10.AIは差別をするか? ~ブラックボックス3 プロセスも考えなければいけない
カイさんは日本での生活を夢見て中国からやって来た。もっと勉強して、いずれは大きな企業で働くつもりでいたが、今は飲食店でアルバイトとして勤めている。その飲食店は店員がとてもフレンドリーで居心地が良い。それはきっと様々な国の人達が働ているからだろう。彼らはそれぞれ日本にそれなりの夢と希望を持ってやって来ていたが、それ故に厳しい現実を思い知らされてもいたのだ。
日々、普通に暮らしているだけで感じる偏見の目。生活習慣や考え方の違い。そして、その結果生じる、日本社会への仄かな反発。
彼らはそういったものを共有していた。
そして、各々の文化差を自覚している者達同士だからこそ、彼らは努めて“良い雰囲気”を作ろうとしていたのだった。
もっとも、それは店長のおおらかな性格のお陰もあったのかもしれないが。
――ただし、そんな中、カイさんだけは漠然と疎外感を感じていた。それはその店で働ている中国人が彼一人であるからでもあったのだが、それだけではない。この地域には中国人の犯罪グループがある。他の店員達は彼がその犯罪グループと繋がりがあるのではないかと疑っているのだ。
引っ越し前、カイさんはこの地域の中国人犯罪グループの存在などまるで知らなかった。引っ越してから知って後悔したが、もう別の地域に引っ越す余裕などなかった。それで偏見の目に苦しみながらも、仕方なくここで暮らしている。
彼は噂など気にせず雇ってくれた店長さんには感謝をしていた。良い店だ。率直にそう思う。ただそれでも、他の店員達の目は気になった。嫌がらせを受けている訳ではない。仕事は一緒にやってくれている。だが、それでも一歩距離を置かれている。彼はそう感じていた。誰もプライベートには関わってくれない。
「まかない料理よ」
が、そんな店員達の中で、唯一彼に対して態度を変えない店員がいた。板前ゆかりさん。日本人だが、AIリアンだそうだ。“態度を変えない”と言っても、それは彼女が誰に対しても淡白だからで、本心では彼をどう思っているのかは分からなかった。
声の方を見るとその板前さんが料理を運んで来てくれていた。おぼんの上に乗っているのは卵かけご飯で、アクセントに“食べるラー油”が添えられてある。後は野菜炒めと麦茶とデザート。
「ありがとう」
彼はお礼を言ったが、声からは元気が感じられなかった。彼は実はもっと油を大量に使った料理が好きなのだ。彼の故郷の料理はそういったものが多かったから。
そんな彼の様子に何を思ったのか、彼女は口を開いた。
「人間が生息域を広げ、繁殖できた理由の一つに“調理”があると言われているわ。
調理する事によって、人間は本来摂取できない食べ物を摂取できるようになり、効率良く吸収できるようにもなった。食べ物を美味しく感じるのは、それが栄養やエネルギーになるからだけど、調理した後の食べ物を人間は美味しく感じる。
だけど、その所為で食べ物が十分に得られるようになってからは、人間は栄養過多になってしまった。つまり、食べ過ぎ」
彼は彼女の言いたい事の凡そは理解できた。自分は肥り気味でもある。油っこいものは控えた方が良いと言っているのだろう。彼女が自分を心配してくれている事や自分の好みを把握してくれている事に喜びつつも、それでも彼は憮然とした感情を抑えられなかった。
「料理は栄養の為だけに食べるんじゃないから」
彼は今は故郷の味に近い料理を食べたかったのだった。
その日も、他の仕事仲間達とこれといって交流もないまま、カイさんは仕事を終えて帰路についた。そこで突然声をかけられた。しかも中国語だった。懐かしい。顔を向けるとそこには同郷の人間だろう男の姿があった。自然と笑顔になってしまう。
男はいかにも人が好さそうだった。話を聞いてみると、故郷を離れ寂しい想いを抱えているところに、同郷の人間のように思える彼を見つけて思わず声をかけてしまったのだそうだ。
彼はそれを聞いて涙をこぼしそうになってしまった。「自分も同じだ」と返す。中国語で話すと、周りから変な目で見られるが、それも気にせず中国語で話した。彼らはそのまま飲み屋に行って、仕事の愚痴や故郷の話をした。その日は随分と遅くまで話し込んでしまった。
「歩君。相関関係が仮にあったとしても、プロセスまで解き明かさないと、それが適切な判断かどうかは分からないわ」
突然ゆかりちゃんがそう訴えて来た。前後の脈略のない発言で、それが何を意味するのか僕にはよく分からなかった。ただ、彼女がそんな風に話を振って来るのは別に珍しくもないので慣れていた。
それは大学の食堂で二人で昼食を取っている時の事だった。僕は少し考えると、今日は大学が終わった後に彼女はアルバイトがあったはずだと思い出す。
こーいう話の振り方をする時は、大体、彼女は何かお願いをして来るのだ。
「バイト先で何かあったの?」
彼女は数度それに頷く。
「ちょっとまずい事になるかもなの。だけど私の得意分野じゃなくて。だから、歩君にお願いしたいなって」
それから彼女が説明したのは、ちょっとばかり驚くべき内容だった。
“どうしよう?”
