1-1 関所
大江小十郎は、ふと空を見上げた。
雲ひとつない青空、まだ寒さの残る季節だが、日差しは強い。
細めた瞼越しに陽光がきらめき、瞬きをすると眼球の奥が鈍く痛んだ。
「おい、立ち止まるな」
上役の竹内が、首だけ巡らせて小十郎を急かす。
ようやく掴んだ仕事だ。こんなところで機嫌を損ね、失うわけにはいかない。
小十郎は素直に「はい」と返事をして、足を速めた。
小川に渡された丸太の橋は狭く、足元が不安定だ。この幅では複数がすれ違うこともできないし、後続に押されて落ちてしまえば川へ転落しかねない。
急かされるのも無理はなく、小十郎は小走りに橋を渡った。
父が戦で討ち死にし、兄が片足を失くして半年。
日に日に家に食い物がなくなっていき、育ち盛りの小十郎の胃袋が毎日抗議するようになってしばらくして、ようやく主家から出仕の許しを得た。
大江家は、石見邇摩郡の国人・本城家の家臣だ。一応武士だが半農に近い貧乏所帯で、古い屋敷と田畑はあるが、それだけで食べていくことはできない。
父と兄が武士として戦に行っていた頃でさえ「それなり」だったのだから、家計の為にも食い扶持を稼がねばならず、大黒柱としては頼りないことこの上ないが、家門の通例より早く元服を済ませ、本城家に仕官を請うたのだ。
とはいえ、そううまく話は進まなかった。小十郎はまだ元服したばかりの小柄な少年で、なおかつ、父や兄のように武辺じみたところがまるでなかったからだ。
刀や槍を持って走るよりも、書を読むことを好む。つまりは文官肌なわけだが、地方の国人領主に必要な文官の席は多くはない。
もしかしたら仕官がかなわないかもしれない……母も兄も口にはしなかったが、内心ではそう危ぶんでいただろう。
だがまあ結果良ければすべてよし。小十郎は無事仕事をもらえ、今日はその初日というわけだ。
「おぬし、もっとさっさと歩けぬのか」
「申し訳ございません」
竹内に苦情を言われ、反射的に謝罪する。身に付いた下っ端気質は気弱ととられたらしく、竹内は不遜に鼻を鳴らし嫌そうな顔を隠そうともしない。
「ここは荒くれ者ばかりがいる山だ、そんな風でやっていけるのか?」
そういう竹内も、上に弱く下に強そうだ。荒くれどもとやらに圧を掛けられたら、一目散に逃げ出すんじゃないか。……もちろん、思ったことを口に出しては言わないけれど。
「はい、心して掛かります」
殊勝に頷けば、竹内はこれ見よがしに舌打ちした。
更に足を速められたので、余計なことを考えるのはやめて、付いていくことに集中した。
丸太の橋を渡ってしばらく斜面を登った先に、武骨な丸太を壁のように並べた関所がある。
山の木々にさえぎられて、町からはほとんど見えない位置にあるその関所は、許された符丁を持った者しか通ることができない。
竹内が懐から取り出したのは黒ずんで汚れた小さな木切れで、それを見た兵が仰々しく頷いて小十郎を見下ろした。
「新人だ」
いかにも不服そうな竹内の言葉に、筋骨たくましいその兵は興味を持った様子で首を傾けた。
「ほう、噂のご分家の?」
「違う」
言葉少なく、早く木戸を開けろと身体を揺らしている竹内とは違い、関所の兵は親し気に小十郎に笑みを見せた。
「よろしくお願いしますよ、旦那」
旦那だなんて初めて呼ばれた小十郎が目を丸くして、それを見た関所の兵は口を大きく開けて笑った。日焼けした肌に、白い歯が眩しく光る。
「おい、こっちも暇じゃないんだ」
苛立った竹内の苦情に肩をすくめ、男はようやく合図を出し、木戸が内側から開かれた。
大きな扉のほうではなく、日常的に出入りするための、人ひとりが通れる程度の木戸だ。
せかせかと潜り抜けていった竹内に続き、身を屈める必要もなく通ることができる小十郎は足元に気を付けながら木戸をまたいだ。
その瞬間の感覚を、なんと表現すればいいだろう。
顔を上げる前に、視界に入ってくる何もかもが色を変えたのがわかった。
まず土の色が違う。木の色も違う。漂う風の色さえも違う。
何もかも初めて見るもので、小十郎の好奇心が最大限に跳ね上がった。
大森の町までなら幾度となく来たことがあるが、関係者ではないので関所の先がどうなっているかは噂程度でしか知らない。
初めて目にするものへの興味と、これから大人と並んで仕事をするのだという気負い。その時はまだ、明るい未来へ向けた期待の方が大きかった。
小十郎は何も知らなかったのだ。
この先に待ち構えている、暗くて重い現実を。
石見といえば銀鉱山といわれるほど、この地は豊かな資源に恵まれている。
尽きることのない銀がもたらす富は莫大で、尼子家を「出雲の守護代」から「山陰の雄」に押し上げるためには不可欠なものだった。
関所を通るまでは、精々「銀が取れる見慣れた山」ぐらいにしか思っていなかった小十郎だが、厳重な警備を潜り抜けた先で顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできたものに圧倒された。
何もかもが赤茶げている。ところどころ黒ずんでもいる。
周囲が全体的にもやったように色を帯びていて、鼻腔がとらえたのは何ともいえない異質な臭いだった。
いい臭いではない。鼻の奥がさび付きそうな、独特の臭いだ。
とっさに、口元を手で覆った。
「何をしている!」
竹内が苛立ちを飛び越えて怒りの表情で怒鳴る。
「早うついてこい! 日が暮れるわ」
「はい」
小十郎は表情を引き締めた。
とんでもないところに来てしまったのではないか。そんな風に思ったことなどおくびにも出さず、小走りになって竹内のもとへ駆け寄る。
竹内は小十郎が追いついてくるまでその場で待っていた。
親切心ではないのはわかる。
何故なら鉱山の敷地内は煩雑で、大勢が威勢の良い声を上げながら行き来していて、あっという間に迷子になってしまいそうだったからだ。
それを余計な手間と考えたのだろう。……同感だ。
眼前にそびえる仙ノ山の斜面には、岩肌に無数の穴が穿たれていた。
煙を吐き出すその口々……間歩と呼ばれる坑道の入口には、背負子を担いだ男たちの列が蛇のように続いている。
列の間では、髪を結い上げた女たちが鉱石の選別を行い、汚れた手で選鉱を仕分けていた。
子供たちが竹筒を担いで小走りに行き交い、年寄りたちが煤で汚れた顔で火に薪をくべているる。
そこかしこから、大勢の人間が立てる足音や物音がしていて、喧騒には怒声が混じり、時折悲鳴や笑い声、あるいは掛け声のようなもの聞こえる。
鉱山の外に広がる大森の町はそれなりに大きく、栄えてはいるが、今小十郎の視界に入っているのは、そんなものなど比ではない。かつて目にしたことのない密度の人間だった。
圧倒された。
そして、ここが己の職場なのだと思うと、いくばくかの不安も込み上げてきた。
新入社員、大江小十郎
もやし少年