5.僕の袖の先を控えめに、だけど強く握っていた
校舎裏の魔のトライアングル。
板前さんの目の前には仁王立ちしている桂君の姿があった。いかにも偉そうな態度で、彼女を威圧している。
「ちゃんと指示通りに来たか。自分をわきまえている点は評価してやろう」
その物言いに板前さんは軽く首を傾げる。そして「番長パターンの方だった」と小さく呟くとそれから「残念だけど、あなたの要求には応じられないわ」と彼に告げた。「ああ?」とそれに桂君。
「決闘は日本では犯罪になるから」
「決闘? 何の話をしているんだ、お前は?」
ちょっと迷ってから「だって、番長決定戦の為に呼び出したのでしょう?」と彼女は返す。
「っな訳ねーだろうが! てぇか、番長決定戦って何だよ?」
「昔の漫画によく出て来るやつ。主にヤンキー漫画」
「そんな漫画を参考にするな! てぇか、仮に参考にしたとしても、どうして俺とお前で番長決定戦をするんだよ?! どんな思考をしているんだ、AIリアンは!?」
一通りツッコミを終えると彼は頭を掻きながら呟く。
「ったく、これだから、AI風情を人間扱いするなって言うんだよ」
それから彼は板前さんの姿を投げやりな感じで見やると、睨みつけるようにしながら言った。
「俺がお前を呼び出したのは、忠告をする為だよ。お前らAIリアンはAIの一種だ。AIはAIらしく人間の道具として扱われてろ。それが正しい世の中の姿なんだよ」
「何が言いたいの?」
「テストで良い点数を取ってあまり目立つなって事だよ。いや、最悪、テストは別に良い。だが、良い大学には絶対に入るな! 道具であるAIが上の立場になったら、人間社会の根幹が揺らぎかねないからな!」
板前さんはそんな彼の言葉に首を傾げる。
「AIリアンと俗称される者達は、人間に分類されているわ。あなたの主張はだから間違っている」
淡々とした口調で怒りは伴っていなかったが、本当に彼女が怒っていないのかどうかは分からなかった。
「それはお前らを人間として扱っている世の中の方が間違っているんだよ! 本来はAIに分類されるべきだ」
今度は彼女は首を傾げなかった。わずかな間の後に口を開いた。
「それは非科学的な主張ね」
「ああ?」と桂君。
「ラバって知っている? 雄のロバと雌のウマの交雑種。でも、このラバは正確には生物種として認められていない。何故なら生殖能力がないから。それが生物種の定義なの。
だけど、私には生殖能力があるわ。私と歩君が性交すれば、私は妊娠して人間の子供を産める。だから生物学的に私は完全に人間よ。私の場合は、歩君以外の人と性交しても妊娠はしないけれど」
「いや、妊娠するだろ?! どっちが非科学的だよ?」と、ツッコミを入れてから桂君は続けた。
「あのな! そんな定義いくらだって反論できるだろうが? 生殖能力がない人間が世の中にはいる。そいつらは人間じゃないってか? ふざけた事をぬかすな」
彼としては完全に論破したつもりだったのだが、板前さんは動じない。その反論をあっさりと認めてしまった。
「そうね。さっきの私の主張は“人間”の定義として全然完全じゃないわ。私にとって都合が良い定義を言っただけ」
が、もちろん、それでは終わらない。
「でもそれはあなたも同じ。“私を人間と認めたくない”というだけ。それとも、あなたには“私を人間としない、完全な人間の定義”が言えるの?」
声を荒げつつ彼は返す。
「少なくともお前よりは正しい定義を言えるよ! 人間は正常にコミュニケーションできなけりゃいけないんだよ! お前みたいに話していて何か変なのは、だから人間じゃないんだ!」
それに淡々と彼女は返す。
「その定義だと、訓練して正常にコミュニケーションできるようになれば私も人間って事になるわ。それに高度なコミュニケーション能力を備えたAIも人間って事になる。更に言うと、コミュニケーションが苦手な人は人間ではなくなってしまう」
それを聞いて桂君は顔を真っ赤にした。反論されて頭に血が上ってしまったようだ。堪え切れなかったようで「うるせぇ!」と板前さんを怒鳴りつつ突き倒した。彼女は尻餅をついてしまう。
「AIがガタガタと人間様に逆らうんじゃねぇ! こっちはそれが問題だって言ってるんだよ!」
それから彼は拳を握って、彼女にそれを示した。
「大人しく従わないのなら、これで分からせてやるしかないな」
そしてそう板前さんを脅した。
やや驚いた顔で彼を見上げながら、彼女は「決闘は日本では犯罪に……」と言いかける。「それはもういい!」と彼。拳を振り上げる。が、そのタイミングだった。
「ゆかりちゃんに乱暴するな!」
突然、そんな声が聞こえたのだった。桂君が目を向けると、怒りに震えた表情の小鳥遊君が迫って来ている。拳を握りつつ彼は叫んだ。
「くらえ! 貧弱パンチ!」
――説明しよう!
