幸福な世界のラプンツェル
お話そのものは『愛憎のラプンツェル』をご覧にならなくてもお読み頂けるかと思いますが、後書きに『愛憎のラプンツェル』のネタバレがあります。
ラプンツェルは十六歳の誕生日を迎えた夜、ニーダーに求婚され、結婚を決めた。
ブレンネン王家と高い塔の家族は、共生の盟約を結んでいる。ブレンネン国王は高い塔の家族を庇護し、高い塔の家族はブレンネン国王が望んだ時に姫を差し出す。
ラプンツェルがブレンネン国王、ニーダー・ブレンネンの妃となることは、ラプンツェルが物心つく頃には既に決まっていたことだった。
ラプンツェルはニーダーの人となりを知らない。それでも、ニーダーの水際立った男振りと、折り目正しい言動を見聞きする限りでは、彼の妻となる運命を悲観することはなかった。
誕生日の数日後、ラプンツェルを王妃として、ブレンネン王家に迎え入れられた。
ニーダーは愛妾を侍らせたり、秘密の恋人と逢い引きしたりするような、不実な夫ではなかった。ラプンツェルを唯一の女性として尊重してくれる。
身に余る厚遇だと、ラプンツェルは思う。
ラプンツェルはニーダーより十歳も年下だ。そもそも、ラプンツェルは人間ではない。かつて人々に恐れられた影の民の末裔である。
ニーダーがラプンツェルを求めたのは、共生の盟約があるからだ。そうでなければ、ニーダーはラプンツェルではない別の女性を伴侶に選んだだろう。
ーー気の毒なニーダー
高い塔の家族は姫君であるラプンツェルの前に限りなく傅いてくれる。そうして育ったラプンツェルが恐縮して思わず卑屈になってしまう程に、ニーダーは嗜の深い細心を持って生活を縫い取っていた。
求めるより先に、求めるより多くを与えられる暮らしである。
王妃としての暮らしに不満があるとしたら、多忙な身である夫と過ごす時間が限られていることだ。妻として誰よりも夫を理解したいのに、その機会を得られない。
そうしてひとりで思い悩み、やきもきしていた。そんなとき。ニーダーは、嫌だ放せと喚き散らしてじたばたする少年の首根っこを掴んで、引き摺って来たのである。
『紹介しよう。此方が私の弟、ノヂシャだ』
ノヂシャはニーダーの弟、つまりラプンツェルの義弟だ。ニーダーは貢ぎ物のようにノヂシャをラプンツェルに差し出して、ふたりを引き合わせた。
『ノヂシャは君と同い年だ。君の交友として、無聊を慰める相手になると良いと思って』
それから間も無く、ニーダーは侍従から火急の報せを受けて席を外して、部屋には不貞腐れた顔をしてそっぽを向くノヂシャとラプンツェルと二人きりだった。
ラプンツェルはノヂシャに話しかけ、色々と話題をふってみたけれど、ノヂシャはラプンツェルに見向きもせず、生返事をするばかり。
ラプンツェルは困り果てた。ニーダーの手前、失礼なひとね、と怒り出すのは憚られる。
ノヂシャにはラプンツェルと仲良くするつもりがまるでない。だからこそ、ラプンツェルが王宮に迎え入れられたときに出迎えなかったし、ニーダーによって引き摺り出されるまでラプンツェルの前に姿を現さなかったのだろう。
ラプンツェルはこの短い間にそうと察した。ニーダーがわからない筈はないのに。
『……ニーダーが何を考えているのか、さっぱりわからないな』
ラプンツェルは屹然と溜め息をついた。ぼやきは誰の耳にも届かず、気まずい部屋の空気に霧散する筈だった。
しかし、ノヂシャはぱっと顔をあげた。ラプンツェルの目を真っ直ぐに見て、ノヂシャは言った。
『なんだ。君、ニーダーのこと、何も知らないんだな。知りたいなら、俺が教えてやろうか。俺、ニーダーのことなら何でも知ってるぜ』
自信満々の笑顔は太陽のように眩く輝いた。さっきと今とでは掌を返して態度がまるで違う。
