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25.AIリアンちゃんは掃除用ロボットが好き その1

 “人間”の境界線ってどこにあるのだろう?

 

 生物の授業を受けていた時に、そんな疑問を私はふと思った。先生が人間の肉体には無数の微生物が生息していて、しかも遥か昔から共進化を遂げて来たと説明したからだ。

 そういった無数の微生物がいなければ、人間の生物としての機能は損なわれてしまうのだそうだ。自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害、統合失調症、アレルギー性の病気などは、人間の肉体に宿る様々な微生物の欠乏が要因になっているのだとか。

 人間の精神にまで微生物が影響を与えているという話は、私にとって新鮮だった。そして、これは単なる感覚的なものに過ぎないのかもしれないけど、微生物が人間の精神形成の少なくとも一部を担っているとするのなら、微生物は“私自身”の一部としてしまっても良いのではないかと思ってしまったのだ。

 そして、だからこそ、そこから派生してこのようにも考えた。

 

 ――では、

 果たしてAIは、人間の一部と見做すべきだろうか? それとも、どんなに深く影響を及ぼしていたとしても、やはり人間の境界線の外にいる存在と見做すべきなのだろうか?

 

 実は私の妹の葵はAIリアンだ。

 

 ただ、葵がそうなってしまったのがいつ頃の事なのかは定かではない。AIリアンになると感情表現が乏しくなるのが普通なのに、葵の場合はそうはならなくて気が付かなかったからだ。

 

 休日の朝。リビングで遅い朝食を取っていると、葵が庭先の木の根元でしゃがみ込んで何かを観察している姿が目に入った。

 「あんた…… なにやっているの?」

 と、私が尋ねると、彼女は「あ、おねーちゃん!」と妙に高い声を上げ、

 「アリを観てるの!」

 などと返して来た。

 「おねーちゃん! アリって凄いんだよ! 今、虫の死骸を運んでいるところ!」

 「はー」と私。

 呆れているのだ。もう高校一年にもなる年頃の娘がするような事じゃない。

 

 そう。妹の渡部葵は…… AIリアンになって、何故かとても幼い行動を見せるようになってしまったのだった。

 それに我が渡部家一同は大いに困惑している。ただ、それでもお父さんは……

 「そうかー。アリは意外に興味深いもんなぁ。葵はよく気が付くねぇ」

 反抗期も訪れず、いつまでも幼い反応を見せるそんな葵が可愛くて堪らないらしく、いつも甘やかしている。つまり、とても呑気だ。

 「あなた、またそんな事を言って。ご近所さんに見られるかもしれないのに」

 それに対してお母さんは少々心配し過ぎだ。将来、これで上手くやっていけるのかとあれこれ考えている。

 因みに私はその中間といったところだ。確かに外見は高校生らしくなっているのに、いつまでも幼い子供みたいな妹が心配ではあるのだけど、多分、大丈夫だと思っている。何故なら……、

 

 「やっぱりアリって凄い! さっきまで遠回りしていたのに、もう最短ルートを見つけちゃった! “巡回セールスマン問題”の近似解をたくさんのアリを使う事で求めるっていう“群知能”を本当に使っている!」

 

 ……妹の葵は、言動は幼くても、AIリアンだけあって物凄く頭は良いからだ。難しくて何を言っているのか私ではさっぱり分からないなんて事もしょっちゅうだ。

 もちろん、お父さんもお母さんも分かっていないのだろう。今の葵のアリに関する感想を聞いてお母さんは聞こえない振りをして、お父さんは「それは凄いねぇ」などとてきとーに話を合わせていた。

 

 葵がAIリアンになってしまったと分かった当初、お母さんはなんとか葵を元に戻そうと必死になっていた。しかし、結局は諦めるしかなかった。そもそもAIリアンは病気であるかどうかも定まっていない。更に加えて、既に葵の精神はAIリアンの状態で固まってしまっている。それを無理矢理に変えてしまうと、何が起こるか分からないのだそうだ。

 それに、もし仮に元に戻せたのだとして、果たしてその人格は“正常な”人格だと言えるのだろうか? 私達にとっては当り前に思えるかもしれないが、私達にとっての当たり前が“正常”とは限らない。それを正常と言ってしまうのは、私達…… つまり、今の人間社会の傲慢であるのかもしれない。数十年後は、もしかしたらAIリアンこそが普通の人間になっているのかもしれないのだから。

 神経倫理学の観点からも、人格に影響を与えてしまうような処置は好ましくないとされ、今のそのままの葵を、私達は家族として受け入れたのだった。

 

 「アリ、凄いなぁ」

 

 私達の葛藤を知ってか知らずか、今日も葵は無邪気に過ごしている。いつの間にか、そんな彼女に私達もすっかり慣れてしまった。

 