“貧弱パンチ”とは、華奢で体重の軽い小鳥遊君から放たれるパンチであり、破壊力が極めて低いが故に思い切り殴っても相手を怪我させる事がないという便利な技である(類似技に虚弱キックがある)。
そのまま小鳥遊君は、貧弱パンチを桂君の横顔にヒットさせた。破壊力は極めて低いはずなのに、それを受けて桂君は倒れてしまったので「え?」と小鳥遊君自身が思わず驚いてしまう。
強面だけど、桂君は意外に身体能力が低いのかもしれない。
「痛ぇな! 何するんだよ!」
「何するもなにも、普通は女の子が乱暴されそうになっていたら護るだろう?」
「女の子~? こいつのどこが女の子だよ?」
そう言って桂君は立ち上がった。言われた小鳥遊君は板前さんをじっと見てみる。ちょっとだけ嬉しそうにしながら彼女は立ち上がった。
スタイルはそんなに良くないけれど、それが却って彼女の魅力になっている気がする。大きめの瞳。清涼系。ショートカットが今日も可愛く似合っていた。
彼女の可愛さを確認してから彼は言った。
「どっからどう見ても女の子じゃないか!」
真っ当な意見。
しかし、それに桂君は「違うだろうが!」と返すのだった。
「お前だって充分に分かっているんだろう? そいつは人間じゃない。AIリアンだ。お前は勉強をしなくなったよな? それはそいつには勝てないって思い知ったからじゃないのか?」
「は?」とそれを聞いて小鳥遊君は声を上げた。
「何の話?」
「だから、二学期になって、お前は勉強をあまりしなくなったよな? 成績が落ちたじゃないか。そこにいるAIリアンに勝てそうにないから止めたのだろう?」
それを聞いて小鳥遊君は思い出していた。「脱落者め。勝てなくて諦めたか」と以前に彼に言われていた事を。
“あれって、そんな意味だったのか……”
「はー……」と思わず彼はため息を漏らしてしまう。
……世の中には様々人がいる。
色々な価値観。色々な特徴。色々な環境。
それぞれが絶対のはずがなくて、互いに矛盾したり競合していたりもしていて、でも関わり合いを断てるはずもなくて、だからこそ己のそれだけを基準に世の中全体を把握しようとしたら、齟齬が埋められなくなって問題が起こってしまう。だから我を通し過ぎる訳にいかない。
でも、それを理解しない人もいる。例えば、今、目の前にいる桂君みたいな。
「違うよ。僕が勉強しなくなったのは、ただ単に安心したからだよ」
僕はどうせ通じないだろうと思いながらもそう言ってみた。
「安心? 安心って何の話だよ?」
「ゆかりちゃんの事だよ」
「は?」
「ゆかりちゃんは中学時代以前はもっと孤立していたんだ。でも、高校に入って他のAIリアンとも交流ができて、普通の生徒達ともそれなりに仲良くなっている。だからもう僕が同じ学校に進学しなくても大丈夫だって安心したんだ。
それで僕は勉強を熱心にしなくなった。
ま、流石にもう彼女のレベルには追い付けなさそうってのもあるのだけどね」
それを聞いて、桂君は“何を言っているんだが分からない”といった表情で僕を見た。
「何を言ってるんだ、お前? 勉強は自分の成績の為にやるもんだろうが?」
その彼の言葉に僕は肩をすくめた。
「僕には別に行きたい学校もないしね。だから君にとってはそうなのかもしれないけど、僕にとっては違うんだ。理解してくれとは言わないよ。でも、自分には理解できない考え方もあるって事は分かってくれ」
まだ彼は混乱しているようだった。
「だったら、AIリアンなんかに合わせないで、もっとレベルの低い学校を目指すようにこいつに命令すれば良いだろう? なんでお前の方がAIリアンに合わせるんだよ?」
その言葉に、僕はまた大きくため息を漏らした。
「はー……」
彼を見る。
「命令って何? 僕らはそんな関係じゃないよ。
それに、彼女がレベルの高い学校に進むしかなくなったのは、君みたいなAIリアン差別主義者の所為だろう? 差別されているAIリアンが無事に社会を生き抜く為には、“高学歴”って肩書が必要なんだよ」
その僕の説明を、彼はやっぱりよく理解できていないようだった。ただし何も反論はして来なかった。これ以上は無意味だと思った僕は「行こうか、ゆかりちゃん」と言って彼女を誘ってその場を離れた。
「――歩君」
校舎裏を離れて少し歩いたところだった。突然、ゆかりちゃんがそう話しかけて来た。腕が引っ張られたようになり、振り返ると彼女が僕の袖の先を控えめに、だけど強く握っていた。
「……さっきの話」
と、小さな声で彼女は言った。気の所為じゃなければ、少しだけ涙ぐんでいた。
「ああ、さっきの。桂君のね。酷い事を言うよね」
と僕は言ってみる。だけど彼女は小さく首を振り「違う」と返すのだった。
「それじゃない」
僕には彼女が何を伝えたいのかが分からなかった。
「じゃ、どれ?」
ちょっと彼女は逡巡しているようだった。けど、それから口を開いた。
「歩君が勉強をしなくなった話」
「ああ、あれ」と僕。
「本当は僕もゆかりちゃんと同じ大学に行きたいのだけどね、流石に厳し……」
そう言いかける僕の言葉を遮るように彼女ははっきりと言った。
「嫌」
じっと僕を見つめて来る。
潤んだ瞳で。
まるで、許しを請うように。
「歩君と離れたくない」
それは時が停まったみたいだった。その瞬間、その彼女の瞳に、僕は射貫かれていたのだ。
演技の表情じゃない。長い付き合いの僕には分かる。感情表情が乏しいAIリアンである彼女が、強く感情を表している。
――そして、それで僕の中に火が灯った。
1―1。
板前さんの教室。
戻って来た彼女を見つけて、水木さんが話しかける。
「ね、相手の男の子はどうだった?」
そう訊かれて彼女は淡々と返す。
「突き倒されたけど、歩君が護ってくれた」
……嘘は、言っていない。
「なっ!」と、それに水木さん。
「ちょっと、その男子の名前を教えなさい。どこのどいつよ!」
……それから桂君が板前さんを襲ったという噂が学校中に広まり、桂君は板前さんには一切手を出せなくなったのだった。
自業自得である。