プロローグ2
少女は目の前で、自分の身の振り方を、見知らぬ男に勝手に決められていた。
少女にとって、わりと重要なことである。にも関わらず、何の感慨もなかった。言葉の意味を、理解することができなかったのだ。
思考を奪われ、動物と同じように本能だけで行動する少女にとって、男たちの会話はただの音でしかなかった。
少なくとも、自分に危害を加えるようには見受けられないと判断した少女は、さっきからずっと、一点を見つめたまま膝をかかえて、ぼんやりとしていた。
「娘よ、聞いていたかな?そなた、私の屋敷に来るつもりはあるか?」
ゲオルクは、一応、少女の意向を確認する。
「・・・・・・」
「・・・娘よ、聞こえているか?」
「・・・・・・」
虚ろな目をした少女は、ゲオルクの再度の問いかけにも、なにも返事をしなかった。
「この娘、ほんとに大丈夫なんですかねー?目付き、さっきからやばいですよ?ウチの実家のニワトリのほうが、まだ表情ありますもん。」
「カール、ニワトリのほうが表情あるなんて、あんまりな言い方はよしなさい。」
「差し出がましいようですがゲオルク殿、カールの言う通りだからしょうがないではありませぬか。」
「言い方の問題なのだ。・・・せめて、犬とかにしろ。」
男たちは本人の目の前で、ニワトリだの犬だの言いたい放題だった。これはひどい、屈辱的である。
そんな散々な悪口にもかかわらず、少女はやはり一点を見つめ、黙りこくったままだった。
「まあ、無理もない。幼い娘が、このような劣悪な場所に閉じ込められていたのだ。心身とも変調をきたすのは仕方あるまい。すぐに連れ帰り、侍医に診せるとしよう。娘よ、立てるかな?」
そう言うとゲオルクは、少女に向かって片手を差し出した。
・・・見知らぬ男の手が、こちらに向かってくる。
それは少女にとって、この独房ではもっとも恐ろしいことだった。
なぜならここに閉じ込められてから、差しのべてくる手はみな、少女を押さえつけるためのものだった。
折檻をして痛め付け、反抗心を挫くために。
(あああ、なんで?何もしてないのに。言われたとおりじっとして、大人しくしていたのに。もう叫んでもないし、暴れてもいないのに。それなのに、どうして、またひどいことをしようとするの?やめて、もう痛いことをしないで)
ゲオルクが少女に触れようとしたその刹那、
「イヤッ!!」
バヂィッ!
「ぬわっ!?」
少女の身体から稲妻のようなものがほとばしり、ゲオルクは反射的に手をひっこめ、後ずさった。
エルウィンとカールは間髪いれず、ゲオルクをかばうように、少女の前に立ちはだかる。
エルウィンは両手剣を抜刀しながら、ゲオルクにまくしたてた。
「まさかこの小娘、魔力持ちだったとは!ゲオルク殿、こうなっては子供といえども何をしかけてくるかわかりませぬ!危険ですから、どうかこの娘の処遇のほどは我らにお任せください!」
意訳すると、『さっさと戻れ馬鹿野郎!』である。
「そうですよー。魔力持ちの子供をけしかけるのは、要人暗殺の常套手段ですから。危ないので戻っておいてくださいねー。」
カールも、片手持ちの剣を構える。二人とも、ゲオルクを未知なる少女から守るため、臨戦体制であった。
何やら剣呑な雰囲気になってしまった。ゲオルクは迂闊に手を差し出したことを少し後悔した。ついさっきは、こんな小娘に遅れをとるわけもないと、豪語したばかりだったのに。
少女は、ふうふうと息を荒くしながら、自らに対峙するエルウィンたちを睨み付けていた。
身体を丸め怯えつつも、ぎりぎりと歯ぎしりして、威嚇しているようだ。よく観察すると、薄暗い半地下の部屋で、少女の身体は仄明るく発光している。少女の持つ魔力が、感情の昂りとともに漏れてしまっているのだろうと、ゲオルクは推察した。
衰弱し、身の危険を感じ取った少女は、まるで手負いの獣のよう。何を仕掛けてくるか、予想できない。
(まさかこの娘、魔力持ちであったか。しかも、人身売買にかかるような娘だ、恐らく“野良”であろう。コルベ伯が執着していたのも頷けるな。)
