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また元の世界に戻る事は出来るのか。
見慣れた街並みを見て、まず最初に考えたのはその事だった。
だから失念していた。この部屋が誰の部屋なのかと言う事を。
「誰だ!」
「!!」
背後から聞こえた声に桜は勢いよく振り返った。
そこで目が合ったのは、この一週間桜がずっと頭に思い浮かべていた人物だった。
「クリスさん……」
「サクラ…さん? 」
そこにはドアノブに手を掛けた状態で目を見開いているクリスがいた。
だが以前の桜の知る王子様の様なクリスはどこにもおらず、目の下には隈、身体は全体的に一回り細くなっていて一目で体調不良を心配するほど暗い雰囲気を醸し出していた。
たった一週間会わなかった間に何があったのか。
クリスの変わりように戸惑いながら、桜の頭は冷静にこの事態を分析していた。
この部屋はクリスの部屋か、それかクリスが出入りするような関係者の部屋か。
ひとまず知り合いに出会えて良かった。これで不法侵入や不審者だとかで捕まる心配が無くなった。
最悪の状況にならずに済んだ事を喜びホッと肩の力を抜いた桜にクリスが弱々しく声を掛けてきた。
「本当に、サクラさんですか…」
「はい。突然で驚かせてしまいましたが…」
桜が返事をした事でクリスはくしゃりと顔を歪ませ今にも泣きそうな顔をしながら一気に桜との距離を詰めてきた。
「 !? 」
目の前に突如壁が現れたように感じた次の瞬間、桜はクリスの腕の中にいた。
瞬間移動でもしたかのような速さで抱き締められビックリして後退ろうとする桜だが、細くなったとはいえクリスの腕はピクリとも動かなかった。
クリスはそのまま桜の存在を確かめるように、微かに震える腕が力強く桜を抱き締めた。
「…もう二度と会えないのかと思いました」
「………」
桜が元の世界に帰ったのはクリスと約束をしたすぐ後だ。
約束したのに突然行方不明とは、さぞ心配させただろう。
……でもちょっと反応が大袈裟すぎない?
クリスは前から桜に対して好意を隠さなかったが、今はさらに輪をかけて愛情が迸っている感じだし、桜を見る目の熱量が圧倒的に増している。
なんと言うか余裕がなく、切羽詰まったものを感じる。
「髪がこんなに短くなってしまって…。 それにこんなあられもない姿で。 異世界の女性は皆この様な格好をされているのですか? 」
「なーーー! 」
桜が異世界から来た事は誰にも言っていない。言ったところで誰も信じてくれないだろうし、そんな発言をして頭のおかしい奴だと思われなくなかったからだ。
それなのにクリスはどうして桜が異世界から来たと知っているんだろう。
「異世界って…」
「貴女は花人でしょう? 花人は異世界からやって来ますから」
「はなびと…? 」
聞き慣れない言葉。そして桜を異世界から来たと、さも当然の様に話すクリスに頭がついて行かない。
「あの、その……」
「すみません。いきなり言っても驚かせてしまうだけでしたね。どうも貴方に会えた喜びで興奮してしまって…。なにぶん二年ぶりですから」
「に、二年!? 」
もはやどこに驚いたらいいのか分からない。
一週間ぶりだと思っていたこの世界は、桜が姿を消してから二年もの歳月が流れていたようだ。
とにかく落ち着いて話しましょうと言うクリスの提案に頷きクリスから離れようとした桜だが、桜を抱き締める腕は一向に離れなかった。
「すみません。今この手を離したらまた貴女を失うかもしれないと思ってしまって…。あの、このままでもよろしいでしょうか」
全然よろしくない。
恋人でもない相手といつまでも抱き合っているのは如何なものか。
しかもさっきは流してしまったが、クリスにあられもない姿と言われた今の桜はTシャツ短パンの部屋着姿だ。女性は足の露出などしないこの世界で桜は痴女のような姿を晒している事になる。
むしろ抱き合ったままの方がこの姿を見られないからいいかもしれない。そう思いながらも桜はクリスの腕の中から離してくれるようにお願いした。
「……愛しい人の願いを叶えない訳にはいきませんね」
もはや誤魔化しようがない台詞を吐きながらクリスは桜を解放した。