これまでの失礼な態度で嫌われてしまっただろうとか、せっかくの好意を無下にされるかもしれない、なんて、夢にも思わないらしい。ラプンツェルが呆気にとられているうちに、ノヂシャはするりとラプンツェルの懐に入ってしまった。
それ以来、ノヂシャはしばしばラプンツェルのもとに押し掛けてくるようになった。ニーダーの言うとおり、ノヂシャはラプンツェルの交友となったのた。
王弟は成人を境に臣下に降ることを定められている。それまでの猶予をノヂシャは自由気儘に過ごしていた。
ノヂシャは時によると無作法だけれど、彼を取り巻く人々には許されていた。
王弟と言う立場だけが理由ではない。ノヂシャの無邪気な笑顔は、人の心に芽生える負の感情を魔法みたいに消してしまう。それは神様からの贈り物なのだろう。ノヂシャ自身、それを自覚して奔放に振る舞っている節がある。
ノヂシャはニーダーとはあまり似ていない。ある時、ラプンツェルはニーダーにそう伝えた。何気無い言葉が、ニーダーの微笑を消し去ってしまった。
『私とノヂシャは似ていない……そうだろうな。ノヂシャには先王陛下の面影がある』
そう言ったニーダーの横顔に暗い翳りを見て、ラプンツェルは二の句が継げなかった。
どうやら、ラプンツェルはニーダーの心に刻まれた、大きく深い傷に触れてしまったらしい。
ノヂシャが生まれて間も無く、彼等の両親は亡くなったそうだ。『俺はニーダーに育てられたようなものだ』とノヂシャから聞かされた。
ニーダーは両親に先立たれ、両親の忘れ形見である、生まれたばかりのノヂシャを守り育てなければならなかった。当時、彼は十歳の少年だったのに。
もちろん、彼の周囲には彼に手を差し伸べる大人たちがいただろう。それにしても、ニーダーは大変な苦労をしたのだ。
ーーノヂシャの言う通り。私、ニーダーのことを何も知らない。もっと知りたい。もっと知らなきゃいけない。だって、私はニーダーの奥さんなんだもの
愛し愛され、夫婦になったふたりではないけれど。理由はどうあれ、互いを望んでのだ。夫婦になったからには、誰よりも夫を理解したいし、夫に理解してほしい。そう、ラプンツェルは希うのだった。
***
「ラプンツェル、おーい、ラプンツェル? 俺の声、ちゃんと聞こえてる? ラプンツェル、ラプンツェル?」
物思いに耽っていたラプンツェルは、ノヂシャの呼び掛けによって、我に返った。
うららかな日の光が燦々と降り注ぐ金色の昼下り。ラプンツェルは緑鮮やかな芝生の上に腰をおろしていた。天色のドレスの裾が花のようにひろがる。
寛いで過ごせるように、侍女が選び着付けてくれたドレスは、動きやすくて着心地も良い。膝の上にのせた本の頁を捲るたびに視界に入る真珠は、光の珠のように眩しかった。
きちんと整列する文字列をなぞっていた視線を、呼び掛ける声の主へと向ける。
ノヂシャは芝生の上に腹這いになってラプンツェルを見上げている。ラプンツェルにぴったりと寄り添って眠る黒猫を左手で撫でながら、左手で頬杖をついていた。目に見えて不機嫌になっている。待たせることには慣れていても、待たされることには慣れていないのだ。
ニーダーはノヂシャを「わがままで甘ったれの末っ子」だと言っていた。ラプンツェルにも弟がいる。実弟のヒルフェは甘えん坊の末っ子だ。いつもにこにこしていて上機嫌で、ラプンツェルは弟のご機嫌をとるのに腐心した記憶がない。
放っておけばそのうち機嫌は直るとニーダーは言うけれど。義弟と良好な関係を築きたいラプンツェルとしては、そう気楽に構えてはいられない。ラプンツェルは慌てて言い開きをする。
「ごめんね。ちょっと、ぼうっとしちゃって。なぁに、ノヂシャ? どうかした?」
「その本、君も好き?」
