54.お前が殺そうとしているのは、ただの優しい女の子だよ
「……ごめんね。ごめん」
しばらく何もかもが真っ黒になっていた。目に光を感じ、空が見えた。あれ? 何をやっていたのだっけ? 身体のあちこちに痛みを感じて思い出す。そういえば、僕は崎森とかいう全個一体会の男にしこたま殴られたのだ。それでしばらく気を失っていたのだろう。
意識が明確になって来ると、渡部さんが謝っている声が聞こえた。それは掠れたような聞き取り難い声だったし、それにとても小さかった。見ると、彼女は首を絞められている。無理に声を出しているのだ。ただ、それでもその印象的な優しそうな声は、近くを転がる僕の耳にもちゃんと届いていた。
“助けないと”
そう思ったけど、思ったように体が動いてくれなかった。
“このままでは、彼女が殺されてしまう”
そう思ったところで気が付いた。崎森が渡部さんの声に動揺をしているのだ。後ろ姿でも背中が震えているので分かった。強がるように言う。
「なんだ? 命乞いか?」
声も少し震えていた。もしかしたら、彼は彼女の首を絞めながら、迷っていたのかもしれない。これで本当に良いのか?と。だから彼はまだ彼女を殺せていないんだ。
「……ちが…」と渡部さんは答える。
「……辛そうに…… し…… いたのに、気づ…… あげられな……から」
崎森が首を絞める力を緩めたのか、彼女の声はさっきよりは大きく聞こえた。「ああ?」と、返すと崎森は彼女を投げ飛ばした。威圧するように言う。
「俺のどこが辛そうだって?」
投げ飛ばされはしたけど、そのお陰で彼女の首は解放された。気道が開いた彼女の呼吸器に空気が大量に吸い込まれ、そして思い切り彼女はむせた。何度か咳をした後で呼吸を整えてから彼女は応える。
「大丈夫。きっと、近い内にナノマシンネットワークが形成されない原因が分かるはずだから。そういう研究をしている人達がたくさんいるって聞いた事がある。AIリアンの人だって……」
彼女の言葉に崎森は苛立ちを覚えたようだった。
「だーかーらっ! 俺が苦しんでいる前提で話してるんじゃねーよ!」
そう怒鳴る。渡部さんはそれでやや怯んだ。崎森は半身を起こして彼を見上げている状態の彼女に近付いていく。
「でも、今の世の中で、ナノマシンネットワークがなかったら、色々と不便だから」
言い訳をするように渡部さんは言った。きっと彼女は崎森の心中が理解できないのだ。彼の劣等感や辛さは理解できても、プライドを刺激された事で感じる苛立ちは分からない。彼女の性格を考えれば無理もないかもしれないけど。
彼女の前までやって来ると、彼女を見下ろしながら彼は言った。
「そーやって、一生自分は正常だって思い込んでろ! いや、今からお前は俺に殺されるからそれは無理か」
そして、彼は無抵抗な彼女の首を再び絞め始めた。
「わた……しは、ただ、あな…… を助けてあげ……って」
必死に彼女はそう訴える。けれど、その言葉は彼には通じない。いいや、通じてはいる。けど、だからこそそれは火に油を注いでしまっていた。
「俺は“可哀相”なんかじゃねーんだよ! わからねーのか!」
……人間がストーキング行為をする“本当の原因”は、不安なのだそうだ。自分に自信がない。将来をどう生きれば良いのか分からない。それが誰かに対する執着となって現れてしまう。そして、何かの切っ掛けでそれが爆発し、時には凶行に及んでしまう場合すらもある。
……多分、彼も同じなのじゃないか?
現代では、ナノマシンネットワークがなければ生活は著しく不便になる。就職だって大きく不利になるだろう。その不安で渦巻いている彼の憤懣が、渡部さんに向かって吐き出されてしまっている。
――なら、もしも彼を止められる可能性があるとするのなら、
「――なら、どうしてあなたは、彼女を殺そうとしているのですか?」
僕は弱った身体で精一杯に大きな声を出した。崎森の手が停まる。物凄い表情で僕を見たのが分かった。
「もし本当にあなたが自分を“可哀想”じゃないと思っているのなら、彼女を殺す必要なんかないはずです」
「ハハッ」と笑うと崎森はゆっくりと立ち上がって僕を睨みつけた。
「まだ、死んでなかったのかお前。いいぜ、お前から殺してやる。そういや、“AI連携能力強化学習方”とかいうふざけたもんを開発したのはお前だったけか?」
僕はそれに冷静に返した。
「あなたが渡部さんを殺そうとしていたのは、彼女を殺せば“AIリアン達”が、世界平和を目指さなくなると思い込んでいるからじゃなかったのですか?」
それで彼は動きを止めた。
「あなたは、もしかしたら、僕や渡部さんが、今まであなたの人生を苦しめ続けた元凶であるかのように感じているのかもしれませんが、違いますよ。彼女はただあなたを助けたがっているだけだ!」
崎森は歯を食いしばって僕の話を聞いていた。説得できるかどうかは分からない。でも、彼の凶行を止める為にはとにかく話すしかない。
「僕は今、渡部さんのいる高校で働いています。だから知っている。AIリアンである彼女は他の生徒達から差別を受けています。つまり、あなたと同じだ。彼女だって辛い境遇に立ち向かって生きているんです。彼女はあなたを差別したいだなんて思っていないし、してもいない!」
それを聞いて彼は目をつむった。そして、目を開くと言った。
「うるせぇ」
声は小さかった。
「色々とゴチャゴチャうるせぇ。混乱するだろうが。俺はただこの女を殺せって言われたから殺しに来た。ただ、それだけだ」
怒りは消えているようだった。が、なにか虚ろな様子だ。そして、再び向きを変えると彼は渡部さんに近付いていった。
彼女の首に手をかける。
――駄目か?
渡部さんが言った。
「わたし達が、あなたを助けるから」
それに構わず、彼は腕に力を込めたようだった。
そこで山井さんが声を出した。殴られた後、様子を窺っていたらしい。
「殺せって言われたから殺しに来た? 何言ってやがるんだ? お前は組織の命令だからってそれに従うような簡単な奴じゃないだろうが!」
ピクリと反応する。
その動きでなんとなく察した。彼は自分を誰かに止めてもらいたがっているんだ、と。
山井さんは続けた。
「その子はAIリアンかもしれない。けど、お前が殺そうとしているのは、ただの優しい女の子だよ」
それで崎森は動きを止めた。渡部さんの首から手を放す。そして、「くそう……。ちきちょう…」そう言いながら、涙をこぼしたようだった。
それから、間もなくして、パトカーのサイレンの音が聞こえて来た。
渡部さんはゆっくりと起き上がると、吉良坂君を心配して近づいていった。彼は幸い生きているようだった。彼女がタオルを取り出して傷口を拭き始めると、彼は意識を取り戻し、絶対に大丈夫ではないと思うのだけど、「大丈夫だからやめろ」と言って止めさせようとしていた。
照れるくらいの余裕はあるらしい。
その少し後に、ゆかりちゃんがやって来て、僕を見つけると「歩君が、ちょっと見ない間で、アバンギャルドな整形手術を施されちゃった」と言って心配してくれた。……いや、多分、心配してくれていると思うのだけど。
どうやら僕は相当に酷い顔をしているようだった。けど、彼女がふざけられるくらいの余裕はあるらしい。
――そして、それからちょっとして崎森は警察に連行されていった。




