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「ごめん、逢沢さん、ついでにこれもお願い」
「はい。いいですよ」
桜は同僚から受け取った書類をシュレッダーにかけながら、ぼんやりと先日の事を思い返す。
クリスから食事に誘われた帰り、桜は山熊亭に戻る道すがら落ちてくる一枚の花びらに気づいた。
思わず上を見ると、そこには大量に舞い落ちる花びら。
しかもその花びらはよく見るとーー桜の花びらだった。
この世界に桜の木はない。
それはこの一年を過ごして出した結論だったが、違っていたのだろうか。
瞬きをする事も忘れ花びらに見入る桜。だが次の瞬間強風が吹き、桜吹雪に襲われる。思わず顔を腕で庇いしばらくして目を開けると……一年前、桜がお花見の帰りに桜吹雪に襲われた場所に立っていた。
足元にはあの日落としたバッグが転がっており、携帯を確認がすると全く時間が経っていなかった。
白昼夢でも見ていたのかと戸惑う桜だったが、着ていた服はあちらの世界の服だったし、肩には弁当を入れていたバッグ。そして肩くらいの長さだった髪が胸まで伸びていたのはそのままだった。
やはり自分はあの世界で一年を過ごしたのだと激しく動揺する桜だったが、念願だったこちらの世界に帰ってこれたのだから良いじゃないかと無理やり納得した。
お世話になった女将さんに旦那さん。食堂の常連さんたちや近所で仲良くなった人たち。そしてーークリスさん。
誰にも何も言えないまま帰って来てしまったことが心残りたが、あちらの世界への行き方も知らないし、知っていたとしても行きたいとは思わない。
モヤモヤとした気持ちはあるが、帰って来れた喜びがじわじわと湧き上がる。
桜は喜びに頬を緩ませ、懐かしの一人暮らしの我が家へ帰った。
久しぶりに熱々のシャワーを浴び、シャンプーや石鹸を贅沢に使って全身を洗い、卵かけご飯を涙が出そうになりながら食べ、チューハイを飲んで泥のように眠った。
週末だった事で次の日はダラダラと起きて、一晩経って落ち着いた気持ちでこれまでの事を反芻してみた。
あれは一体何だったんだろう。
昨夜戻って来たあの場所に桜の木はなかった。確かにあの日、こんな場所に桜の木なんてあったかと疑問に思ったはずなのに戻って来てみれば桜の木は影も形もなかったのだ。
それにあの桜吹雪。行きも帰りもあの桜吹雪に襲われて移動したように思うが、それはどういう原理なのか。
淹れたてのコーヒーの湯気をぼんやり眺めながら考えてみるが、さっぱり分からなかった。
こんな話、誰に話したとしても信じてくれる人などいないだろう。桜だって他の人から聞かされたなら、よく出来た話だねと言うに決まってる。
これ以上考えてもどうにもならない。桜は頭を切り替えて明日からの事を考える。
まずは髪を切りに行かなければ。一日、二日でこんなに伸びるわけがない。桜は胸まで伸びた髪をショートボブにバッサリ切ってあちらの世界での事はいい思い出とし心機一転する事にした。
週明け会社へと出勤した桜に、同僚たちは切った髪を褒めてくれ、一年前と変わらないみんなの様子に心底ホッとして仕事についた。
それから数日。桜は仕事のカンを取り戻すまで多少もたついてしまうことはあったが順調に普段の生活を取り戻す事ができた。
ただこれまでと違うのは、ふとした時にあちらの世界の事を思い出してしまう事だった。有り得ない経験をしたのだから当然と言えば当然なのだが。
でもあれだけお世話になった女将さんと旦那さんを思い出す事は少ない。最近思い出す人物はたった一人だけ。
柔らかそうな金色の髪に優しく細められる青色の瞳。そしてその声は嬉しそうに桜の名を呼ぶのだ。
「ーーさん、逢沢さん? 」
「 !! 」
びっくりして桜が我に返ると目の前には隣の部署の折口秀明がいた。
「お、折口さん? ごめんなさい、ボーッとしちゃって」
「いや、いいんだ。全然動かないからどうしたのかと思って」
「ほんとに何でもないんです。疲れてるのかな 」
桜の言い訳に折口は「帰ったらしっかり休めよ 」と苦笑しながら自分の部署へと戻って行った。
「……はぁ」
あちらの世界を思い出すのはいいが、仕事はきっちりこなさなければ。
その日はもう何かを思い出すことはなく、そのまま仕事を終わらせ家へと帰った。
「フー……」
部屋着に着替えソファに足を投げ出して座り、バラエティーが流れているテレビを何となく眺める。
お腹空いた。お風呂入んなきゃ。
でも一度座ってしまうと動きたくなくなる。
もう少しだけ休んでからにしようと、桜がローテーブルに置いたチューハイの缶に手を伸ばそうとした時、誰かに呼ばれたような気がしてハッと顔を上げた。
「……気のせい? 」
一人暮らしの桜の部屋に他の誰かがいるなんて有り得ない。でも確かに誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
首を傾げつつ缶を手に取り、またソファにもたれながらチューハイをあおる。
すると、白い何かがひらひらと落ちてきた。
ホコリかと思い、それを手のひらで受け止める。でもそれはホコリではなく……
「……桜……」
落ちてきたのは一枚の桜の花びら。
何故。どうして花びらが。
手のひらの花びらを凝視していると突然、ソファがグニャグニャと抵抗のない何かに変化し桜の身体がソファに沈んだ。
「 !! え? え? 何っ!? 」
立ち上がろうとするがお尻が沈んで抜け出せない。桜は咄嗟に身体をひねって背もたれにしがみつくが、その背もたれもグニャリと変化し桜の全身はソファに飲み込まれる。必死にもがいて抜け出そうとするが、桜の思いとは裏腹に身体はどんどん沈んでいく。
まるで底なし沼に落ちていくようだ。
完全に桜の身体が沈み、どっちが上か下か、目を開けているのか閉じているのかも分からない暗闇の世界に桜は半狂乱に叫びもがくが、それも長くは続かず恐怖が頂点に達した桜の意識はプツリと切れた。
誰もいなくなった部屋ではテレビから聞こえてくる音だけがやけに響き、桜が落とした缶からは中身が流れ出てフローリングの床に小さな水溜りを作っていた。
「……ん、」
目を閉じていても強く感じる光。
もしかしてもう昼くらいだろうか。
桜は光に背を向けゆっくりと目を開ける。
「……ん? 」
うちのベッドの横にサイドテーブルなんてあったっけ?
寝起きの頭でそう疑問に思いながら、だんだんと開けた目の焦点が合ってくる。
そうして部屋全体を見渡し、慌てて身体を起こした。
「どこ、ここ……それに私、確かソファに沈んで……」
やっと気を失う直前の事を思い出して桜は顔面蒼白になりガタガタと震える。
自分の身に一体何が起こったのか。
そしてここは一体どこなのか。
桜はベッドを降りて恐る恐る窓に近づく。
「 !! 」
窓から外を見た瞬間、桜は雷に打たれた様に硬直した。
「……嘘、でしょ……」
窓からは赤い煉瓦の屋根の家が並ぶ街並みが見えた。
ヨーロッパの方で見られそうなお洒落な街並み。だがこれがヨーロッパの街並みでないことは桜はには分かっていた。ついこの前まで一年ほど暮らしていた街だ。桜が見間違うはずがない。
「また、来ちゃったの……? 」
桜はこうして二度目となる異世界へ来る事となった。