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桜がクリスと出会ったのは、異世界に来て三ヶ月ほどが経った頃だった。
なんとか桜が新しい生活に慣れてきて、山熊亭でも看板娘として常連客たちに受け入れられた頃だ。
近所の人や常連客には桜の事を親を亡くした遠縁の子を引き取ったと話していたようで、みんな桜に同情的だった。
そんな常連客の中に、この街の騎士団の従者がいたと知ったのもその頃だ。
従者とは騎士を目指す騎士見習いたちを指し、比較的若い者たちが多い。四人姉弟の長女である桜はつい世話を焼いてしまう存在たちだ。
ある日この従者たちがいつもの様にお昼を食べに来た時のこと。その日は従者たちが昼時の最後の客で、みんなが帰るときに見送りに一緒に外に出た桜。
その時たまたま店の外を歩いていたクリスと顔を合わせたのが最初の出会いだ。
物語に出てくる王子様とはこんな人の事を言うんだろうなと思ったのがクリスを見た第一印象だった。
おとぎ話から出てきたようなクリスの容姿は桜の好みド真ん中で、冷静な心の内とは違い実際その時の桜はボーッと見惚れてしまっていた。
隣で従者たちが元気に挨拶している事から、騎士団の上官なのだろう。
桜はその間に惚けていた顔を引き締め、ニッコリと営業用の笑顔を貼り付け従者たちに続いて簡単に挨拶をした。
こういう相手は遠くから眺めているのが一番だ。
とはいえ随分と身分が高そうな雰囲気漂う彼をまた見る機会なんて無さそうだけど。
後々聞いてみたところ、彼の名前はクリス=バックランド。やはり桜の感じた通り身分は高く、侯爵家の四男だった。
そんな雲の上の様な存在が何で一人で街を歩いてるのかと言えば、騎士団内での彼の身分は第三騎士隊副隊長。騎士団の中でもそれなりに地位は高いがそんな彼を顎で使う上官である隊長にお使いを頼まれ、よく街に出没しているようだ。
身分は高いがそれを鼻にかけず、みんな優しく人当たりがいいイケメン。
これが彼に対する世間の評価らしい。
これは相当モテるんだろうなと思ったら案の定、貴族、平民問わず大変人気があるようなのだ。
それを聞いて桜はやっぱりねと頷き、ああいうイケメンは遠くから見ているくらいが丁度いいと再度納得した。
そんな出会いから三ヶ月ほど経った頃、街である事件が頻発する様になる。
婦女暴行事件だ。
若い女性ばかり狙われ、桜も人気の無い路地は歩くなとか、暗くなってからの外出は控えろと注意された。
街には見回り騎士たちの姿も多く見る様になったが自分は大丈夫だろうと楽観視して、あまり危機感は感じていなかった。
だがある日、他人事ではなくなる日がくる。
山熊亭の弁当が知られ始め、その日も配達の帰りだった。
人気の無い路地の前を通りかかったとき、路地からいきなり人の手が伸びてきて桜の身体を路地に引っ張り込んだのだ。
突然の事で何が何だか分からず固まる桜。その間に床に押し倒され、スカートがたくし上げられ太股を撫で回される。さらに首筋には男が顔を埋めていて、そこでやっと桜は自分が襲われている事態に気づく。
知らない男の舌が首を這う感触が気持ち悪い。でも恐怖に身がすくみ抵抗らしい抵抗が出来ない。そんな時、桜の頭の中に父親の声が聞こえた。
ーーいいか。パニックになるな。まずは自分がどんな状況なのか冷静に把握しろ。
その声に桜の脳裏に実家の道場が思い出された。
桜の家は空手の道場をしており、父親が師範代を務め姉弟全員が空手を習っていた。みんなそこそこの実力があり、桜も学生時代は賞をもらう事が何度かあった。
