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父の従軍記

作者: しまブログ

 従軍記 昭和十九年九月~          昭和二十一年五月  昭和十九年九月五日、山形市内の通称「だん」部隊へ入営した。

 正式名称は第四十七師団歩兵第百三十一連隊。

師団長兼連隊長は重廣三馬少将。

連隊には幹部候補生要員として神戸市以東の数都市から集められたものが多数いた。

私の小隊でも新規配属入営者十二名中、三名が幹候要因であった。

神港同窓生の坂本君もいっしょに入営し、彼は機関銃中隊、私は大隊砲(迫撃法)小隊だった。

 会社で同じ課だった林崎さんは他部隊だったが古参の軍曹(軍隊ではエライ人)で、大変お世話になり、ものすごく助かった。

 入営して先ず困ったのは言葉がわからないこと。

まるで外国へ行ったよう。

地元の人が普段通りにしゃべると一言もわからない。

 小隊長は教育係の下士官に「標準語を使え」と指示し、下士官もできるだけ使うよう努力していたが、入ってくると地が出る。

こちらは肝心なところがわからずウロウロする。

この繰り返し、それでも隊内の同年兵に言葉を教わり半月もすると大分わかるようになった。


 兵営での一日は、起床ラッパで起床―点呼―朝礼―洗面―飯上げ(食事受領と運搬。配食)―朝食―演習準備―演習―帰営―昼食―洗濯―演習―帰営―夕食―洗濯―班長や古兵の靴の手入れー点呼・消灯。

幹部候補生は消灯後一時間下士官室で受験勉強させられるが、疲れて眠く、それどころではなかった。

新兵は毎夜不寝番(一人一時間)が廻ってくる。

動作が鈍かったりヘマをしたものが出ると新兵全体が連帯責任でビンタ。

幸いこの隊は平手打ちばかりで、ゲンコツやスリッパを使うことはなかった。

起床から就寝まで息つく間もない忙しさ。

肌着や靴下の洗濯は班長や古兵の分も含めて昼休みと夕方の二回行うが、干している間に必ず何点かなくなる。

そこで消灯後営庭を横断して林崎軍曹の許い走り補充の品々を頂戴した。

また毎夜の靴の手入れも大変で、古兵の分も含めて一人で四~五足、固く絞った布でふいた後空からふきし、保革油(固形、やわらかい馬油)を指につけてすりこむ。

少しでも汚れが残っていると靴をなめさせられ、やり直し。

 林崎さんが時々私の兵営をのぞきに来てくれ、声をかけてくださるので、おかげで班長や古兵から㐰人的にビンタをもらうことはなかったし、心強かった。


 演習は営庭から一キロほど离れた演習場まで、砲を分解し分足して担ぎ、かけ足で競争(小隊に砲が二門ある)する。

演習中ヘマをすると鉄帽の上から鉄棒(標干といって、照準の時に使用する。

砲一門につき数本ある)で叩かれる。私は照準手だが、砲の取り扱いは習熟させられた。  一日中腹を空かし、寸暇もない日々を過ごして二カ月の訓練が終ると、何とか兵士としての格好がついてきた。


 十一月の初めに軍旗(連隊旗)授与式があり、軍旗を奉じて完全軍曹で外地へ出征する、日本最後の部隊ができ上った。


 それから数日後家族との面会が持たれ、両親と久しぶりに会う。中国大陸へ派遣されることはわかっていたが、両親には心配をかけまいと「北海道へ行くかもしれない」と伝えた。

 別れる際、父は振り向きもせずどんどん遠ざかったが、母は何度も立ち止まり振り返った。


 ここから少し寄り道になるが私の体の一部になった装備について記しておきたい。

 完全軍装とは、軍服(上衣の左裾裏に三角布の入った袋がある。)は一装(真っさらの服、死に装束の意がある)。

以下、誰かが袖を通したもの。

 二装は礼式用、三装は外出用、四装は営内着。他に訓練服がある。

四装と訓練服は常に手元に置き、背のうの寸法に畳んだ肌着とともに枕許に置く。肌着も真っさら。肌着袢は襦袢シャツ袴下パッチ・襟下(布製のカラー糸で縫い付けて使用する)。

 これ等は背のうの中(木枠の箱)に納める。(こてには他に乾パン一袋、牛カン詰一㐰、米一合、を入れる)背のうの外には毛布・外套(冬オーバー)・雨外被(レインコートフード付)・天幕テント・同支柱・僞装網・円ぴ(スコップ)・十字鍬(小型のツルハシ)・編上靴(はきかえ用)・地下足袋・炒り米の入った太い竹筒・飯盒・鉄帽を縛着する。