だが完全に手を離す事は出来ずにエスコートを理由に片手は桜の手をガッチリと掴んでいる。……エスコートといっても今いる寝室から隣の続き部屋に移動するだけなのだが。
移動前に桜に「その姿はこちらでは刺激的すぎますので」とクリスの着ていた上着を貸してもらい(桜が着ると膝丈の上着が踝丈になった)、その姿を満足そうに見るとクリスはそのまま隣室のソファに桜をエスコートし桜を座らせると、クリスもその横にピタリとくっついて座った。もちろん手は握ったままだ。
「あの……」
「なんですか? 」
「ちょっと近すぎませんか? 」
パーソナルスペースという概念はクリスには無いのだろうか。
「すみません。ですが抱き締めるのは断られてしまいましたので、せめて貴女を感じられる距離にいたくて」
「……説明をお願いします」
もう何を言っても無駄だろうなと悟った桜が先ほどの話の続きを促した。
「はい。……と言ってもどこから話したらいいでしょう」
そう言って口を開いたクリスの話に、桜は何度も目を丸くして聞き入った。
この世界には花守と呼ばれる者がいる。
花守とはその名の通り花を守る者の事で、花とは異世界より来る者を指し、その異世界人は花人と呼ばれた。
そもそもこの国の興りは異世界から来た少女と、建国の王により戦乱の世を纏めあげたのが始まりとされる。
それからこの国には数十年、数百年ごとに異世界から来訪者が現れる。何故来訪者が現れるのか分かってはいないが、異世界人が存命中は国は豊かに富み、自然災害もあまり無く、安寧の時代を送る事が出来るとされ異世界人は丁重に扱われた。
その最初の異世界人は大きな花の木と共にこちらの世界に来たという事で、そこから異世界人は花人と呼ばれるようになったのだ。
その花人を守る役目として、花守が存在する。
最初に現れた花人より後、異世界人の血を引いた王族が公爵家に降嫁したことにより公爵家に花びらの痣を持った者が生まれるようになった。
不思議と痣を持つ者は花人を見つける事が出来、大抵その後花人と結ばれた事から花守と呼ばれるようになり、生涯花人を守るために傍に付き従う役割を担った。
その花守がクリスで、花人が桜だと言うのだ。
確かに桜は異世界人だし、そんな存在が他に何人もいるわけがない。だからきっとクリスが言っている事は事実なのだろう。
だが気持ちが追いつかない。だってそれが本当なら自分はもう元の世界に帰れないかもしれない。一度戻れたのはただのまぐれで、もう二度と帰れない可能性が高い。
それに花守が花人と結ばれるのが必然なら、今までクリスが桜に向けていた愛情は桜をこの世界に繋ぎ止めるための演技だったのではないか。公爵家という高位の貴族であるクリスが取り立てて特徴もない桜に言い寄ってくるのはおかしいと思っていた。いつか元の世界に帰ると思っていたから猛アピールもあしらえていたが、実際は桜だっていっぱいいっぱいだったのだ。桜の人生において、これほど高スペックで好みど真ん中なイケメンに言い寄られた事などない。うっかり是と応えそうになる事も何度もあった。
この切羽詰まった状況で、どうやら桜はクリスを好きだったのだと、ぼんやりと自覚した。
でなければクリスの自分への愛情が偽物だったと考えただけでこれほど胸が痛くなるわけがない。涙が滲みそうになるのを必死に堪える理由が分からない。
元の世界に帰れない。クリスの愛情が嘘だった。この二つの事実に頭も気持ちもぐちゃぐちゃだ。
「ーー、ーーラさん、サクラさん、」
ハッと我に返った桜が瞬きを一つすると目と鼻の先、あとほんの数センチで唇が触れそうな距離にクリスの顔があることに気づいた。
「っ! ク、クリスさんっ? 」
驚いて仰け反る桜の身体を反射的に抱きとめ、桜が離れていくのを拒むクリス。
「ち、近いですっ、」
「駄目です。今貴方はこの世界を、私を拒絶しようとしている。そんな事、私は許容できません」
クリスの瞳に自分の姿が映っているのが見える。それほど近くにクリスの顔があるのに、真剣なクリスの様子に桜は動く事がてきなかった。
「すぐに全てを受け入れてほしいとは言いません。 ですが否定しないでください。この世界も。私も」
「クリスさん……」
混乱する頭ではもう余計な事が考えられなくなったこの瞬間、桜は理性でなく本能で行動してしまった。
「──っ! 」
目の前のクリスの唇に自分の唇を重ねてしまったのだった。