と、カイさんはその日、店で仕事をしながらずっと頭を悩ませていた。
あの日、あの同郷の男が話しかけて来たのは罠だったのだ。懇意になって、自分を勧誘する為の。
連絡先を交換すると、男は頻繁に連絡を取って来るようになった。始めの内は気楽に返していたのだが、途中から次第に様子がおかしい事に彼は気が付いていった。
“あいつ、犯罪グループの一員だったのか”
彼は仕事に誘われたのだが、それがどう考えても真っ当な仕事内容には思えなかったのだ。もっとも今ならまだ断れると彼は思っていた。連絡先を教えてしまっているとはいえ、もし脅してくるのなら警察に頼る手段だってある。
が、断る決心が彼には付かなかった。
あの同郷の男のお陰で彼は随分と孤独が癒された。だから裏切るような事はしたくなかったのだ。
やがて休憩時間に入る。脳直結型のメッセージアプリを起動すると、スマートフォンを介して受信をする。メッセージを確認すると、男から返答を急かすメッセージが届いていた。明らかに怪しい。
“この仕事を受けてはいけない”
彼はそれを分かっていた。自分がここで孤独を味わっているのは、この犯罪グループの所為でもあるのだ。何度、犯罪グループを憎んだことか。その犯罪グループに自分が加わるなんて絶対に馬鹿げている。
がしかし、やはり心情的には断りたくない気持ちが勝っていた。同郷の人間との関係を断ちたくはなかったのだ。
“受けてしまうか”
と、彼は思う。
どうせこのまま日本にいたって、大企業に就職できるとは限らない。
スマートフォンでボタンを押すと、彼の視界にキーボードのビジョンが浮かぶ。それを操作して返信を書くと、彼は送信ボタンを押そうとした。が、そこで不意に美味しそうな匂いが漂ってきたのだ。覚えのある匂いだった。
「まかない料理よ」
声が聞こえる。
見ると、板前さんが料理を運んで来てくれていた。しかも、それはいつものこの店のまかない料理ではなかった。彼の故郷の料理に近い、辛味の効いた油料理。
「店の皆に相談してね。あなたの故郷の料理を再現してみたの。最近、元気がなさそうだったから。料理は栄養の為だけに食べるんじゃないものね」
彼はそれを聞いてと目を大きく見開いた。
「店の皆?」
「ええ。事情を説明したら、皆、あなたの故郷の料理を調べたり調理を手伝ってくれたりしたわ」
目の前に料理が置かれる。彼は震えながらそれに手を伸ばした。口に入れる。故郷の味とは少し違っていたが、それでもとても美味しかった。その後で彼女が言う。
「もしも何か困った事があったなら、遠慮しないで店の皆を頼ってね。一人で抱え込むのは心身に良くないわ」
彼はそれに頷きながら料理を頬張っていた。涙を堪えつつ。
夕刻、アルバイトを上がって、店から出て来るゆかりちゃんに僕は「上手くいった?」と話しかけた。中国人男性の件がどうなったか心配だったものだから、彼女の仕事が終わるまで待っていたのだ。いや、過保護じゃない。これくらい普通だと思う。一応、犯罪絡みだし。
「うん」と彼女は笑顔を見せつつ答える。
「彼、犯罪グループからの誘いは断ったみたい」
――ゆかりちゃんから相談を受けた時はびっくりした。
どうやって彼女は知ったのか、アルバイト先の中国人のカイさんが、犯罪組織から勧誘を受けているというのだ。
そして彼女は、僕に「カイ君を助けるのに協力してもらいたいの。お願い、店の皆を説得して」と頼んで来たのだった。自分はそういうのは苦手だから、と。
