32 借金89,032,000ゴル
ブクマありがとうございます
腰を重点的に揉みほぐしたジョバンニ様は体が解れて気持ちも緩んだのか後半はすっかり寝入っていた。それでも時間が来てしまい仕方なく起きて頂くと玄関まで送り、すぐに次の予約のモージズ翁を迎えるために部屋の準備をして前室へ迎えに行った。
モージズ翁はベッドにうつ伏せになるなりズバッと切り込んできた。
「コールマン伯爵夫人に目をつけられたらしいな」
「もうご存知なんですか?」
まさかモージズ翁のスパイがどこかに入り込んでいるのか?!
「マイルズに聞いたんじゃ」
いきなりのネタバラシに少し気が抜けたがマイルズはどうやら御隠居クラブに時々顔を出し情報のやり取りをしているらしい。
御隠居様方は一線は退いたもののこれまで培った情報網を持っているらしく商売人の中では若輩者のマイルズにとって大切な先輩のようだ。
「マイルズはなかなか見どころがあるから面倒を見てやっているんじゃ。今回はアメリが貴族に取り込まれそうになっていると聞いてな、もしゴリ押ししてくるなら儂らも協力してくれと頼まれたんじゃ」
「そうだったんですか、ありがとうございます。私はその辺の所はよくわからなくてマダムに従うだけなんですけど、伯爵夫人に囲われてしまってモージズ様方にマッサージ出来なくなるのは嫌だということは言っておきました」
大切な口コミのお客様を蔑ろにしたくないのは本音だ。マダムやリーバイ様はディアス侯爵にスパイとして送り込む為に私を利用しているのはわかっているし、勿論命令には従うしかないが私がどう思っているかは伝えておきたい。
上からの言いなりで仕事をしなければいけないなんて前世でも日常茶飯事だったけどいかにその隙をついてこっちの意見を通していくかを考えなければこっちが苦しいばっかりだ。
「確かに貴族の言いなりになるのは気持ちの良いことではない。じゃがな、商売をやるうえで貴族を相手にすれば儲けがかなり見込める。上手くやることじゃ」
流石、大店の御隠居様の言葉には重みがあるな。
私が父とやっていた小売業はほとんど貴族と関わることなくやっていて、いざ関わったと思ったら詐欺だった……覚悟も何もわかっていない素人が手を出してはいけないというお手本のような落ちぶれ方だった。しかも自分だけ金持って逃げるし、少しは私の心配でもして……くれないか。そんな奴だよ。
「勉強になります」
「かまわんよ、儂らもアメリのマッサージをよすがに生活が成り立つようになってきておる。この前もテッドが腰痛が良くなってきたと喜んでおった」
「あぁ、材木問屋の御隠居様の!」
「そうじゃ、他にもラッセルやマルコもな」
それぞれ王都で有数の商売人の御隠居様方の名があげられ嬉しくなってしまう。
「じゃがな、儂はもう連れ合いがおらんが他の者はそれぞれ不満の声が上がっておるようじゃぞ。そろそろここでなく他の場所で商売を始めんとお互いに困った事になるぞ」
御隠居様の奥様達もマッサージを受けたいという声は最近ちょくちょく耳にする。だけど流石に娼館へ足を運ぶのは避けたいようで現状は平民は富裕層の男性のみの対応となっている。
だけどマダムは貴族へ切り込む事を念頭に置いているため奥様方への配慮は難しいのかも。
私がう〜んと頭を悩ませているとモージズ翁が知恵をさずけてくれた。
「マダム・ベリンダも娼館の主としてはなかなかの腕前じゃろがもうひと踏ん張りせんとな。儂がこう言っておったと伝えてくれ」
振り向いた好好爺の目が鋭く光った。
「マダム、モージズ翁が仰っていたのですが『このまま娼館だけでマッサージをしているととんでもない事が起きるやもしれん』と」
モージズ翁をお見送りし、すぐにマダムの執務室へ行くと早速伝言を伝えた。
「一体なんなの?平民の時間は確保しているでしょう?」
キョトンとするマダムはちょっと可愛くて、堪能するためにたっぷりと間を取る。あっ、ユリシーズもキュンとした顔をしてる。
「……コホンッ、モージズ翁はこう続けられました。『このままでは幾日も経たんうちに娼館へ儂ら世代の連れ合いが大勢詰めかけるぞ。そうなれば娼館の待合いは大勢の婆さまが占領し、ここからまともな若い紳士達の足が遠ざかると思うがの』とのことです」
娼婦達と楽しいひと時を過ごそうと浮かれ気分で紫苑の館の門をくぐったはずがそこには大勢の古の乙女達が鎮座していらっしゃる……大変シュールな光景では無いでしょうか?