猫の毛を絡ませたノヂシャの指先が、膝にのせた本の頁を摘まむ。そんなに機嫌は悪くなさそうだ。ラプンツェルはほっとして、次いで小首を傾げた。
「『海賊と神様の至宝』のこと? うん、好きだよ。神様の宝物を探し求める海賊の、海をめぐる大冒険。ワクワクするよね。ノヂシャもこの物語が好きなの?」
「まさか。ノヂシャは本を開くとすぐに眠ってしまう」
ラプンツェルの問いに答えたのは、ノヂシャではなくてニーダーだった。
『明日の正午から二刻の自由を得た。余暇を君と過ごしたい。構わないか?』
晩餐の席でニーダーがラプンツェルにそう訊ねたのは、昨日のことだった。
ラプンツェルはきょとんとしてニーダーを見詰めた。危うくナイフとフォークを取り落とすところだった。
しばらくすると、やっと理解が追い付いて、こくこくと頷く。
ーー私、やっちゃったかも。薄鈍だと思われちゃったかも
ニーダーは『では、そのように』と言って目を伏せた。相変わらず無表情で寡黙だ。ラプンツェルは憂慮に堪えなかったけれど、ニーダーはいつも通り黙々と食事をとるので、ラプンツェルもそうするしかなかった。
こうして、王宮の庭園でピクニックの真似事をすることになった。ニーダーの発案である。以前、ラプンツェルが『ピクニックをしたことがないの。ピクニックをしてみたいな』と話したことを覚えていてくれたらしい。
ニーダーの気遣いが嬉しくて、ラプンツェルは彼の隣でにこにこしていた。ニーダーは殆んど無表情だったけれど、それでもいつもに比べれば、心なしか口数が多いように感じられる。こんなに長い間、二人きりになるのはこれが初めてのこと。
ーー何をするにも、お互いにぎこちない私たちだけど、でも……こうして歩み寄って、少しずつでも、名ばかりじゃない、想い合う夫婦になれたら良いな
大きなバスケットに詰めた肉料理を食べ終えて。カトラリーを片付けるためにバスケットの蓋を開けたラプンツェルは驚いた。いつの間にか、空っぽのバスケットの中に入り込んでいた大きな黒猫が、丸くなってすやすやと寝息を立てているのである。
『……ノヂシャの猫』
ニーダーがラプンツェルの背に覆い被さるようにしてバスケットの中を覗き込み呟くと、まるでニーダーの声を聞きつけたかのように、青い小鳥が飛んできた。小鳥はニーダーの右肩にとまって、ニーダーが差し出した人差し指の、短く切られた爪の先を啄む。ニーダーが目を眇めた。
『……ノヂシャの小鳥』
ラプンツェルはあっと声をあげた。背の高い生垣から、ノヂシャがひょっこりと顔を覗かせる。
『……ノヂシャ』
振り返ると、ニーダーは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ラプンツェルなら、ニーダーにこんな顔をされたら、回れ右をするより他に無いけれど。
『やっと見つけた! あんた達、こんなところにいたんだな!』
ノヂシャは生垣を乗り越えてこちらへやって来た。そうするのが当たり前だと言う顔をして、ラプンツェルの隣に腰をおろす。ノヂシャの言う「あんた達」は、猫と小鳥のことではなく、ニーダーとラプンツェルのことだったらしい。
ニーダーが屹然と溜め息をつくと、ノヂシャは目を三角にした。
『溜め息をつくな。それと、俺を仲間は外れにするな。次からは、ちゃんと俺を誘えよ。良い? わかった? ラプンツェル』
非難の矛先を向けられたラプンツェルは、狼狽えながらこくこくと頷く。ニーダーがまたひとつ溜め息をついたから、天を仰ぐ彼の表情をうかがうことは出来なかった。
そして、ノヂシャは彼が主催者であるかのように、大きな顔をしている。長い沈黙を経て口を開いたニーダーをきっと睨み付ける。
「ラプンツェルは俺と話してるんだ。横から首を突っ込むなよ」
