72 借金83,954,000ゴル
ゲルタはあれっきり姿を見せなかった。
その日は何事もなく就寝となり次の日の朝、またエリーゼが朝食を持ってくるとその後、浴場へ連れて行かれピーターがまたこちらに背を向ける中で洗われ清潔な服に着替えさせられた。
「侯爵様がお呼びです」
次は侯爵様か……
エリーゼに連れて行かれた先は初めての部屋だったが侯爵様の部屋らしく、清潔に整えられ最低限の体裁を保てる家具等が揃えられていた。他の場所は酷いもんだけど。
「来たか、マッサージを頼む」
疲労の色が隠しきれていないクライスラー侯爵が既に楽な格好に着替え終えていて私が来るなり準備済のマッサージベッドにうつ伏せになった。
「畏まりました」
こっちはどうせ暇してたし、クライスラー侯爵は私に危害を加える気は無いようだから生き残る為に気持ちよく仕事しよう。
侯爵様の体は前回より酷い状態だった。肩から背中、腰にかけてガッチガチで手足も冷えて浮腫んでいる。足の浮腫はかなり酷く押すと指跡がくっきりと残る。
「あの、恐れ入ります。侯爵様は以前仰っていた頭痛薬の他に何か別のお薬など処方されておいでですか?」
私の言葉に侯爵様が不審な目を向けてくる。
「何故そのようなことを聞くのだ」
明らかに不機嫌な様子だがここは引くわけにはいかない。
「もし何か持病をお持ちでしたら、マッサージを行うことが返って悪化させる場合がございます」
心臓疾患、悪性腫瘍、感染症など、マッサージを禁忌とする病は幾つかある。侯爵様には重い浮腫という心臓病などを思わせる症状があるので聞くべきだろう。
「うむ……」
馬車での長時間の移動のせいもあり体を動かせていないことも負担であったはず。年齢的にも取り巻く状況的にも心臓病を患っている可能性はある。ストレスの多い環境だし。
「ではお話を変えてお聞きします。お父上やお母上など近しい方がどのように亡くなられたのかお伺いしても宜しいでしょうか?」
自分の健康の現状を平民で攫ってきた女に話すことは憚られるだろが、既に鬼籍に入っている両親の事なら話してくれるかも。こういうのって結構遺伝もある。
「うぅむ……母親は事故で」
「左様でございましたか、お悔やみ申し上げます。それで……」
「父親は、脳の病だと医者が言っておった。あっという間だった」
能梗塞か脳出血かな。今の侯爵様にそのような兆候は見受けられないので恐らく大丈夫だとし、マッサージを続行することにした。
凝り固まった首を少しずつ解し、肩や背中も解していく。腰はかなり張っていて口には出さないけれど痛そうだったのでゆっくりと解していった。
「私も父のように脳の病で死ぬのだろうか?」
仕上げに頭を揉んでいるとボソリと侯爵様が零した。恐らく先代の侯爵様は突然死だったのだろう。脳出血なら医者が側にいないと何が原因かわからなかっただろうからポーションをどう使えばいいかもわからず間に合わなかったのかも。
これって本当の事を話した方がいいのだろうか?
「恐れながら、親子というものは性格や体質が似ることがございます。ですから同じ病の事を用心なさるのは必要なことかと」
「体質はわかるが性格も関係あるのか?」
気持ち良さそうに閉じていた目を開くと侯爵様が私を見上げた。私はそっと視線を外すと頷いた。
「はい、性格によりかかりやすい病があると言われております。まだ俗説の域を出ないかもしれませんが、気性が激しい方は心臓病、自分を抑え込み過ぎる人は腫瘍にかかりやすいと言われているそうです。また楽観的な方の方が悲観的な方よりも薬が効きやすいとも言われているようです」
「そうなのか……」
これくらいの話しなら大丈夫だろう。
それきり侯爵様は口を閉ざし少し眠ったようだ。
「もしかすると夫人のように揉み返しがあるかもしれません。かなり酷い状態でしたので」
少し長めにマッサージしたので念の為先に話しておき水分を多く取ること、今後は日常的に散歩をすることなどをお勧めしておいた。マッサージグッズや鼻緒のサンダルなど他にもお勧めしたいことはあったが私を攫った相手にそこまで言う必要も無いだろう。侯爵様の部屋から退出しあてがわれた部屋に戻った。
あれから連日、五日間にわたり侯爵様にマッサージに呼ばれる以外は平穏そのものだったがある夜遅くドアがノックもなく開けられ使用人の女が入って来た。私を見るなり顎で外へ出るように促す。
「侯爵夫人がお待ちよ」
えぇ?夫人は私に近づくなって言われてたんじゃないの?