それに加えて最近では女性向けに護身術を教える教室もやり出し、桜と妹の二人はその教室に参加させられて護身術を習ったのだが、それが役に立つ日がくるとは。
道場で護身術を稽古した事を思い出して少し冷静になれた。
鼻息の荒い男が桜の首筋から顔を離した瞬間、桜はチャンスとばかりに身体を捻り、肩を男の顔に命中させた。
「ぐあっ! 」
男は顔を手で覆って身体を起こした事で上半身が桜から離れた。
その隙に顎を狙って下から肘を打ち込む。
「がっ!」
今度は顎を押さえて男が床にもんどり打つ。
これで完全に自由になった桜が逃げようと立ち上がると「このアマッ! 」と怒鳴り声が聞こえ、振り返ると男が桜に向かって手を伸ばしてきているところだった。一瞬どこからか桜の名前を呼ぶ声も聞こえた気がしたが、今はそれどころではない。
桜は咄嗟にその手を躱し、躱した勢いのままその場で回転して男の後頭部に後ろ回し蹴りを決めた。
蹴りは綺麗に決まり、男は気を失って倒れる。
桜は荒い呼吸を繰り返しながら倒れた男を見下ろす。
すぐに騎士団の人に突き出さなきゃ。そう思うのに今頃になって足が震えて立っているのが辛くなってきた。
そこへ背後から声がかかる。
「サクラさん! 」
どこかで聞いた声だなと思いながらノロノロと振り返ると、そこにはクリス=バックランドが立っていた。
「バックランド…さん? 」
「大丈夫ですか!? 怪我は? 」
みんなを魅了するあの優しい微笑みはなく、険しい顔でクリスは桜の全身を目で確認する。
「ええと、あの…大丈夫です…」
クリスは桜の言葉に頷きながら、自分の上着を桜の肩にかけてやる。
「この男は部下に連れて行かせます。サクラさんには後日お話を伺うと思いますが、今日はこのまま家まで送ります」
クリスの力強い腕が桜の肩を抱く。
さっきの男に触られた時は気持ち悪くて仕方なかったのに、クリスに触られるのは不思議と平気だった。
そのままクリスに肩を抱かれながら桜は山熊亭に帰った。
女将さんと旦那さんには物凄く心配され、また無事で良かったと喜ばれた。
それからだ。今まで一般隊士からしか入らなかった弁当の注文が、クリスからも入るようになったのは。
そしてクリスがあからさまに桜に対して好意を示す様になったのは。
みんなに優しいクリスというのは本当の彼の姿ではないと桜が分かり始めたのもその頃。
物事を円滑に進め、かつ相手にそれ以上踏み込ませないための鎧。今までクリスがみんなに向ける笑顔はそんな笑顔だったと、その後のクリスの言動で桜は知る事になる。
だって違うのだ。クリスが桜に向ける笑顔も態度も、何もかも。
桜を見る瞳は蕩けそうに柔らかく、桜を呼ぶ声はこちらが恥ずかしくなるほど甘い。もうクリスの全身が桜を好きだと言っていた。
これでクリスの気持ちに気づかないほど桜は鈍くはないつもりだ。
もしこれが日本であったなら、桜もクリスに応えていたかもしれない。
でもここは異世界。しかも相手は桜には馴染みのない貴族社会にいる男。
桜にクリスを受け入れる勇気はなかった。
貴族のクリスと平民の桜の価値観がどれほど違うのかも分からなかったし、何より心配だったのがクリスと気持ちを通わせてしまったら元の世界に帰れないかもしれないと言うのが一番の不安材料だった。
桜は日本に帰る事を諦めていなかった。
何一つ手掛かりは無いが、いつかその手掛かりを求めて旅に出ようと思っていたのだ。
それがクリスとの繋がりを作る事でこの世界との繋がりも強くなり、ただでさえ低い帰還の可能性がさらに低くなるのではと恐怖した。
だからどれ程クリスに想いを寄せられても、桜はその想いに応えるつもりは無かった。
心の奥底で、どれ程クリスに惹かれていたとしても。