いのに 【蛯村雨丸】
サムライ道に想いを馳せていた俺は、死体を見たときに気になった奇妙な形の刀にもう一度目をやった。その刀はまるで【つ】のような形をしていて、この【つ】の上の部分に柄が付いていて……あぁ、めんどくさい。
分かりやすく図で説明します。
【ー|つ】
【ー|つ】
……いや、あんまり分からない。これ↑の持ち手の部分がもう少し短く、【つ】の部分がもう少し長い感じでイメージしてもらえれば分かりやすいだろう。
刃は外側に付いているので、この屋敷の主は【つ】につらぬかれている。それを見ると尚、この男に同情する気持ちが湧いてきてしまう。きっと恐ろしかっただろうに、普通の刀(実際には懐刀などの短刀)で切腹をするのも度胸がいるのに、こんな厳つい不気味な刀で腹を切るなんて。
というか、よく見ればこの部屋自体も奇妙だ。本来は奇妙でも何でもないはずだが、この屋敷においてこの部屋は妙な違和感を発している。
その正体は非常に簡単で、この大広間にはさっきまでの屋敷につきものだった変態趣味な気配が一切ない。この部屋だけを見るならば真人間の家にしか見えない。
この広間から一歩出て、横をチラっと見てみるとやはりそこにはいわゆるイチモツの壁紙があるし、より周囲を見渡してみると、春画を印刷したポスターのようなものが張られている場所もある。
それなのにこの広間は異常だ。その異常性は相対的なものであって絶対的なものではない。まぁ、元来変態性や異常性とは相対的な価値観によるものなのかもしれないがな。
こんなことをしている場合ではない。ふと我に帰ってきた俺は仕事をするためにポリバケツに入った水で無数の雑巾の内の何枚かを湿らせる。
水で重たく、そして冷たくなった軍手を外したくなる気持ちを押さえて廊下へ出ていき、換気のためにサっと窓を開けながら水場らしい場所はないかとあちこちを探し回っているとトイレを見つけたのでそこで雑巾を両手で固く絞った。
海の季節に相応しくない冷たい風がビューっと吹く。ここはある種の禁足地だ。踏み入れてはいけない地であることを自覚する必要があるんだ。歩き回ったからか、動揺しているからか、全身から溢れ出てきた汗が風で冷える。奇妙な感覚だ。
幸いにも汚れは酷くない。しかし、切腹死体ということなので丁重に扱わなければ俺も死体と化してしまうだろう。これだけの身分があるお方であるならば、切腹をすることに価値も生まれるんだ。
細心の注意を払いながら、なおかつ出来る限り急ぎながら俺は仕事を続ける。ひとまず広間の周辺を一通り綺麗にしてから本題の死体に向きあったんだ。
介錯をしない場合の切腹死体はどのような作法で処理すれば良いのか。困った俺は一度戻って雪太郎様の助言を仰ぐことに決めた。
今までのお清めは自然死や殺人のパターンしかなかったので、良く良く考えてみればやり方を理解できていない。
サムライにとって切腹とは並々ならぬ覚悟の上で行われる行為なので、俺も生半可な知識や覚悟で向き合うべきではないだろう。
俺は文字通り踵を返して、汚いものばかりが映る廊下を歩きだそうとした。迷いのないその一歩目はきっとサムライ的にもグッドだろう。(サムライってなんだよ)
——ゾゾゾっ
風が吹いたわけでもない。何が物質的な変化を感じている訳ではないが、背中に入る前と同じような寒気を感じた。そして、それはドンドン、ドンドンと強くなっていく。終いには寒すぎて身体が勝手にガタガタと震えだしてしまった。
視界にも変化なんてないはずなのに、目に映るもの全てが急速に負のオーラを纏いはじめているような気がして、四方八方から銃を突き付けられているような、そんな四面楚歌なシチュエーションに閉じ込められた風に錯覚する。
誰かの空間に入り込んでしまった感触。例えるなら、死体の身体の中に魂が入り込んでしまったような、そんな感触を覚えている。これが何を意味するのか、それを考えると不安で震えそうになる。
——ドクっ。心臓が跳ねた。それはまるで、とんでもない異変を感じ取ってしまった計測器のように、針が端から端までをビュンっと動くかのように心臓がいきなり跳ねた。
息が荒くなり、脈拍が激しく早くなる。そんなはずはない、そんなはずはないのに、俺は自分の目の前で大鎌を持ち、ローブを被った骸骨の死神が居るように見えた。
両手は自然とみぞおちの辺りを押さえる。すると、姿勢が低くなり、自分の肉体の窮屈さが増していく。は?
これは、俺はここで【死】ぬのか?なぜ?
立つことすら出来なくなり、失神する寸前のように力を失って右膝と頭を壁にゴンっとぶつけ、倒れこむ。痛みと心臓の鼓動で考えることが出来なくなり、ゼェゼェとマラソンをし終わった後のように肩で息をし始めると無意識は楽な体勢を求めて自然と天井を見上げるように仰向けになる。
両腕両脚は完全に脱力して、大の字になって動けなくなる。そんなときに目に映ったものは、やはりちんちんだった。