マダムも私と同じ景色を脳内で繰り広げたのかピクッと頬を引きつらせ大きくため息をついた。
「早急に対処することにします。全く、何が御隠居よ。現役時代と変わりなく口先だけで人を動かすんだから、年老いて狡猾になっただけ余計に厄介だわ」
これまでも何某かの死闘が繰り広げられてきたのだろうか?だけどこの話はモージズ翁だけでなくイーデン翁からも再三要請があってその都度マダムへも伝えていたのだからそろそろいい頃合いだったろう。
「問題は場所よ、あなたをここから出すとなると色々と厄介な事情が出てくるからねぇ」
私はあくまで借金返済の為にマダムの指示で働いている。スパイ活動の事は勿論隠さなければいけないのに、どこか別の場所に行って、そことあまり頻繁に行き来しては怪しまれるかもしれない。それにここで私のマッサージを受けているとされている貴族の方々をお迎えするほどの洗練された場所を確保するのはなかなかに困難なのだそうだ。
「あの、仮という形で裏門から入って頂く事は出来ませんか?今回は急を要するようですし、ここの裏門は平民のそこらのお屋敷より立派ですから」
初めてここへドナドナされて来た時もその豪華さに驚いた。平民では屋敷を構えていても門からすぐに玄関だったりそもそも玄関前にしか門を構えてなかったりする。ぐるりと柵で囲う余地あり、伯爵邸のように十分に距離を取ったアプローチでは無いが馬車回があるだけでかなり凄い。
マダムは少し考えてササッとメモを取るとユリシーズに渡した。
「アメリの話に乗ったわ。至急裏門付近を改造してお客様をお迎えできるようにして、一階に部屋を確保。ユリシーズ、お客様を案内する動線も考えて、厨房や浴場からは出来るだけ遠ざけて」
ユリシーズは頷くとすぐに部屋を出ていった。
「数日で準備が整うからそこからの営業ね。だけどあなたわかってる?」
マダムが私を同情したような目で見てくる。
「何がですか?」
「私がどうして平民の御婦人方を迎えようとしなかったのか、考えたことある?」
「えぇ〜っと、スパイ活動を優先した結果……ではないかと?」
マダムはやっぱりねと言って私にスケジュール表を渡してきた。
「準備が整えば恐らくこういう日程を組むことになるからそのつもりで」
そこにはさっきコールマン伯爵夫人に渡した日程表が出され、午前中は派遣マッサージが十時から十二時、午後二時から五時までが娼館で主に御婦人方の下位貴族と富裕層の時間、休憩を挟み七時から十一時までが主に男性相手のスタンダードの営業。そこからスイートの営業へ続き深夜一時頃終了予定。
「え〜っと、十時開始の深夜一時終わり……休憩を除けば実質十一時間労働ですか……」
指折り数えているとマダムが話を追加してくる。
「とは言っても十時に派遣先について準備が出来てなくちゃいけないからここを九時には出てないとね」
「だったら朝は八時半には起きて……」
「それに、私達との打ち合わせもあるから深夜一時に終われない時もあるでしょうね」
「……だけどそれは時々のことでしょうし」
「スタンダードの予約は二人限定にしてもいいわね、でもスイートのお客様が延長を申し込んでくれば従わざるを得ない時もあるでしょう。勿論出来るだけお断りする方向で話はするけど相手は貴族だし、わかるわよね?」
まさか、ぶっ続けで予約が入るとかは殆ど無いだろうし、全ての時間が予約で埋まることも無いだろうからその隙をついて休めばなんとかなる、と思いたい。
「言っておくけどいくら平民でもご婦人がたの力を甘く見ちゃ駄目よ」
「そ、それは勿論わかってますよ。これでも商売をやっていた経験があるんですから……」
と言った瞬間に脳内を巡って来たのは過去にゴリ押しされ値切り倒してきたパワー全開のおばちゃまの面々。五個売りの皿を十個買うから半額にしろと言われ最終的にカトラリーセットをオマケに付けさせて四割引にさせられた最悪の記憶。おばちゃまの勝利宣言するかのような高らかな笑い声が耳に残りその日は悔しくて眠れなかった。
「値段設定はマダムに決定権があるんですから私には関係ありませんよね?」
「伯爵夫人に派遣費をマッサージ代に含めろと言われたのを忘れた?敵は弱いところをついてくるし、いくら私が後で無理だと言ってもあなたが了承すれば覆すのは大変なのよ。ここでやる時はユリシーズも側にいないんだし、気を付けなさいよ」
おばちゃまという強敵から私の睡眠時間と精神の安定を守る為にマダムが先延ばしにしてくれていた平民の御婦人の受け入れを、私自ら招き入れてしまったと気づいたが既に遅すぎた。




