イルマという少女2
ウォルモント城は、王都ベネートの南東にそびえる、丘陵の上に建つ。
現在も運河として利用されている、ウォルタ河の北岸にあるこの地域は交通の要衝であり、古くから城郭都市として栄えてきた。
今からおよそ300年前、この地域の重要性に目をつけたゲオルクの先祖に当たる人物が丘陵ごと、この土地を買い取った。そして、ホーエンシュタウファー家を開くことになったのだ。
当初は小山の上の要塞でしかなかったこの城は、代々の城主たちにより山を切り開き、建物の増築・改修を重ねられてきた。
ウォルモント城というのは、この小山一帯の名前である。小山全体が、その時代の城主の趣向を反映した、多様な建築物の集合体となっていた。
小山の中腹には、王家の居城であり、政務を執り行うための、3階建ての小ぶりな宮殿“星の館”がある。
この宮殿は、ゲオルクの曾祖父にあたるハインリヒ四世時代に大規模な改修が行われている。
ロアワルド南部の山々より切り出された、上質な鈍色石材で造られたその出で立ちは、きらびやかさは無くとも、武骨で質実剛健。
武勇で名を馳せた、曾祖父ハインリヒ四世 通称“戦術王” を象徴する作りとなっている。
その他、およそ6町歩(約6ヘクタール程)の敷地内には、頂上付近には監視塔や、当初木造だったものを、頑健な石造りに改造した要塞。そして、王族が儀式を行うための聖堂などがある。中腹には、星の館をはじめ、迎賓館“月の舟”、魔術師棟など。ふもとの方には、従僕たちの生活する官舎、練兵場、王家直属の騎士たちの詰め所などがある。まさにウォルモント城は、ロアワルド王国における、政治機構と軍務の中枢であった。
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ゲオルクとイルマを載せた馬車は、ウォルモントの第一城門をくぐり、なだらかな坂道を登っていく。
この第一城門は、防衛が目的ではなく、来賓の目を楽しませるために建てられたものだ。美しい白銅色の石材で造られており、建築を指示した当時の王の好みであろう、写実的なレリーフ細工による、3人の神様の装飾が施されていた。ロアワルド王国が、国教として採用している、“アルウィア教”の神々である。
(あっ・・・あの彫刻の神様は、イルマも知ってます。左側のは、剣をもってるから、たしか、えーっと、う、ヴォ・・・ン、ヴォル、・・・あああ、だめです、諦めましょう。真ん中の、葉っぱをもってる女神様は、えーっと・・・ふり、フリー?うう・・・、これもだめですね。最後の、右側のは、天秤があるから・・・だん、オル・・・ダン・・・うう、やっぱり、だめです!3人とも、お名前が難しくて、思い出せません。)
イルマは、生まれてこのかた孤児院育ちである。
孤児院は、アルウィア教の教会に併設されているため、子供たちへの教育は、聖職者や教会関係者がおこなう事がほとんど。だからおのずと、学習の内容も宗教に重きをおいたものになってくる。神様たちの名前だって、司祭からの説法のなかで何度も出てきた。読み書きの学習の際、神様の名前を書き取りさせられた事も、一度や二度ではない。それでも彼女は、大事な神様の名前を、きちんと思い出すことができなかった。
イルマは、馬鹿ではない。自分の興味の無いことに、十分な記憶のリソースを割く事ができないだけなのである。それは、けっして、馬鹿とはいわないはずだ・・・恐らく、たぶん。少女は、向かい側の座席をちらりと見た。ゲオルクが、馬車での移動中に読むため、無造作に放置している本である。
(陛下は、とっても難しそうな本を読んでいるのですね。やっぱり王様だから、頭が良くて、お勉強が好きなのでしょうか?じゃあ、お勉強のできないお馬鹿なイルマの事は、嫌いになっちゃうんでしょうか?そしたら、もしかしたら、イルマのこと、いらなくなっちゃうんでしょうか?)