……もし仮に“日本に来た中国人→犯罪者になる”という相関関係があったとしよう。だけど、“中国人である事”が“犯罪者になる事”の原因になるとは限らない。何故なら、他の要因、例えば、差別を受けている所為で経済的に恵まれなかったり、精神的に追い込まれてしまう所為で、犯罪に手を出してしまうのかもしれないからだ。この場合、当然ながら“日本に来た中国人→犯罪者になる”という相関関係がもし正しくても、中国人を差別してはいけない。状況を悪化させるだけだからだ。
必要なのは、ケアであって、迫害ではない。
でも、データとしては“日本に来た中国人→犯罪者になる”という相関関係は正しい。そのデータだけから、もし仮にAIが判断をしてしまったなら、その間違った理由による差別を行ってしまう危険性がある。
もちろん、これはAIじゃなくても同じだけど。僕ら自身も、そういう間違った理由による差別を行ってしまう危険がある。
だから、確りと冷静に考えるべきなんだ。
ゆかりちゃんに頼まれた店員さん達の説得は上手くいった。
カイさんが犯罪組織に騙されそうになっている事を伝え、そしてまだ悩んでいるようだと教えると、彼らは直ぐに協力に同意してくれたのだ。僕がやらなくても、ゆかりちゃんでもできたかもしれない。彼らは気の良い人ばかりのようで、孤独な彼の境遇を話すと簡単に納得してくれた。
或いは、異国の地で孤独に暮らす者の心情を分かっているからなのかもしれない。中国人犯罪者組織の所為で、カイさんは彼らよりも辛い立場に立たされているのだ。
「AIが何を根拠にどのように判断しているのか、ちゃんと分かるようにしなくちゃ駄目だね。こーいう事例もあるんだから」
歩きながら僕はいきなりそう言ったのだけど、ゆかりちゃんは僕が何を言いたいのか直ぐに察してくれたようで、
「うん。AIのホワイトボックス化っていいうのはAIを社会で利活用する上で重要だと言われているわ。
でも、なかなか難しいのかも。
AIのホワイトボックス化を行うのも、やっぱりAIでしょう? だから、そのAIの処理が正しいってどうやって検証すれば良いのかその確かな手段がないのよ」
なんて返して来た。
「なるほどね」と、僕はそれに返す。どうやらAIの利活用は一筋縄ではいきそうにない。
因みにゆかりちゃんはAI研究の道に進むつもりでいるらしい。
歩き続けるうち、繁華街を抜けた。
道は暗かった。
街灯は灯っていたけど、わずかな地面しか照らしてはいない。人がまばらに歩いている。その人々はなんだかとても匿名的だった。まるで大きなブラックボックスの中を歩ているような気分になった。
もしかしたら、皆、自分がどんな場所を歩いているのかすら分かっていないのかもしれない。
そんな光景を見ながら、僕はそんな事を思っていた。
電車が走る音が聞こえた。
……でも、ま、とりあえず、今日は良かったと思うけど。
……もし、これでそのまま家に帰れていたなら、この日はめでたしめでたしで終わりだったと思う。でも、残念ながらそうはならなかったのだった。後少しで駅に着こうかという暗い道、僕らはいつの間にか囲まれてしまっていた。
暗い中、仄かに見える風貌からいって、それは中国人達のようだった。つまり、中国人の犯罪組織の連中である可能性がかなり高い。
僕は自分の血の気が引いていくのを感じていた。