「せっかくの夫婦水入らずの一時を邪魔するお前にだけは言われたくない」
ニーダーとノヂシャは憮然たる面持ちで睨み合う。夫が義弟に「夫婦水入らず」などと言うのを聞くのは妻として面映いことだ。けれど、睨み合う兄弟に挟まれていては、赤面して俯いてはいられない。
「ふたりとも、喧嘩しないでね?」
ラプンツェルが取り成すと、ニーダーはふるふると頭を振った。白皙の、すきとおった皮膚のもとに額の青筋が浮かび上がっているような。気のせいだろうか。
「喧嘩などしていないよ。ノヂシャの言動は幼稚だから、君が思い違いするのも無理はないが」
ノヂシャは鼻先で笑う。白い顔は赤くなり、額には太い青すじがくっきりと二本浮き上がった。
「そうそう。喧嘩なんかしてない。ニーダーはいつもこうなんだよ。どうも、傍目からは嫌味ったらしい、付き合いにくい人間と見られるらしいね。本当のことだけど」
一触即発の気配を感じ取り、ラプンツェルの笑顔がひきつれる。この兄弟、互いのやることなすことが腹に据えかねているようだ。
ラプンツェルは鈍いふりをして小首を傾げた。
「えっと……つまり、喧嘩するほど仲が良い、ってことだね?」
「それは違うよ、ラプンツェル。そもそも、同格の者同士でなければ、争いは成立しないのだ」
「あんた、それ、本気で感じ悪いからな」
ラプンツェルは苦笑する。ふたり揃って喧嘩腰になられると、ラプンツェルの仲裁なんて、まるで意味を為さない。
二人が本気でいがみあっている訳ではないことは、なんとなくわかる。ノヂシャはいつもニーダーの話ばかりするし、ニーダーはニーダーでノヂシャを気にかけていることが言葉の端々から伝わってくる。
ーーうん。やっぱり『喧嘩するほど仲が良い』ってこと。リーナとアンナもよく喧嘩をしていたし
あれは喧嘩と言うより、アンナがリーナをからかって怒らせていたと言うべきかもしれないけれど。
不意に、ニーダーが小さく呻いた、何事かと振り返ると、ついさっきまで澄まし顔をしていたニーダーがぎゅっと眉根を寄せていた。
ニーダーの右肩にちょこんと乗ったノヂシャの小鳥が、ニーダーに耳打ちするかのように、彼の右の耳元で囀ずっている。目を凝らして見ると、耳朶に小さなきずがついていた。
「ノヂシャ、お前の小鳥が私の耳朶を啄むのだが、そうするよう躾ているのか?」
「はぁ? なんだそれ。そんなわけねぇだろ」
「なるほど。では飼い主に似たのだな」
「俺がいつあんたの耳朶を齧ったって? 人聞きの悪いことを言うな」
「こうして噛み付いてくるだろう。因みに、お前が私の耳朶を噛んだのは、お前の乳歯が生え揃った頃だ。こう、抱いてやっていたら、噛まれて流血した」
ニーダーは赤ん坊を縦抱きにする真似をした。小鳥を振り落とさないように慎重に動いている。小さな生き物にも思い遣りの心をもって接する夫を、ラプンツェルは微笑ましく、誇らしく思う。
ノヂシャがぐうと呻いた。ノヂシャの喉奥で、いくつかの言葉が閊えたようだった。
「……赤ん坊の頃の話を引き合いに出すのは卑怯だ」
「赤ん坊? 当時のお前にそう言ったら、顔を真っ赤にして怒っていたが」
「いや、だからさ……あんた、しつこいんだってば!」
ノヂシャの怒声を浴びたニーダーはきょとんとしている。ノヂシャを怒らせようとした訳ではないらしい。
早くに亡くなった両親に代わり、ノヂシャを育てたニーダーにしてみれば、ノヂシャが赤ん坊だった頃のことがつい昨日のことのように思い出されるのだろう。しかし、大人になろうとする年頃の少年は、お前の赤ん坊の頃はこうだったああだった、と言われるのを嫌がるものだ。
ラプンツェルは慌てて話しの穂を継ぎ変えた。