 ――目下のところ、一番心配なのは学校で葵がいじめられていやしないかという点だろう。私と葵は同じ高校に通っているけど、私が三年で葵は一年、学年が別だから、正直、どんな高校生活を送っているのかはよく分からない。

 ただ、

 「心配いらないわよー」

 リビングのソファの上から、そんな声が聞こえて来た。抑揚のない淡々とした特徴的な喋り方。

 「あんた、なんで朝から私の家にいるのよ?」

 「そりゃ、ここがわたしの親友の葵ちゃんの家でもあるからじゃない、南ちゃん」

 「友達の姉も友達扱いか、あんたは」

 この妹の女友達の、妙に馴れ馴れしい青森さんの言葉を信じるのなら、そんな心配は杞憂であるらしい。

 因みに“南”は私の名前である。

 青森さんは堂々とコーヒーなんぞをすすっていた。痩身で丁寧に切り揃えられた髪の毛。無表情で淡々とした口調だから、AIリアンなんじゃないかと疑いたくなるが、列記とした一般人であるらしい。つまり、頭は普通だ。変人ではあるが、単に図太い性格をしているだけのようだ。

 「皆、葵ちゃんが可愛いから気に入っているし、それにもしいじめている不届き者がいたら殴るわよ」

 「あんたが?」

 「わたしも殴るけど……」

 そう言って言葉を止めると、少し何かを考えるような仕草の後で彼女はこう続けた。

 「問題はロリの基準をどう決めるかだと思うのよね。

 葵ちゃんは、姿は年相応の高校生だけど、精神年齢は幼いわけじゃない? これってロリコンになるのかしら? それとも精神は関係なくて、飽くまで肉体に因るのかしら?」

 私は腕を組むと大きく頷く。

 「うん。あんたが何を問題視しているのか、さっぱりまったくこれっぽちも分からないわ」

 

 …それはどうやらこういう事であるらしい。

 

 妹の葵のクラスには、不良かどうかはよく分からないが、皆から恐れられている吉良坂という男生徒がいる。目つきが悪くて口調も乱暴だから、積極的に近付こうとする生徒は少ないのだけど、そんな彼に物怖じせずに近付いて行く女生徒がただ一人だけいる。

 この話の流れなら簡単に分かると思うけど、まぁ、葵である。

 「なんで、一人で食べているのー?」

 一年の最初の頃、葵は吉良坂君が一人で昼食を食べている所へ寄っていてそう話しかけたらしい。何故彼女がそんな行動に出たのかは誰にも分からなかった。AIリアンならではの高度な計算か何かがあるのかもしれないと青森さんは少し疑ったが、特に何もなさそうだった。

 「うるせぇ! ほっとけ!」

 葵の悪意のない無垢な顔に向けて彼はそう吐き捨てるように言った。彼としてはそう言えば葵が怯えて立ち去るだろうと思っていたのかもしれないが、葵は「そのお弁当、美味しそうだね」と相変わらずに無邪気に話し続けた。そして、最終的には何故か自分の弁当のミートボールと彼の弁当の卵焼きを一個取り換えっこして戻って来たのだった。

 「なにやってたの、葵ちゃん?」

 と青森さんが尋ねると、葵は「卵焼き、美味しいよ」などと卵焼きを食べながら屈託なく応えて来た。

 それで、高度な計算とかそういうのではなさそうだが、何か本能的なもので吉良坂君が安全だと判断して話しかけたのだろうと彼女は考えたのだそうだ。

 

 「……今にして思えば、あの頃からおかしかったのよね」

 と、彼女は語る。

 「なにが?」と私。

 「葵ちゃん、自分のお箸で吉良坂君と卵焼きとミートボールを取り換えっこしていたのよ。つまり、それって間接キスじゃない?」

 「それが、どした?」

 「照れ臭かっただろうに、彼が取り換えっこに応じたのってそれが原因じゃないかと思うのよね」

 「いや、分からんって」

 「つまり、性欲に負けたのじゃないか?って話よ、南ちゃん」

 なんだか分からないが、青森さんはその吉良坂とかいう男子生徒を軽く敵視しているようだった。

 

 それからも葵は吉良坂君が一人でいると近寄って行って、不思議そうな顔で「何をやっているの?」などと度々話しかけていたのだそうだ。

 表面上は彼はそれを煩わしそうにしていたようだけど、満更でもない雰囲気を青森さん達は敏感に感じ取っていたらしい。

 そして、そんなある日だ。

 教室で一部の男生徒達が、葵の事を本人のいない時に馬鹿にしていたのだとか。そういうのはある程度は仕方あるまい。葵はいかにもな幼い行動を執って目立っているし、世間から蔑視されているAIリアンでもあるし。青森さんも“ま、許容範囲か”とそれにセーフ判定を出していた。

