が完全に消えているか確認していた兵たちが一か所に集まって何かを見ていた。
枝野が小十郎を手招き、彼らが見ている方向を指さす。
「これを見てくださいませんか」
嫌だと言ってはいけないだろうか。
小十郎の表情は正直にそう物語っていただろうが、砂塵避けの為に口元を袖口で覆っていたので非難の目を受けることはなかった。
仕方がないので、足元に気を付けながら近づくと、枝野は先ほどまでのニコニコ笑顔とは真逆の、深刻そうな表情で、棚だったと思しきわずかに燃え残った部分を指さした。
枝野の言わんとすることはすぐに分かった。棚の奥に、藁で包まれた何かがある。そこが燃えずに済んだのは、おそらく棚をふさぐ位置に置かれた水瓶が割れたからだ。
「何の包みでしょう?」
「今から調べてみます。証人として立ち会ってください」
いや待って。枝野のその言い方だと、あの藁で包まれた何かが重要な証拠だという事か?
小十郎は周囲を見回した。こちらを見ているのは枝野だけではない。兵たちの視線は期待というには厳しい。いやむしろ、こちらの反応を試すような目だ。
「……いや」
小十郎は用心深く口を開いた。
「上役のどなたかがいらっしゃるまで待ちましょう」
たちまち漂う落胆の雰囲気は、新入りの文官が頼りないと感じたせいか。
だが彼らはわかっていない。もしこの状況が火薬を用いた攻撃で、その一部が帳方の詰め所に仕掛けられていたのなら、それはつまり内部に敵の間者がいるという事になる。
「火の粉が散っても危険です。先に鎮火を徹底しましょう」
「いや、ですが……」
「枝野殿、これが問題のアレなら、重要な証拠です。捏造したと言われたくないでしょう? 安易に触れるべきではありません」
兵たちの数人が、ぎょっとしたように息を飲んだ。
そうだ。この場にいる全員……いやこの場にいなくとも、詰め所に出入りすることが出来たすべての者に、疑いの目が向けられるだろう。
「上の人たちにも見てもらいましょう。我々だけの証言では弱い」
証拠はきちんと保全して、疑いようのない形で、できるだけ大勢の目にさらすべきだ。
小十郎は遠巻きに藁の包みを覗き込み、手前にある水瓶が、数時間前に自分が触れたものだと気付いた。そうだ、紙を取るのに邪魔だった文鎮を、水瓶の蓋の上に置いた。間違いない。
「とにかく、焼け跡に水をかけ、完全に鎮火させましょう。熾火でも危ない。それから……」
小十郎は改めて、無残に燃え落ちた帳方詰め所を見回した。
「……まだほかにもあるかもしれません」
どこもかしこも真っ黒で、かろうじて柱は立っているが、屋根と壁の一部が焼失している。
枝野も同じように焼け落ちた屋根を見上げてから、納得したように頷いた。
「わかりました。床下だけではなく石ころの下もすべてひっくり返して調べます」
「その方がいいかと思います」
そう返しながら、小十郎はぶるりと身震いした。
思い出したのだ。今朝がた詰め所の扉を開けた時、床は砂まみれだった。つまり、あの包みが置かれたのは、昨日の崩落よりも前だ。
その意味を考えると、鳥肌が立った。
「……いったいいくつ仕込まれてる?」
誰かに聞かせるつもりで言った訳ではない。だが枝野はその言葉を拾ってひゅっと息を吸った。
聞かれたかと、ごまかし笑いをしようとして、失敗した。
枝野の表情がこわばっている。小十郎も似たようなものだろう。
そのあと、詰め所だけではなくその周辺も調べることになった。
枝野いわく、火薬は湿気やすいので、雨ざらしになる場所ではないだろうとのことだ。
つまりは、建物の中、あるいは軒下、坑道などか。
「調査するべき場所はそれほど多くありませんが、すべてを見回るには人手が足りません」
まだ幸田は戻ってこない。こんな時にのんびり道草を食うような男ではないそうで、きっと何かがあったのだと枝野は心配している。
「先に幸田殿を探した方がいいかもしれないですね」
枝野はほっとしたように息を吐き、「ありがとうございます」と頭を下げる。
何に対して礼を言われたのかわからず首を傾けると、枝野は「いえ」と唇をほころばせた。
「二人だけ、組頭を探しに行かせてください。山道ではなく獣道を行かせます。何かがあったとしても、まずは戻るようにと指示します」
「……はあ」
小十郎は何故細かく伝えてくるのかと不思議に思いながら、まじまじと枝野を見上げた。
いちいち毎回「厠へ行く」と報告してから席を立つ兄と似た感じだろうか。……違う?
「ならばもう二人、奉行所の様子を見に行ってくれませんか? 宗一郎殿の戻りがあまりにも遅いです」
小十郎の頼みに、枝野は渋い顔をした。
「四人も減っては広場の見張りが不安です」
ああ、そうだった。幸田がここにいる兵の半分を引き連れ、出てしまったので、残っているのは十人ほどなのだ。そのうちの四人が欠けると、たしかに何か騒動が起こったときに困る。
小十郎は、ぞろぞろと集まってきている鉱夫たちを振り返った。数えきれないほどの数だ。皆不安そうな顔をしているが、昨日よりは落ち着いている。
「……大丈夫だと思いますよ」
小十郎は、たいして理由もないのに、ぽつりとそう呟いていた。
人数は多いが、これを十人で見張ろうが、六人で見張ろうが、大差ない気がする。