「ねぇ、ノヂシャ。まだ、質問に答えて貰ってないよ。この物語、君も好きなの?」
ノヂシャは目をぱちくりさせる。
「そう言えばそうだった。ニーダーが茶々を入れるから、話が逸れた」
ノヂシャはニーダーをきっと睨み付けてから、本の頁を人差し指で弾いた。
「ニーダーはこの物語が好きで、こどもの頃は、こればっかり読んでたんだ。昔から、何をするにもしつこいからさ。君もこの物語が好きなら、君達のこどもには、俺がこれを読み聞かせしてやろうと思って」
ラプンツェルは危うく噎せそうになった。思わず知らず、ニーダーの顔を見上げる。ニーダーは掌にのせた小鳥と見詰め合っており、ノヂシャの話を聞いていたのかどうか、わからない。
ラプンツェルはニーダーとノヂシャの顔を交互に見た。どちらも助け船を出してくれない。ラプンツェルは上気する顔に愛想笑いを被せて応えた。
「気が早いね」
「そうでもないさ。ニーダーの年齢なら、こどものひとりやふたりいたって、おかしくない」
ラプンツェルは心のなかで両手で顔を覆い「もうやめて!」と叫びながら悶絶した。
結婚して夫婦となってから、ニーダーとラプンツェルは毎晩のように同衾している。けれど、夫婦の営みを成し遂げた回数は、初夜を入れても、片手の指で数えて足りる程度だ。
ニーダーは毎日忙しくしているのだから、仕方がないことだろうと思うし、あんなに恥ずかしい夜がしばしばあっては身が持たないとも思う。
それでも、新婚早々、夫に飽きられてしまったかもしれないと言う不安は消えないし、懐妊の兆しもない。
ノヂシャはラプンツェルの複雑な心境を知る由もなく、猫の頭を撫でながら目を細める。
「俺、君達のこどもに『父上より母上より、叔父上が好き』って言わせるつもりだから」
「あり得ないな」
突然、ニーダーが口を挟んだ。ぎくりとするラプンツェルの隣で、ノヂシャは顔をしかめて「なんで?」とつっけんどんに訊いた。
ラプンツェルは恐る恐るニーダーの横顔を見上げた。
ーー私との間にこどもを授かるなんて、あり得ないって言うの?
盟約によれば、高い塔の家族の血は、ブレンネン王家に銀の祝福を授ける。ニーダーがラプンツェルを娶ったのは、銀の祝福を授かりし王太子を得るためだ。
ーーそうだよ。もしもニーダーが、私みたいな人外の小娘には何の魅力も感じられない、と思っていたとしても……こどもは、息子は欲しい筈。それも、一刻も早く。あれ? もしかして、ニーダーは焦れている? 私がなかなか懐妊しないから、だから……
ニーダーは屹然と溜め息を吐く。駄々っ子を諭すような調子で言った。
「こどもにとっては、母親が一番に決まっているだろう」
えっ、とラプンツェルはすっとんきょうな声をあげる。ニーダーは不思議そうにラプンツェルを見つめた。ラプンツェルは頭がくらくらする勢いで頭を振った。
「違うの、なんでもないの。気にしないで」
と言いながら、ラプンツェルは胸を撫で下ろす。
ーーしっかりしなさい、ラプンツェル。気にしすぎ。気にしすぎよ
ノヂシャは挙動不審なラプンツェルを横目に見て首を捻っていたけれど、まぁ良いかとひとりごちて、ニーダーに向き直る。
「そう言うもの?」
「そうだ。そして父親として、二番を譲るつもりはない」
「それはどうかな? 俺、あんたよりはこどもに好かれると思うんだよ。ほら、あんたは無愛想だけど俺は愛想が良い方だし。あんたは強面だけど俺はどっちかって言うと優形だし」
「『どっちかって言うと』?」
「なんだよ。何が言いたい」
「別に何も」
「ああ?」
ノヂシャが上体を起こす。ばかにされて頭にきた、と顔に書いてあった。ラプンツェルはおさえておさえてと身振り手振りでノヂシャを宥めてから、肩越しにニーダーを振り返り、小声で訊ねる。
「ねぇ、ニーダー。『優形』ってどういう意味?」
