52 借金87,532,000ゴル
不快な耳鳴りはやまずコールマン伯爵邸に向かう馬車の中でゲルタと二人でいた。
「そんな顔するくらいならリーバイ様と仲良くすれば良いじゃないですか」
向かいから訳知り顔で声をかけられムッとした。
「何のこと?クライスラー侯爵夫人の所へ行くのは別に嫌じゃない。ちょっと急だったんで驚いたけど、仕事があるのは良いことだし今はスイートの予約が無いから大丈夫よ」
朝が早くても夜は眠れるから体力的にも大丈夫なはず。
返した答えが気に入らなかったのかゲルタはそれきりまた黙った。無表情だし考えも読めない私は窓から外に目を向けまばらに歩く人を見ていた。
この辺りは貴族街でも高級な方だ。ここで歩いている人はほぼ平民で何処かのお屋敷の使用人だろう。小さな店を経営していた以前の私なら一歩も踏み入ることが出来なかった地域だ。
そんな私が伯爵様と仲良くなんて出来る訳無い……
ムカつく気持ちを押し殺しコールマン伯爵邸につく頃には気持ちを切り替え気を引き締めた。いつの間にか耳鳴りも収まっていた。
「今日で終わりね」
四人のお客様をマッサージし、その方々が別室へ移動されたあと奥様が私の前に立った。
「ニ週間、大変お世話になりました」
貴族の間でマッサージを広めるのに奥様の貢献はかなり大きい。
「そうね、わたくしのお陰で貴方も随分有名になってきたんじゃない?次は侯爵家とか」
流石に耳が早い。
「はい、おっしゃる通りです」
ここで否定しても仕方が無いだろう。本来なら先に話を持って来たコールマン伯爵家を優先させてもいいのだろうが、相手は伯爵家より爵位が上の侯爵家でリーバイ様の懇意にされてる方だ。
「アチラは私の目が行き届かない所だから気をつけなさい」
「え?」
驚いて奥様の顔をまじまじと見てしまった。
「派閥が違うのよ。私はどちらかといえば貴族でも領地だけでは運営が苦しい方々を集めて商売や投資で金銭を稼ぐ新興派。クライスラー侯爵家は伝統といえば聞こえはいいけど古くからのやり方しか認めない保守的な考え方が多い派閥なの。あの方々は貴族が公に金を稼ぐということに抵抗があるようでね、自分達は広大な領地にいる平民に支えられているけれど自らが平民に接する事を忌避される馬鹿馬鹿しい考えを持っている派閥なの」
ズバッと言い切る奥様が大変頼もしいです。
「そんな方が貴方のような平民に仕事を依頼してきたんだから十分に警戒なさい。そこの護衛から離れない事ね」
ゲルタにチラッと視線を向けて奥様が鼻で笑う。やっぱりバレてたか。
「ご助言ありがとうございます。それと、これはこれまでのお礼も兼ねて、お待たせしていたサンダルの試作でござ……」
「まぁ!早く渡しなさい、これが鼻緒のサンダル。まだ誰にも渡していないでしょうね?」
食い気味で差し出そうとした手からもぎ取られた。
「はい、まだ試作段階で量産はしておりませんから」
「凄いわ。これが鼻緒のサンダル、どうやって使うの?早く教えなさい」
お客様をお待たせしていることも忘れて奥様がはしゃいでいらっしゃる。新しい物を目にして興奮するなんてなんだか可愛らしい方だな。
結局鼻緒のサンダルと足袋、マッサージグッズのローラーを二つづつ渡して、一つはマクブレイン伯爵夫人に渡すようにお願いした。もしかしたらローラーは奥様が独占するかもしれないけれどそこはお任せで良いだろう。元々鼻緒のサンダルだけの約束だ。
「これは慣れないと歩きにくいわね。取りあえずマッサージグッズを皆さんに見せようかしら」
ブツブツと言いながら足袋をはいて鼻緒のサンダルを試し、ローラーを腕や肩にコロコロする奥様。
「ではこれで失礼致します」
礼をとり退出しようとすると奥様がニッコリ微笑んだ。
「売り出すときは必ず声をかけて、いいわね」
きっと一枚噛んでくるつもりだな。
「マダムにお伝えしておきます」
言質は取らせない。だけど無下には出来ない。私に出来る精一杯の返事だ。
