『国語教師』
右も左もわからぬ頃に、僕は文を書いたことがあるのだが、それもまずクエスチョンマークを書いた後に句点を打つべきか考えていたのだ。ぎこちなく書かれた文は意味をなさず、国語教師の格好の叱責の種になったのだ。「日本語には“が、の、に、を“があってだな。古河君の書く文にはきっぱり言って、”は“が機能していないのだよ。主格が極めて解釈が出来ず、重言で、不明瞭なのだよ。何かね、「無色の緑色の考えは猛烈に眠るのか?」とは、何か悪夢にでも魘されたのかね?」
僕はロイド眼鏡の教師の襟ぐりを睨みすえ、利き腕が僅か怒りに震えるを憶えた。その文は僕が書いたのだ。意味は「僕が書いた文」であり、教師は文の内包を汲み取れぬことに青筋を立てたのだ。僕は自分のした「文を書くこと」が宿題であり、それを「文を書く」という行為で成し得たわけで、そのプロセスを捨象して教師は目の前の「書かれた文」という事物に僕の低能を論じたのだ。舞台は黒板前に立たされた非行少女の隣にまで行き着く。彼女はまず、宿題をやって来ていない。だが、僕は一文を書いたのだ。そして、教師はロイド眼鏡を片手でウィンストン・チャーチルみたく眼鏡拭きで拭うと呆れた声で、座っている同級生たちに見せ物を見せるが如く、演芸で立ち漫談をする落語家のような立ち振る舞いで僕らを悪辣な生徒だと言う。
「この子達は、残念だが、劣等生である。これは、私の教師生活二十年の往来、一番の劣等生徒と言っても過言ではない。」
同級生はぎこちなく笑う。今思うとまだ慣れぬ学級の輪を作るために教師が誇大に言ったかもしれないな。それにしても羊頭を懸けて苦肉を売る教師だった。
僕は教室の窓辺からこの2階の校舎まで伸びる大木の小枝の先に留まる雲雀を眺めていた。ぼうっとそれを眺めると春先に芽吹く木花の微笑があったのだ。
僕が眠る事を放棄して6畳の自室で芥川龍之介全集を読んでいたのは昨日の暮れの事だ。『老年』から始まり、『死後』を読み終える頃には早春の小雨が去った朝ぼらけの江戸川の街路に靄がかった路面が窓辺から露わになったのだ。思わず僕は親の寝入りに憚らず外に出で、朝靄の路面を走ったのだ。一本道の先にある学校の正門の先には表面が緑色の壁があるのだ。それが靄と合わさり、無色に見え、何処に旧友がいるのか、僕はワクワクとした無邪気な感情になり、誰もいない締め切った学校の校庭を探検したのだ。やがて、また霧雨を覆った東雲がやってきて、僕の頭からつま先をすっかりずぶ濡れにして家に帰したので玄関先で居丈高な母はこっ酷く叱った。泣く泣く脱衣所に向かい、服を洗濯駕籠に入れ、風呂場を開けた時だった。もう既に湯船には充分な湯煙と上等な風呂ができていたのだ。僕は躰を洗い、洗髪してから湯船に浸かる。その体幹の中腹に据える心中は純真に洗われたのだ。それは母が寝入りしていたのではなく、玄関先の閉闔の音を聞き、僕の部屋にこっそり入り窓辺から見える小学の校庭で無邪気に燥ぐ僕を見ていたのだろう。
風呂から上がり、僕は洋服を着て、そして、テーブルには炊き立ての白いご飯と紅色の鮭と味噌汁が置いてあった。「早いうちに食べな。冷めちゃうから。」母はまだ起きぬ父を起こしに寝室に行った。僕はご飯を掻きこんではむせ、鮭を解しては湯気の出る白いご飯に乗せて食べ、味噌汁を粋に啜った。「旨い。」僕は腹の充しと同時に強い睡魔に襲われたのだ。読んだ本が僕を大作家に仕立て上げ、僕は自惚れて、一文を書いた。
ー無色で緑色の考えは猛烈に眠るのか?
僕は何か文豪になった気分でそれまでの抒情に舌鼓して、ランドセルにノートと筆箱、教科書を一式入れて、身支度を済ませた。
教師は「今日の国語の授業は、」と句読点を入れ、黒板にこんな事を書き始めた。「物語を書く」と表題を決めてから「今日の宿題は君たちの思いとか夢とか日常とかテーマはなんでもいい。兎に角何か一文で書いて欲しいと云うものだった。みな、友達ができればいいな。とか私はブリキの玩具が欲しい。とか、思い思いに書いてもらったが、今度はそれを原稿用紙2枚の小説にして欲しいんだ。その一文から物語を自分で作る、こうして国語力がつき、創造性を育めるというのに、全くこの黒板を前にした二人の悪童ときたら、一人は何も書かず、白紙で提出し、もう一人は意味をなさない馬鹿げた文を書いたのだ。君達は他の生徒を見習い、明日までに一文を書くように。まあ、僕も、」と咳をする。「ちょっと言いすぎたかもしれないな。」
非行少女は表情一つ変えず、じっと、兵士のように立っているのだ。僕は何故彼女が一文も書かなかったのか気になったのだ。まだこの学級になってから3日も経っておらず、皆友達などいない知人のような仲だった。教室はすっかり静まり返り、教師がまた話し始める。こうして時間が経ち、チャイムが鳴り、休み時間になった。
「君はなんで宿題をやらなかったんだい?」
彼女はよく見ると目を見張る程の美しい女の子であった。笑窪のある整った口からこう言った。「古河君が今朝、校庭を燥いでいたのを見てたから。」
窓の外から僅かに聴こえる雲雀の鳴き声が今また僕の純真な心中に季節を迎え、僕は次になんて言葉を掛けようかと教室から見える午前11時に差し掛かった明るい校庭を見ながら恍惚と思ったのだった。