 が、吉良坂君は違った。

 その男生徒達に迫っていくと、「陰でこそこそ、他人の悪口を言ってるんじゃねぇ!」と怒ったらしいのだ。

 男生徒達は驚いていた。

 その後で彼は慌てて「陰口とかそういうのが俺は嫌いなんだよ!」と誤魔化していたけど、顔が真っ赤だったので、それはむしろ彼の葵に対する好意を肯定していた。

 

 「なるほど。青春ね。聞いていてこっちが恥ずかしくなるわ」

 

 話を聞き終えると、私はそう言った。

 「でしょう? 恥ずかしくなるわよねぇ」と、少しも恥ずかしがっていない様子で青森さんは返す。

 「――で、その事件があった後、“果たして吉良坂君はロリコンがどうか問題”が、クラスの女生徒達の間では議論紛糾している訳よ」

 「いや、もっと他にいくらでも紛糾させるべき議論があるでしょうよ、世の中には。なんでそれなのよ」

 私は呆れたが、とにかく、これで彼女の発言の意味が分かった。

 「ま、仮にその吉良坂君とやらがロリコンであったとしても、この場合は特に問題ないのじゃない?」

 そう私は感想を言う。

 「ほー。南ちゃんは、自分の妹が変態と付き合っても別に良いと?」

 「妹を仕合せにしてくれるのなら、変態でも何でも良いわよ。贅沢言える立場じゃないしね」

 何しろ、妹の葵は世間的には蔑視されているAIリアンなのだ。それを気にせず好きになってくれるだけでその吉良坂君とやらには感謝したいくらいだ。

 

 「アリ。凄い」

 

 葵は相変わらず庭でアリを観察していた。とことん無邪気で、世間の目を気にしていないように思える。

 自分達が蔑視されている事に対して、AIリアン達がどのように考えているのかはよく分かっていない。ただ、彼らは平和主義者である場合が多く、攻撃的な言動は一切していない。

 『互いに攻撃し合う関係よりも、協調し合う関係の方が、より優秀な方略なので、それは当然です』

 AIリアンの一人がそのように語っているのをテレビで聞いた事がある。きっとそれが正しいのだろう。その発言が本心であるのなら、AIリアンを“進化した人類”と呼ぶ人がいるのも納得できる。

 ……その証明になるって訳でもないけど、多分、葵が吉良坂君に話しかけたのは、彼の孤独を感じ取ったからなのだろう。葵はとても優しい子だから。

 今更、強調するまでもなく、人間はとても愚かで浅はかだ。

 先にも述べた通り、AIリアン達は頭が物凄く良いから、当然ながら、有名大学の合格者のかなりの割合を占めている。しかし、官僚や有名企業の一部は蔑視されている彼らをあまり採用したがっていないらしく、その為、最近はそれら就職先の有名大学出身率が低下しているのだそうだ。

 まだ民間企業に関しては、彼らの優秀さを認めて採用する動きがあるようだが、官僚はまだまだ時間がかかりそうだという。

 『このままでは、日本はますます諸外国に負けてしまいます』

 などとテレビのコメンテーターが憂いていた。

 女性差別が激しい会社では、未だに入社試験で男性社員を優遇したりしているのだそうだ。子育ての責任を負うべきなのは、女性も男性も同じであるはずで、妊娠して一時職を離れなくてはならないリスクは、社会において出産が絶対に必要なものである点を考えるのなら、ハンディキャップとして社会全体でカバーし合うべきものだから、女性社員を差別する理由にはならない。

 もし、人間が賢かったら、こんな馬鹿で恥ずかしい真似はしないと思う。

 

 「あ、青森ちゃん! 来てたんだ。おはよー!」

 

 ようやくアリの観察を切り上げたらしく、葵が庭からリビングに上がって来た。

 「はーい」と、青森さんは手を振る。

 “こいつは葵の友達という扱いで家に上がり込んでいるはずなのに、その葵に許可も取らずにリビングで寛いでいたのか”と、ちょっと呆れた。コーヒーまで飲んでいたのだ。が、葵が青森さんを見つめる屈託のない無邪気な顔を見ていると、どーでも良くなった。

 美しいとは、こーいうものを言うんだ、きっと。

 「さっさと、人類みんな、AIリアンになっちゃえば良いのに」

 私は思わずそう独り言を言った。それを聞いて何を思ったのか、青森さんは、

 「ま、人類もそんなに捨てたもんじゃないわよ。分からんけど」

 と、何故かそんな事を言った。

 きっと、無根拠だろうけど。

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