「姿形がやさしいこと。品よく、すらりとしていること。また、気だてや振る舞いがやさしいこと」
「褒め言葉なんだね。ノヂシャが嫌がってるみたいだから、悪口なのかと思った。ノヂシャ、悪口じゃないって。褒め言葉だって。だから、ね、怒らないで」
「ニーダーは褒め言葉のつもりで言ってないと思うぜ」
「そうなの?」
そんなこと無いと思うけど、と続けさせて貰えなかった。ノヂシャは早口で捲し立てた。
「そうだよ。うらなり野郎だってバカにしてるのさ」
ノヂシャは憤懣やる方無い様子だ。ニーダーはおろおろするラプンツェルとぷりぷりするノヂシャを見比べて、おもむろに口を開く。
「そんなつもりはない。父上は優形な御方だった。お前は父上によく似ている」
「その眼鏡、度は合ってるのか? 俺は父上よりずっと男前だろ」
「ノヂシャ、先王陛下に対して、その言い様は不敬だぞ」
「父上はニーダーと違って、こんな些細なことで目くじらを立てたりしねぇよ。知らねぇけど」
ニーダーの顔が僅かに強張る。以前、ラプンツェルが目の当たりにした表情だった。それを見たノヂシャはばつが悪そうな顔をする。ころりと寝返りをうち、ラプンツェルとニーダーに背を向けた。
ニーダーは物心つく前に両親を亡くしたノヂシャを不憫に思うのだろう。ひょっとすると、兄である彼だけに両親の思い出があることに、罪悪感を抱いているのかもしれない。
『両親がいなくて、寂しいとか悲しいとか、そういうのはないな。全然ない。俺にはニーダーがいる』
とノヂシャが言ったことがある。強がりではなくて本心なのだろう。ノヂシャにとって、ニーダーは兄であり、父であり母でもあるのだ。
ノヂシャは亡き両親に対して、あまり関心を示さない。素っ気ないのでは、と思わないでもないけれど。両親を恋しがらないことが、親代わりを務める兄へ対する、ノヂシャなりの感謝のしるしなのかもしれない。
出し抜けに、ノヂシャが「決めた」と大きな声を出した。寝返りをうってこちらを向いて、頬杖をついて、僅かに目を瞪ったニーダーを見上げる。
「あんた達のこどもが姫だったら『大きくなったら叔父様と結婚する』って言わせる」
「なんだそれは。絶対に許さんぞ」
「それで、ニーダーが反対したら『お父様の分からず屋! お父様なんか大嫌い!』って言わせる。決めた。絶対に言わせる」
「馬鹿馬鹿しい」
ニーダーの声が低くなる。こんな軽口の応酬で、本気で腹を立ててはいないだろうけれど、機嫌が傾いたのは確実だった。ラプンツェルはさっき、ノヂシャに気が早いと言ったけれど、まだ生まれていない、生まれるかどうかもわからない娘のことで腹を立てるなんて、気が早いどころの話ではない。
ラプンツェルが漏らした「困った兄弟ね」というぼやきに被せるようにして、ノヂシャがあっ! と大声をあげた。
「忘れるところだった。ラプンツェル、これ。この栞、君にやるよ」
ノヂシャは懐から赤いリボンを結んだ栞を取り出して、ラプンツェルに差し出した。ラプンツェルはそれを受け取り、歓声をあげる。
「まぁ、可愛い! 押し花の栞ね。四つ葉のクローバーと、これは……ラプンツェルの花かしら」
「よくわかったな。ルナと一緒に摘んだ。君の花だ」
ルナことルナトリア・アルル・イレニエルは、ニーダーとノヂシャの父方の従姉妹にあたる公爵令嬢だ。ニーダーの親友であり、ノヂシャの婚約者でもある。ブレンネンの淑女の鑑との呼び声高い才色兼備の美女で、ノヂシャは八歳年上の彼女にぞっこんだ。
ルナトリアはラプンツェルに、親愛の情と敬意を払ってくれる。けれど、ラプンツェルはルナトリアのことがちょっとだけ苦手だ。
歓談の場で『わたくしの初恋の殿方は陛下だったのですよ』なんて、冗談めかして口にしたりするから。