一触即発の状況をよそに、ゲオルクは心の内で、少女の価値を冷静に分析していた。
頼むからさっさと避難してくれー、と、エルウィンは内心泣いていた。そのような彼の心情を、ゲオルクは知るよしもない・・・こともない。知ったうえで、まだこの部屋に居座っていた。それは、彼のエルウィンの実力に対する、信頼の現れでもあるのだが。
しかし、いかに信頼を寄せていようとも、人は行動が全て。結局ゲオルクは、忠臣の内心を十分に推し量ってなお、自身の好奇心を優先しているのである。この男、なかなかに良い性格をしていた。
(連れ帰れば、何かの役に立つかもしれぬ。世話は、ゴルツ宮中伯にでも任せよう・・・よし。)
僅かの思料ののち、一つの結論を出したゲオルクは、自身を守る騎士2名に声かけた。
「二人とも、もう大丈夫であろう。少しそこをどきなさい。」
「アンタにはこれが大丈夫に見えるんですかい!」
危機感の皆無な発言に、エルウィンは思わず素が出てしまった。しかし、そのような事は意にも介さず、ゲオルクは続ける。
「大丈夫に見えるからそう言っているのだ。現にこの娘、自身に手出しされぬ限り攻撃してこないではないか。恐らく先程は、少し驚いただけであろう。私も、怪我をしていないしな。さあ、剣を下ろしなさい。これでは、この娘と会話もできぬ。」
そう言うや、ゲオルクは騎士2名を押し退け、少女の前に歩み出た。二人とも、しぶしぶ剣を鞘に戻すが、警戒は解いていない。
ゲオルクは、その銀糸刺繍の施された長衣が汚れるのも厭わず、石床のうえに膝をついた。そして、少女と同じ目線で、つとめて優しく声をかけた。
「娘よ、さっきは驚かせてすまなかったな。我らは、そなたに意地悪をしにきたのではない。助けにきたのだよ。」
「ぐううう。ふーっ。」
(駄目だ。言葉が通じん。それに、さっきから興奮しっぱなしだな。これは、本当に獣のような・・・そうか、獣か。さっき魔力を飛ばしてきたのも、私が手を伸ばしたせいで、殴られるとでも思ったのかもしれないな。ならば、とにかく我らには危害を加える意図が無いという事を、この娘に理解させねばならぬ。)
逡巡したのち、ゲオルクは意を決した。彼は少女と目を合わせたまま、下からゆっくり、両腕を少女の方に伸ばしていく。そして優しく、少女を抱き寄せたのだった。
ゲオルクは少女を抱き締め、その背中を優しく撫でながら話しかける。少女を刺激しないように、慎重に。
「よーしよし、おとなしい良い子だね。安心しなさい、そなたを害する者は、もういないからな。」
突然の抱擁に驚いた少女は、びっくりして一瞬硬直したあと、小さくぷるぷると震えていた。
ゲオルクは、なだめるように背中を撫で続けてやった。すると少しずつ、少女の震えも収まっていく。
子犬みたいな娘だなと、ゲオルクは思った。
(温かくて・・・優しい・・・それに、なんだか、この人は・・・良い匂いと、落ち着く、良い音がする。どうしてこの人は、こんなにも優しいんだろう。どうしてわたしは、この人に抱き締められて、こんなに暖かくて、嬉しいと感じているんだろう。さっきわたしは、この人を傷つけようとしたのに。)
絶望の底に押し込まれ、一人で凍えていた少女は、久方ぶりに、人の温もりにふれた。
体温だけではない、あたたかで優しい感情が、少女を包み込む。まるで、氷を溶かしていくように。自然と、少女は口を開いた。
「・・・あなたは、わたしを怒らないの?」
少女は、初めてまともな言葉を発した。ゲオルクは、一応の意思疏通が可能な事に安堵した。
そして、多少は自分に懐いてくれたような気がして、ちょっぴり嬉しくなった。
「怒る必要などないではないか。こちらこそ、驚かせてすまなかったな。お互い、無傷で何よりだ。」
「・・・あの、さっきは、ごめんなさい。びっくりして、また、ぶたれると思って、怖くて・・・ほんとうにごめんなさい。」
この部屋で少女が受けていた仕打ちは、その身なりから一目瞭然である。