無事にコールマン伯爵家での二週間が終わりかなりホッとした。最初はどうなることかと思っていたが今では奥様と暫く会えなくなる事が少し寂しく感じ……無いか。無いわ、悪い人ではないけれどアクが強過ぎて疲れる。
「帰ったら休憩を挟んで午後から女性専用のマッサージが始まるけどゲルタはどうするの?」
元々は貴族のお屋敷へ派遣されたとき用の護衛で来てくれていたゲルタだ。紫苑の館の中では危険度は低いからとスタンダードの時間もついていなかった。
「助手という立場も兼ねているのでいても良かったのですが、女性専用の時間には新しい助手がつくと言われました」
新しい助手?聞いてないけどなぁ。
館へつくといつものようにマダムの部屋へ報告に向かった。
ここ数日はリーバイ様が居なくてなんだかため息が出そうになるが、きっとお忙しいのだろうと思う事にしていた。
「只今戻りました」
ノックをして部屋へ入るとそこにはマダムの他に一人の女性がいた。
スラリと背が高く、髪を三つ編みのおさげにしてくるりとまとめ、太い黒縁の眼鏡をかけていて分厚い前髪で全体的に地味目の姿。
もしかしてこの人が新しい助手かな。いいなぁ、背が高くて。
「あぁ、ご苦労さま。早速だけどこの娘は午後の女性専用の時間のみの助手よ、これから少しずつマッサージを教えていってちょうだい」
「えぇっ!教えていいんですか?」
思いもよらない言葉に驚いた。マダムはずっとマッサージの希少性をあげるために暫くは私しか出来ないようにする気だったと思っていたから。
私的にはマッサージを多くの人が受けられるように広めていきたかったから教えることに抵抗は無いんだけど……
「あの、マダム。この人に教えるのは構わないんですけど、だったらシャーリーさんにも同じ様に教えてもいいですか?シャーリーさんにはずっと前から教えるって約束しているんです。だからこの人だけを先に教えていくっていうのはちょっと心苦しいというか……」
せっかく初めてマッサージを覚えたいと言ってくれたシャーリーさんを蔑ろにはしたくない。
私がそう言うとマダムが急にぷっと吹き出した。
「あはは、私の負けね。いいわ、貴方のしたいようになさい」
と言うやいなや、ガシッと体に衝撃を受けた。
「やった!アメリありがとう、大好きよ」
突然地味目の女性に抱きしめられ驚いたが聞き覚えのある声にもっと驚いた。
「シャ、シャーリーさん?!」
地味目の女性は変装したシャーリーさんだった。
どうやら彼女は紫苑の館で女性専用にマッサージを始めると聞きつけ自分もやらせてくれとマダムに頼み込んでいたようだ。
「アメリに弟子入りしたのは良かったけどマダムにも許可を取らなくちゃいけなくて、そこで女性専用の場所を作る話を聞いて。ここでなら私も協力出来るんじゃないかと思ったの。
だけどマダムが紫苑の館のトップと言われる私がここの常連客の奥様方に会うのは良くないって言われて、でもバレなきゃいいんでしょうって事で変装したの。貴方がわからなかったんだからきっと他の人も大丈夫ね」
確かに営業用のキラキラエフェクトを散りばめまくりのA級美女シャーリーさんとは明らかにオーラが違う今の格好じゃきっと誰もわからないだろう。
マダムのお許しが出たことでシャーリーさんと二人で完成したての女性専用マッサージ室に向かった。
待ち合い室から入り内装をチェックしていく。
紫苑の館ナンバーツーのジュリアンさんが別名のペネロープという名でコーディネイトしてくれた部屋は落ち着きのある雰囲気でとても素敵な部屋に仕上がっていた。
壁には美しい鉄製の装飾品が飾られ、花や蔦、鳥などが立体的に作られた物や可愛い一輪挿し等がバランスよく設置されていた。こんな品物もどこかから探して来てくれたんだなと思ってよく見ると、側に置いてあるチェストにそれらの品の販売店の名前と受注書が置いてあった。
「これイーデン翁の鍛冶屋で作ってるの?」
門を作っただけでなくこんな装飾品まで手掛けるとは、鍛冶屋と言っても色々な職人がいるんだなと感心し、部屋を飾るにあたって宣伝、販売も兼ねるなんて凄いことを思いつくジュリアンさんのパワーに完敗です。