ぺたんこに潰れた、浅葱色の小さな花を撫でていると、ニーダーがぐっと身を寄せて来た。ニーダーはかちんこちんにかたくなるラプンツェルの手許を覗き込んで、目を細める。
「これはお前の花でもある。お前が小さい頃、教えてやったな。覚えているか?」
ノヂシャは面食らったようだ。瞬きを繰り返し、ぷいっと顔を背けて、ぶっきらぼうに言う。
「さぁね」
小さな頃の話を蒸し返されて、怒ったのだろうか。ラプンツェルは心配したけれど、ノヂシャの顔色をうかがって、すぐに考えを改める。ノヂシャの耳が真っ赤に染まっていた。
ーーノヂシャが照れてる。珍しい
男の子は、小さな頃の話をされると照れてしまうものなのかもしれない。ラプンツェルの弟のヒルフェはそんなことは無かったけれど、人間の男の子はそう言うものなのかもしれない。
そう考えると微笑ましくて、ラプンツェルはくすくすと笑った。ノヂシャにじろりと睨まれたので、ラプンツェルはにっこり微笑んで誤魔化す。栞を両手で包み込み、お礼を言う。
「ありがとう、ノヂシャ。大切にするね」
「綺麗な指輪だ。君の瞳と同じ青」
ノヂシャが指差したのは、左手の薬指に嵌めた指輪だ。ニーダーから貰ったたくさんの贈物のなかでも、特別なもの。求婚の際に手渡された指輪だった。
『君の瞳の色だ』とニーダーも言っていた。『君の瞳の煌めきには遠く及ばないが』と付け加えて、ラプンツェルを赤面させた。
ラプンツェルは左手を顔の前に翳した。手首を返して、指輪が戴く宝石をノヂシャに見せる。
「綺麗よね。ニーダーに頂いたのよ」
「ニーダーとお揃いだな」
ラプンツェルはどきりとする。ニーダーは普段は装飾品の類いを身に付けない。ニーダーが指輪を嵌めているのを見るのが、今日が初めてだった。
ーーもしかしたら、と思っていたけど……やっぱり、お揃いなんだ。あれ、なにこれ。なんだか、すごく恥ずかしい
ラプンツェルは両手で林檎のように色付いた頬を包み込む。これは話題を変えた方が良い。
「ノヂシャとニーダーはお洋服がお揃いだね」
「ニーダーが俺の真似をした」
「お前が起床する頃には、私は身支度を済ませているが」
心外だと言わんばかりの仏頂面で睨み合う兄弟は、似ていないけれど、似た者兄弟なのかもしれない。
ラプンツェルは含み笑い、それから、良いことを思い付いた! と声をあげた。
「ねぇ、ノヂシャ。私達も何か、お揃いにする? 押し花の栞はどうかな? 君がしてくれたみたいに、私も四つ葉のクローバーと君の花を摘んで、押し花の栞にして、君に贈るの。うん、素敵。ね、そうしましょうよ」
「やめておこう。ニーダーが妬く」
妙案だと思った提案をノヂシャに拒否されて、ラプンツェルは目を丸くした。
「そんなことないと思うけど」
「そうなの。君は知らないだろうけど、ニーダーはかなり嫉妬深いんだ。それに、ニーダーの言う通りって訳じゃないけど、俺は読書しないから、栞は要らない」
「そう」
それなら仕方ないと、ラプンツェルは大人しく引き下がる。その華奢な肩を、ニーダーの大きな手が抱き寄せる。唐突にニーダーの懐に抱え込まれて、ラプンツェルは目を白黒した。
「えっ? なぁに、ニーダー? どうかした?」
ラプンツェルは二つに結わえたラプンツェルの髪の一房を手に取る。
「ニーダー?」
「こうしていると、君はまるで可憐な花の妖精のようだ」
ニーダーが髪を撫でる。耳許で囁かれて、ラプンツェルはひゃっと悲鳴を上げた。
「ちょっと、やだ。あなた、いきなり、どうしちゃったの?」
「心に募る想いをそのまま言葉にしただけだ」
どぎまぎするラプンツェルとラプンツェルに密着するニーダーを見て、呆れたように溜め息をつく。
「ほーら、言わんこっちゃない」