ゲオルクは、何も言わないかわりに、少女の頭を優しく撫でてやった。大きくて温かな手に撫でられて、少女は安心して嬉しくなったのだろう。ゲオルクの肩に頭をすり付け、小さな手で彼の外套をぎゅっとつかんだ。まるで、もうこの人と離れたくないという、少女の意思表示みたいだった。
少女が落ち着いてきたところで、ゲオルクは問いかける。
「ところで娘よ、そなた、名はなんと申すのだ?」
「えっと、わたしの名前・・・名前は、“49番”と呼ばれていました。」
「は?49番?それが、そなたの名前なのか?」
非常識な名前に、ゲオルクは怪訝そうな顔をした。
「はい。わたしが、ここに来る前、孤児院でいた頃は、司祭様がつけてくれた、別の名前がありました。でも、ここに連れてこられて、『これからは番号で呼ぶ』と怒られました。それから、わたしの名前は“49番”になりました。」
少女は、暴力と抑圧により、“49番”という呼び名を、すっかり受け入れてしまっているらしかった。
しかし今後、この少女の事をそのように呼ぶわけにはいかない。新たな環境に旅立つ少女には、新たな名前が必要だと、ゲオルクは思った。
「そうか。ならば、わたしがそなたに名を与えようと思う。49番などというのは、名前とはいわない。金輪際、そなたをそのような番号で呼ぶ者はいない。そなたもそのようなくだらない呼び名は、ここでの記憶とともに忘れてしまいなさい。」
「・・・!はいっ、わかりましたっ。わたしは、あなたに、わたしの名前をつけてほしいです!」
少女は興奮ぎみに、きらきらと目を輝かせながらゲオルクを見つめる。ゲオルクは、ふーむと、少し思案した。
「娘よ、私はな、何よりも知性を愛し、尊ぶ者なのだ。そなたには、只人にはない力があるようだね。しかし、ただ闇雲に、力を振るうだけでは、いずれ破滅を迎えるだろう。振るわれる力には、知性が伴わなければいけないのだ。だから今後、そなたは“イルマ”と名乗りなさい。いにしえの言葉で、“叡知ある者”という意味だ。」
「・・・イルマ!私の名前はイルマですねっ。とっても素敵な名前です。とっても嬉しいです!」
「喜んでもらえて何よりだ。・・・さてイルマ、そなた、行くあてがないのなら、私の屋敷で仕えなさい。この時勢、魔力を持つ者は貴重であるからな。それに見合った仕事をしてもらう。衣食住の保証もしよう。」
「わあっ、ぜひっ!・・・あっ、でも・・・わたしがおとなしくしていないと、孤児院の子たちをいじめるって、ここの怖い人たちが、いつも言ってたんです。だから、勝手には・・・。」
イルマと名付けられた少女は、喜びから一変し、うつむいてしまった。
なるほど、ここの守衛連中は、少女を精神的にも抑圧していたのだな。ゲオルクは、やるせない気持ちになった。それと同時に、このような境遇であっても同郷の者たちを心配する、心根の優しい少女に好感を覚えた。
「案ずるな。そのような不届き者が狼藉を働かぬよう、取り計らおう。そなたは安心し、私のもとに仕えるがよい。」
ゲオルクは少女の頭を撫でてやり、優しく微笑んだ。
「わおー!本当ですか!ぜひっ、わたしをあなたのところにつれていってください!」
イルマは、きゃあきゃあと喜んだ。もし彼女に尻尾があったなら、ちぎれそうなくらいぶんぶん振られていることだろう。
「そうだ、わたしは、イルマはっ、あなたにお仕えするのに、まだあなたの名前を知りません。わたしも、あなたの名前を教えてほしいです。」
少女は、少し冷静さを取り戻し、そう尋ねた。
「私の名か。よいだろう。私は、ゲオルク。ゲオルク・ホーエンシュタウファー・ロアワルド。・・・この、ロアワルド国を統べる王である。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かくして、イルマとゲオルクは出会った。
しかし、二人はまだ気づいていない。この邂逅が、これからの二人の運命を、大きく動かすことを。そして、ロアワルド王国の歴史が変わる、夜明けを告げる暁鐘であったということを。
そして、頭を抱えながら深くため息をつく、親衛隊長エルウィンにも、気づいていないのだった。