ほんのさっきまで、第一城門をくぐる前までは、ウッキウキで馬車の外の景色を楽しんでいたのに。
ゲオルクに放逐されるなどという悲しい未来を勝手に想像したイルマは、打って変わって悲しみにくれ塞がっていた。眉は八の字になり、口をとがらせ、ほっぺたをぷくっとふくらませている。泣きそうになったが、ゲオルクの隣でめそめそするわけにはいかないと、必死に涙をこらえていた。
イルマなりに激しく葛藤しているのだが、当のゲオルクはそのような事は知るよしもない。
それでも、少女のあまりの豹変ぶりに、不思議に思ったゲオルクは、一応声をかけてやる。子供は、大人よりも乗り物酔いしやすいからなあ、などと考えながら。
「イルマ、具合でも悪いのか?城にはもうすぐ着くから、それまでの辛抱だ。」
ゲオルクは優しく、少女の背中をさすってやった。感極まった少女は、思わずゲオルクの腕にしがみついた。
「おわっ!?どうしたのだ急に」
「陛下っ!イルマ、お仕事もお勉強も頑張りますから!絶対絶対、陛下のお役に立ってみせますからね!」
「ん?あ、ああ。仕事をやる気があるのは良い事だ。やる気がない人間にやる気を起こさせるのは、相当に難しい事だからな。」
「はいっ!イルマはとーってもやる気です!だから、イルマのこと嫌いにならないでくださいっ」
イルマは、さらにぎゅうっと、ゲオルクに抱きついた。
「わかった、わかったから落ち着きなさい。ほら、もう見えてきたぞ、あれが、“星の館”だ。」
ゲオルクは、やっぱり子供はよくわからんなあ、などと思いつつ、少女の背中をぽんぽんと叩きながら、なだめるのだった。
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星の館の玄関前にゲオルクたちが到着すると、御者が、馬車の扉を開けて二人が降りるのを促した。
イルマはまだ小さく、一人では降りられないので、御者にだっこしてもらいながら馬車を降ろされている。
御者にお礼を言うイルマを見て、ゲオルクはほっとした。イルマはまだ小さいけれど、他者から向けられる厚意に対し、きちんと感謝を示すことができている。勉強は苦手かもしれないが、それなりの倫理観は持ち合わせている。ささやかだけど、イルマが城で働くうえで、それはとても重要なことだった。
ゲオルクとイルマの後ろには、愛馬を厩舎に戻してきた、エルウィンとカールの騎士2名も控えている。
館の正面玄関前には、国王の到着を知らされたのであろうか、一人の女性が出迎えてくれている。
年の頃は50前後、白髪混じりの髪の毛は、一本の乱れもなく後ろでまとめられている。すらりとした体躯は姿勢よく、凛としたたたずまいである。この地方の女性にしては珍しく、膝下丈の、やや細身のキュロットスカートをはいていた。
「おかえりなさいませ、陛下。ご無事で何よりです。」
「ローザ。出迎え大義であったな。」
「いえ。彼女が、陛下のお戻りを教えてくれましたので。」
そういうと、ローザと呼ばれた女性は、空を見上げた。すると上空から、白い物体がふわりと舞い降り、ゲオルクの左肩に止まった。それは、太陽の光を浴び純白に輝く、美しいシロハヤブサであった。
「ビアンカが、我らの到着を知らせてくれたのか。そなたは本当に利口なやつだな。」
ゲオルクは人差し指で、ビアンカの頭を、愛おしそうにちょいちょいっと撫でている。ビアンカは目を細め、気持ち良さそうにキュウッと鳴いた。ずいぶんとゲオルクに懐いている様子だ。
「ところで陛下、そちらの子供は、いかがされたのでしょうか?」
ローザは、その視線をゲオルクのやや後ろにいる、イルマに向けた。
「ああ、この娘はイルマという。コルベ伯からの“押収品”だ。イルマよ、ローザはこの屋敷で働く者たちを束ね管理する、とても大事な仕事をしてくれている。これから、そなたも世話になるだろう。挨拶しなさい。」
「はいっ、初めまして、えっと、ローザ、さま。イルマといいます。よろしくお願いします。」
イルマは少し緊張しながらも、元気よく挨拶し、ぺこりと頭をさげた。
「・・・はあ。それで、その“押収品”を屋敷まで連れてきて、どうするおつもりなのです?わたくしに世話になる、というのは?」
「無論、この娘をここで働かせるためだ。何を隠そう、イルマには非凡な才、」
「そういうご事情でしたら、執務室にお戻りになられてからのほうがよろしいでしょう。ちょうど、カイン導師もお見えになっておりますので。」
ローザの瞳がぎらりと光ると、ゲオルクが話の途中なのも遮り、屋敷に入るよう促した。
キュロットの裾も乱れない、美しい所作でくるりとUターンすると、観音開きの扉を押し開ける。星の館は本格的な防御施設ではないが、王家の居城であることには変わりなく、玄関扉の作りも重厚なもの。それにも関わらず、華奢な女性とは思えない怪力で、軽々と扉を開けていく。男3人衆は、ごくりと唾を飲んだ。
ところで、ハヤブサは賢い生き物である。ゲオルクの愛鳥ビアンカは、特にそれが顕著だ。
だからだろう、ゲオルクの肩で休んでいた彼女は、ギュイッと鋭く一声鳴くと、瞬く間に大空に飛び去った。まるで、不穏な空気を感じ取ったように。