驚いてピーターを見たが肩をすくめるだけで何も言ってくれない。いくら侯爵様が止めたって来いと言われれば逆らう事は出来ないか。
仕方なく暗い廊下を女が持つランプを頼りについて行くと前回呼び出された夫人の部屋とは違う方向へ向かっていた。ピーターも気乗りしない顔でついて来る。気乗りしないのはこっちの方だよ。
侯爵ご夫妻のそれぞれの部屋がある所は多少なり整えられている所だったが、私の部屋や他のところは手入れが行き届いていない放置された場所だ。その区画の奥へ進んで行くって何だか変じゃない?
「こちらへ」
あるドアの前で女が足を止めた。ドアの下から漏れる灯りがゆらりと揺れているから誰かいることは間違い無さそうだが不気味な感じだ。
「失礼致します」
ノックをして部屋へ入ろうとするとついて来ていたピーターが女に止められた。
「目を離すなって言われてるんで」
するっとすり抜けようとするピーターに中から声がかかる。
「わたくしがマッサージを受ける所へお前は不要よ」
侯爵夫人が苛ついた声を出すとピーターは部屋へ入ろうとした足をピタリと止めた。ひと呼吸の後……
「……失礼致しました」
と言ってあっさりと廊下へ引き返した。
私の風呂にまでついてくるんだからそこは根性だせよ!侯爵様の命令ですって頑張らなきゃいけないところじゃないの?!今はエリーゼもいないから部屋の中には味方らしき人物が皆無なんだけど!
私の気持ちは誰も気にすることなく無情に扉は閉じられた。
パチンと扇の閉じる音がする。いくつ扇を持っているんだろう。
「ここ数日侯爵様の所へ通っているそうね」
まるで私と侯爵様が体の関係を持っているような言い方だ。違うし。
「マッサージのご用命を賜りまして」
深々と頭を下げながらも上目遣いに夫人の動きを窺う。夫人は椅子に腰掛けたまま膝の上に置いた手で扇を絞るように握りしめている。どうやらお怒りのようだが何故か我慢しているみたいだ。侯爵様に私と関わるなと言われた事をギリギリの所で守っているのだろうか?
でも部屋に呼び出した時点で我慢出来てない気もしないでもない。
「全く、あの方だけでなく他の方々にまで気にかけられるなんて……」
独り言のように低く呟く侯爵夫人が立ち上がると近づいて来た。
ヤバいヤバいヤバい!これ絶対に殴られるやつでしょう!
逃げる事も出来ず体を固くして身構えていると背後でガチャリとドアが開く音がした。助かったかも、ピーターかな?
「これは失礼、もういらしていたのですか?」
男性の声がし侯爵夫人が一歩下がった。
「ベイカー様、随分お早いですわね」
「夫人こそ、私は失礼の無いように早目に行動するのが癖でしてね」
目の前の夫人がくるりと方向転換しさっきまで座っていた椅子へ戻っていった。
助かったぁ〜。誰か知らないけどありがとうございました!
頭を下げたまますすっと斜め後ろに移動し、場所をあけると男性を夫人の方へ行かせようとしたが何処かで聞いたような声だなと思い少し顔をあげた。
あっ!この前の新規のお客様だ!
反射的に体を起こしてしまう。
「アメリ、また会ったね」
やっぱりそうだ、チップ三万ゴル!
「スミス様、先日はご来店ありがとうございました」
思わず営業スマイルを貼り付けて頭を下げた。
「あぁ、少し待て」
そう言って私の前を通り過ぎ夫人へ近づいて行った。
アレ?いまベイカー様って言ってたよね、そうゆこと?