他に身に着ける物として剣帯(左側に銃剣を下げ、前後に小銃弾の弾薬箱、前に二㐰、後に大一㐰)・雑のう(私物入れ、裁縫用具は必需品)水筒・防毒面(重い)・防毒衣。全部を体につけるとびっくりするほど重く、身動きもままならない。

約三十キロもあろうか。


 その時はこれで連日四十キロメートルの夜行軍をするなど夢にも思わなかった。


 十一月中旬山形を出発。

下関―釜山―奉天。

(現在の瀋陽)釜山で三日程滞在したが雨が降ると地面がドロドロになり、靴の手入れに泣かされた。

(内地の内務班の延長作業)奉天で兵器(迫撃砲)と砲弾、馬(二十三頭)を受領し貸車に積む。

 奉天―山海関―天津―北京は客車使用。

北京で五日程滞在、ここからは外地で、内務班の慣習はなくなった。

 毎朝本隊まで命令受領に出る下士官の護衛で、銃を担いでお供した。

北京を十一月末に有蓋貨車で出発。

交替で警備につく車輌は無蓋貨車のため猛烈に寒い。

体感温度はマイナス三十度になる。

昼は敵機に狙われるので走るのは夜だけ。

朝になると車輌をバラバラにし、機関車は遠くへ退避。

兵員は下車し、荒野に各自隠れるためのタコ壺を掘る。

別に兵器を入れる大きな穴も掘る。


 昼は必ず敵機が来て偵察と機銃掃射をする。

日が落ちると車輌に戻り夕食後出発が、何日も動かないこともある。


約一カ月これを繰り返し、漢口(現在の武漢市)へ着く直前に昭和二十年の新年を迎えた。


 漢口到着日に隣の機関銃中隊から坂本君が面接に来、しばらく話す。

これが彼の姿を見た最後になった。(彼は虫が知らせて会いにきたのかも)二日目ものすごい腹痛で軍医に見てもらったらどうも盲腸炎らしい、とのことで漢口の野戦病院へ引率され入院、即手術で一命を取り止めた。

 薬をのんだり冷やして散らし前線へ出発していたら九分九厘助からなかったと思う。

 前線から後送されてきた患者は全員腹膜炎を発症しており、助からない。

 (3度目の命拾い)

 手術後七日目の朝抜糸、昼食の飯上げ使役に出て病院の庭を歩いていると敵機(スピットファイアー、操縦士は英国人)が飛来し、白衣の人間を目がけて機銃掃射、全員飯を放り出して交通壕に飛び込み難を逃れたが、敵機は執拗に反復襲来し掃射した。

建物の壁を貫通した弾丸は入院患者を殺傷した。

  (四度目の命拾い)

その二日後に退院し本隊復帰。

翌日桂林に向けて出発。

 ここからは鉄道線路が撤去されているため、全部夜行軍となる。

 夜行軍中「小休止」では背のうを降ろすことなく馬の水くみに走り又は、馬の脚を「そっこう」(わら束で脚をしたから上へこすり上げる)する。

 終わった頃「出発―」となる。

大休止「約三十分」ではじめて数分間尻を下ろせる。(背のうは背負ったまま)尻の下の雪がとけて浸みて冷たいがそれでも寝むる。

歩き出すと乾く。

 朝、目的地についても歩哨、うまや当番、炊事当番、使役等寝るひまもない。午後少し仮眠程度眠る。

 四~五日行軍すると二日程休養する。

この間、夜にゲリラの襲撃があり、私の寝ていた枕許の大鍋に機銃弾が数発当たった。

 弾道がもう少し低いと完全にやられている所だった。

その後の行軍中、私はかかとの靴ずれが化膿し鶏卵大に腫れて靴も地下足袋もはけなくなったため、最寄りの野戦病院で摘出手術を受けた。軍医は私の足を馬の足のように抱え、麻酔もなしで「少し痛いぞ」と云うや否やメスでズバズバとえぐり取った。薬を染みこませたガーゼを詰めこみ、「四・五日もすれば治る」と宣う。すぐ肉が盛り五日で退院したが、本隊はどんどんと遠ざかっており、単独で追跡することはできない。南へ向かう他隊に転属を繰り返し、少しずつ追いつくしかない。(次の隊への転属は隊長の指示があるまで勝手にできない)