「待てビアンカ!私を見捨てるというのか!」
「ビアンカに泣きついても仕方ありませんでしょう、陛下。さあ、どうぞお入りくださいませ。」
ローザが、ゲオルクににじり寄る。ゲオルクはたじろいだ。王の威厳も、ローザの前では皆無なのである。
「ではローザ殿、自分達も詰め所に戻らねばならぬので、これで・・・」
エルウィンもそう言うと、カールを引っ張ってそそくさと逃げようとする。
「エルウィン親衛隊長、何をおっしゃっているのです?当然、あなた方も来るのですよ。」
「えっ、は、はい・・・。」
「あなた“方”ってことは、僕も入ってるんですよね・・・。」
エルウィンはうなだれ、カールはふーっと天をあおいだ。
逃げようったってそうはいきませんよと、ローザの冷ややかな視線が突き刺さる。憐れな騎士2名は観念し、あとに続くことになった。
「さあ皆様、お話は、お部屋の中でたっぷりとお伺いいたしましょう。」
ホーエンシュタウファー家、第一家令ローザ・ハルトマン。
クールで冷静沈着、与えられた仕事は完璧にこなし、その優雅な立ち居振舞いは、息をのむほど美しい。
しかし、ホーエンシュタウファー家の規律を乱すものは、何であっても許さない。例えそれが、自身が仕えるべき主であっても。
ローザは、ゴリッゴリの武闘派、こわーい女家令なのである。
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イルマは歩くのが遅いので、屋敷の中で迷子にならないよう、カールに手を繋いでもらっていた。
2人は、先に行く3人の、少し後ろ側を着いていく格好だ。
「わ、わ、わ、すごいです!イルマ、こんなにおっきくて綺麗な建物に入るの、初めてです!お部屋がたーっくさんあるんですね!あっ、あの絵の男の人は、ちょっぴり陛下に似てますね。」
少女は、きょろきょろと目を輝かせながら、屋敷内の調度品を見物していた。走り出したくてうずうずしてるみたいだ。
貴族教育も受けていない子供を、こんなところにつれてきたら、こうなるのもやむなしである。あらかじめ手を繋いでおいて良かったなと、カールは心底安心した。
「イルマちゃん、危ないから、ちゃんと前を見て歩こうねー。」
「は、はい、わかりましたっ。あっ、あの壺!あれだけおっきいと、イルマなら中に入れそうですね!?」
言ったそばからこれである。これはまずい、珍しいおもちゃを見つけたときの子供の顔つきだ。カールは、今にも壺めがけて走り出しそうになっている少女を制した。
「イルマちゃん、だめだよ。あの壺はね、“ステラマリス”っていう国で作られた、特別なものなんだよ。僕のお給料を一生分払っても、買えないくらい高価なものだからね。」
「えええええ!!?そんなにするんですか!?・・・ただの壺なのに・・・」
僕もそう思うけどね、と内心同意を示しつつ、カールは口には出さなかった。彼はこれでも大人なのである。
「そうだよ。このお屋敷には、これ以外にも高価なものがたくさんあるからね。・・・もしイルマちゃんが、それを壊したりしたら、どうなると思う?」
「えっ、え?もしイルマが壊しちゃったら・・・?む、むりですっ、そんなに高価なもの、イルマは壊しても弁償できません・・・あの、もし、弁償できなかったら、どうなるんですか?」
イルマは、おそるおそるカールに尋ねた。カールはにやりと笑ったかと思うと、
「そうだねー、きっと捕まって、すごくいたーいお仕置きを受けるだろうね?そして、もう二度と戻ってこれないかも・・・」
非常に怖い顔をして、イルマを脅しつけた。
「ぎゃああああ!イルマ、お仕置きはいやです!それに、戻ってこれないのもいやです。陛下のために働くって、決めたんですから・・・」
「よしよし、じゃあ、僕と約束しよう。お屋敷の中は走らない、前を見て歩く、勝手に物にさわらない。わかったかい?」
「はいっ、とってもわかりました、お約束します。・・・あの、イルマ、ほんとうに何にも知らなくてごめんなさい。教えてくれてありがとうございます、カールさん。」
イルマは申し訳なさそうにカールを見上げた。少々お馬鹿ではあるが、素直なところは、イルマの美点だった。
カールはにっこりと笑い、イルマのくせ毛の黒髪を、くしゃくしゃっと撫でてやった。
「カールめ、やけに子供の扱いが上手いではないか。意外な才能があるものだな。」
先を歩くゲオルクは、二人のやり取りに素直に感心していた。エルウィンもそれに同意する。
「そうですね。あいつは8人兄弟の二番目だそうで。田舎の男爵領出身で、じゅうぶん乳母も雇えないからって、生まれたばかりの弟をあやしながら、剣の素振りをしていたそうですよ。」
「・・・なるほど。彼には意外と、器用なところがあるのですね。」
ローザの瞳がきらりと光る。まるで、獲物を狙う鷹のように。
「なっ!?ローザ殿、引き抜きはいけませんぞ。あの男、あれで剣術は優秀なのですから。」
「ほう。腕も立つと。」
しまった、墓穴を掘った。エルウィンは泣きそうになった。ローザは本当にやりかねないから、恐ろしいのである。
これからは、もう少しカールに優しくしてやろう。エルウィン騎士隊長は心に誓ったのだった。