すっくと立ち上がり、肩を竦める。
「これ以上、野暮なことはやめにするか。馬に蹴られちまう前に退散だ。ふたりとも、また後で」
「えっ? えっ? ちょっと、ノヂシャ、ちょっと待って! 何処へ行くの!?」
「近々、甥っ子か姪っ子の顔を見れそうで安心したから、昼寝する」
あわてふためくラプンツェルと、ラプンツェルをぎゅうぎゅうと抱いて放さないニーダーに背を向けて、ノヂシャは歩き出す。
肩越しに振り返り、ラプンツェルを見つめるニーダーの優しい眼差し。ノヂシャは肩をすくめてひとりごちる。
「君は愛されている。君が思っているより、ずーっと」
その呟きは、ラプンツェルの耳には届かない。ぴったりとくっついた夫婦の姿は、百花繚乱の陰に隠れて見えなくなった。
幸福な世界の登場人物紹介
●ラプンツェル
高い塔のお姫様。ゴーテルとは関わりがなく、ビルハイムから「大人になったらブレンネン国王のお嫁さんになって貰うからね」と言い聞かされて来たので、ニーダーの求婚をすんなり受け入れた。共生の盟約を果たすことが、自身の使命だと思っている。
本編よりおっとりしている。
ビルハイムはブレンネンと協調する方針なので、高い塔の家族はニーダーに対して敵意を剥き出しにしないので、ニーダーに対する敵愾心もない。
ニーダーのことは無口で無表情だけど、本当は優しいひと、と認識していて、好意をもっている。愛ではないけれど、これから、愛になるかもしれない。
●ニーダー・ブレンネン
ニーダーが十歳のとき、ゴーテルがミシェルに無理心中を仕掛けて、命からがら逃げ出したミシェルがクローネに無理心中を仕掛けて、三人揃って死んでしまう。この世界線ではゴーテルが本編より正気を保っており、ニーダーのことをミシェルだと誤認することはなく、ニーダーのことは『憎き恋敵の息子』と認識していた為、二人が結託することなく、クローネに毒を盛っていない。両親との関係性は本編とほぼ同じ。ただミシェルが本編より正気を保っており、ニーダーなことは素っ気なく突き放していた。
両親の突然の死に狼狽えるけれど、なんとか奮起して、生まれて間もないノヂシャを育てながら、国王として我武者羅に頑張ってきた。
ノヂシャとルナトリアが心の支えになってくれたので、二人を大切に想っている。
ラプンツェルに一目惚れしたイベントは発生したので、ラプンツェルのことが大好き。独占欲が強く嫉妬深いのは相変わらず。でも本編のように狂気染みてはいない。ラプンツェルと結婚出来て嬉しい。今はとても幸せ。
●ノヂシャ
ニーダーに育てられた。ゴーテルとミシェルが亡くなっているので、トラウマは何も無い。ニーダーが甘やかしてしまったので、わがままなお子様。狡くて賢い。趣味は人間観察。
ルナトリアに憧れているけれど、結婚と言われてもいまひとつぴんと来ない。まだ親離れ出来ないお子様。ラプンツェルのことは、ニーダーをとられちゃうと思ったので、最初は嫌がっていたけれど、話しているうちに打ち解けた。義姉と言うより、友人だと思っている。
○ルナトリア
コマドリの卵を探しに暗い森に行くイベントが発生していないので、ヴァロワには留学していない。イレニエル公爵は、ルナトリアを王妃に推したかったけれど、ニーダーはラプンツェルと結婚すると決めていたので、ノヂシャの婚約者におさまる。ニーダーのことが好きだったけど、ニーダーがとんだ朴念仁だったので、たくさん泣いて、もう良いやと諦めた。今はノヂシャを理想の夫として育てようと画策中。ラプンツェルとは仲良くしたいと思っているけれど、つい意地悪をしてしまう複雑な乙女心。
○高い塔の家族たち
ラプンツェルが嫁いでしまって寂しいけれど、高い塔でこれまで通り幸せに暮らしている。