 これから数カ月、他隊の世話になりながら、討伐と称する食糧徴発や、中国人を雇っての物資運搬等、本来の任務以外の貴重な体験をすることができた。

 中国人の農家に入りいり、土間の藁床で寝たり、食事の作り方、食べ方を学んだ。

湯は食事が終ってからでないと沸かさないのには弱った。

 生水をそのまま飲んでもなんともなくなった。ジャンクに泊まり込んで河を上り下りもした。どの作業も原隊では経験できなかったと思う。

 七月中旬に長沙を過ぎ、月末に湘潭の原隊に到着。

 しかし本隊は留守隊を残して桂林作成に参加(本来の目的)していた。

 使い慣れた八〇ミリ迫撃砲を残置し、新型の百二十ミリ砲を携行していた。(威力は三倍とのこと)

 留守隊列到着後数日して「撤退・残置兵器・弾薬破壊」の命令が下され、直ちに実施。桂林作戦が失敗し全部隊が退去してくる、とのこと。

 留守隊の一行は汨羅川のほとりまで数日は統制がとれていたが、その後は急追してくる敵に反撃することもできず、敗走状態となった。

弱った者の中には装具や銃まで捨てる者が出たが、そういう者はほとんど助からなかった。(気持ちの張りが失われるからではないか?)周りでバタバタと倒れるが誰も助けることができない。

 特に私は運悪く「アミーバ赤痢」にかかり、一日十数回の血便を出しながら敗走に「もはやこれまでか」と覚悟した。(みるみる内に筋肉がそ落ち、大腿部が下肢と同じくらいの大きさになった)それでも装具を离さなかった。

 四~五日して軍医が廻ってきて「アミーバ赤痢がはやっているが薬がない、お前にはこれをやるが、これが効かなかったら置いて行く」といい、バイエルのアスピリンを一錠くれた。

置いて行かれると即、死なので、これで治すと念じて服用した。

その後ピタッと下痢が止まり翌日にはすっかり治っていた。飲んだ本人がビックリした。

 (五度目の命拾い)

 陸軍舟艇隊による長江渡河の際にも、船に乗るまでに流される者が多数あったが、私はおかげで無事渡河できた。

 八月中旬ごろ、やっと漢口へ一日行潭程の所へたどり着いた(湘潭から約四〇〇キロ)気がつくと銃声がしない。ここで将校から「どうも停戦らしい」と聞かされた。

 同日中に防毒面を集めて焼却(防毒面は当時秘密扱いだった)翌日(八月一七日ごろと思う)漢口へ入ると中国軍が待ち構えていて「日本負けた。お前達捕虜」といわれ、武装解除の上捕虜収容所へ連行。


 敗走と、敗軍の悲哀を痛感した。


 捕虜収容所といっても小高い丘陵地で、周囲には堀も有刺鉄線もなく看視兵もいない。  住居用に何も支給もなかったが、各自の装具を集めてテントを張り、十人単位くらいで起居した。

 テントの周辺には中国人の物売り(タバコ・ゆで卵等)が毎日やってきた。

 数日すると各テントから数名ずつが連れ出され、八路軍(共産軍)が旧日本軍の武器集積所を襲撃してくるのを防ぐ為と称して山の稜線で小哨(泊りがけで歩哨に立つ)勤務をやらされた。

 約七日間で交替したが、私の所は無事だったが、交戦した小哨もあった。

 勤務を終えた数日後、私はマラリアを発病し入院した。

 約十日してマラリアが治った頃、新たな入院者(毎日どんどん入院してくる)が持ち込んだ「コレラ」が院内感染し、猖獗を極め多数の発病者と死者が出た。

 対策班は一日二回の直接検便(ガラス棒を腸内へ入れて採便する)で、保菌者を隔离、治療し、十日程で鎮静化した。

 その後、私は院内事務所で死亡診断書のガリ版刷りの作業に就き、帰国まで数カ月従事した。

死亡原因は、マラリア・デング熱・戦争栄養失調が多かった。

 

 帰国

 昭和二十一年五月

 雨季になり河が増水したので漢口から南京まで船が使えるようになり、帰国の途に就いた。

上海までは無蓋貨車だったが、沿線の住民からさかんに投石された。

 上海で数日船待ちで滞在。

 棄船に際し所持品検査があり、写真は一切だめだった。

 乗船時にタラップから落ちて沈む者が何名か出た。

 船はかなり大きな貨物船だったが、船内は超満員の上、伝染病が発生し翌日鹿児島へ上陸した後、小高い丘の上の小学校へ隔离収容され、一カ月滞在した。

 帰宅後数カ月してマラリアが発症したので、かねて指示されていた青野が原の国立病院へ行き、治療と投薬を受けた。

  完了

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