熱
翌日、数軒の店を廻って食料を仕入れた。
前回は、ファルがどんなものを食べたいのかまったく判らなかったので、とにかく目についた中で、匂いのないもの、嵩張らないものを選んで片っ端から買っていた。
……しかし、今回はそういうわけにはいかないな、と思案する。
あまり大量に買い込んでも、どうしたって食べきれなくて余ることになってしまう。いや、キースはそれでもぜんぜん構わないのだが、ファルがもったいないもったいないと騒ぐのが面倒くさい。それに、続けて大きな荷物を抱えていたら、クライヴやドリスが訝るだろうし。
キース自身への監視は怠らない使用人たちも、さすがにキースの部屋や持ち物をこっそりと検めたり、調べたりするようなことはしない。キースのしていることの大半は直接ユアンに繋がっているものなので、それはユアンの内情を暴こうとするも同然の行為であるからだ。彼らは、ユアンを不快にさせること、あるいは、不要だとすっぱり切り捨てられることを、最も恐れている。その忠義心は、鉄よりも堅固で揺るぎない。
考えてみれば、おかしな話だ。
ユアンの方向にのみ向けられたその忠義が、キースに対する陰鬱な敵意と拒絶となって跳ね返り、屋敷内で四方から締め上げようとする意志になっている。
しかし逆に、彼らの忠義が強固であるがゆえに、キースはある意味、安心も出来るのだから。
とはいえ、いろんな情報がユアンの耳に入って、変な関心を持たれでもしたら困る。キースが子供を拾って来たことくらいはもう知られているのだろうが、ユアンのほうからそれについて何かを問われたことはない。大したことではないと思っているのか、静観しているのかは、定かではないが。
──今のところはまだ、大丈夫。
だとしたら、キースが最大限に注意すべきなのは、ほんの少しの異変も気づかれないように、「いつもと同じ」状態を保ち続けることだ。表情も、態度も、小さな言動の一つ一つも。
そんなことを長く続けられるものじゃないというのは、よく判っている。長いことファルを手許に置いてはおけない。すでに次の勤め先については、目星もつけてある。
ファルをそちらに移動させて、その後関わりを持たなければ、ユアンだってすぐにそんなことは忘れてしまうだろう。ユアンが関心を持つのは、「キースの目が向いたもの」だ。ファルがどこで何をしようとも、キースがそちらを見もしなければ、ユアンにとってもその存在は無に等しい。
……だからこんなことをするのも、少しの間だけだ。
そう思いながら、キースは目についた店のドアに手をかけて開け、そこに入っていった。
「いらっしゃいませー」
と、若い女性店員が笑顔で言う。
店内には甘ったるい香りが至るところに充満し、透明なショーケースの中にずらりと並べられた色とりどりの菓子類が、華やかに客たちを出迎えていた。明るい装飾で彩られたその場所に、自分という人間だけが非常に浮いている、という自覚くらいはキースにもある。
ガラスの向こうの菓子はどれも見ただけで甘そうでくどそうで、相変わらずキースにはどれがどういう味なのか、それが果たして人が食べて本当に旨いと思うものなのか、さっぱり判らない。ファルは大喜びで頬張っていたが、あれはただ単に腹が減っていたからではないのだろうかと、今でも疑問だ。
「子供が……いや、女の子が好きそうな菓子というと、どれだ?」
どれでもいいからたくさん、ではなく、この中から小数を、ということになると、やっぱり出来るだけ好みに合った菓子のほうがいいのだろう。とは思うが、どれが好みなのかが判らないので店員に訊ねるしかない。ファルもせめて、あれが好きこれは嫌いとはっきり言ってくれればいいものを、「どれもこれも美味しい」と言われては、こちらだって判断のしようがないではないか。
「そうですねえ」
店員は少し可笑しそうにくすくすと笑ってから、キースと同じようにショーケースの中を覗き込んだ。
「子供さんでしたら、男の子でも女の子でも、人気なのはこちらの」
「子供じゃない。十七歳だから」
店員が、あら、というように目を瞬く。この店員に、自分はどのように見えているのだろう。まさか、「子供に土産を買う父親」などと思われているんじゃないだろうな。
ファルが、老けてる、と何度も言うから、ちょっと気になってきたじゃないか。
「十代の女性でしたら、カップケーキを買っていかれる方が多いですよ。小さくて軽くて、見た目も可愛らしいでしょう?」
「…………」
店員に手で示されたカップケーキを見て、キースはわずかに首を捻った。それが可愛いのかどうかもまったく判らないが、なんで食べ物に「可愛さ」が必要なのか、さらに理解できない。
「こちらのチョコレートも美味しいんですけど、ちょっと敬遠される方が多いですね。太るから、って」
「それをもらおう」
キースの即決に、店員は驚いた顔をした。「え、よろしいんですか」と確認してくる彼女に頷いて、財布を出す。
「ブクブクに太らせてやりたいんでね」
「はあ……左様で」
こちらを見る店員の目が、「そういう趣味か……」というような生温かいものになったことには、気づかなかったことにした。
***
夜半になって、窓ガラスが、外側から小さくコンと叩かれた。
すぐに立ち上がり、窓を開ける。身を乗り出すようにして外を覗き込んでみなければ、ファルを確認できなかった。小さな背丈は、ガラスに手を届かせるだけで精一杯であるらしい。
両腕を伸ばして引っ張り上げてやったが、ファルは意外と身軽に壁に足をかけ、半分以上自力で窓枠まで登ってきた。子猿みたいだな、という感想は、心の中だけに留めておくことにする。
音を立てないようにして、再びそっと窓を閉める。その間、ファルが屈んで何かゴソゴソしているなと思ったら、せっかく履いてきた靴を脱いで、手に持っているところだった。
「……ここは土足可なんだが」
というより、アストン屋敷の建物内において、靴を脱がなければならないのは、ベッドの上と浴室くらいなのだが。
「わたしの心理的な抵抗を減らすためだよ、気にしないで」
一昨日と同じく、白い寝間着と裸足、という格好になったファルは、そう言うと、「わあ!」と声を弾ませ、テーブルまで駆けていった。
「今日もたくさんあるねー」
上に載っている食べ物を眺めて、うっとりと両手を組み合わせる。
「この間よりも少なめだけどな」
「あっ、チョコ! 美味しそう!」
早速それを見つけて声を上げるファルを見て、少しほっとした。どうやらその選択に間違いはなかったようだ。
「食っていいぞ」
言ってから、キース自身は茶を淹れるために部屋の隅のワゴンへと向かった。一昨日のようにいっぺんに口の中に食べ物を詰め込んだら、窒息してしまいかねない。
「キースも一緒に食べようよ」
「おれはいらな……」
断りの言葉を出しながら振り返り、今か今かと目を輝かせてキースを待っているファルの姿を目にして、口を噤む。
しょうがないな、とため息をついた。
茶を淹れたカップをファルの前に置き、自分もソファに腰かける。テーブルの上に載せられているものをざっと見渡して、眉を寄せた。ファルの好みを最優先にして買い込んだそれらの中に、キースが欲しいと思うものが見当たらない。
「えーと、甘いのはイヤなんだっけ。じゃあ、サンドイッチは?」
「……香草が入ってるからいらない」
「あ、苦いから? じゃ、なんで買ったの?」
「店員に勧められた」
香草は若い女の子が好きだし、身体にもいい、と言われて買ったのである。こんな不味いものがどうして好きで、どうして身体にもいいのか、キースにはちっとも納得できないが、それを否定するだけの根拠も持っていなかった。
「うん、香りの強い草は、薬草になることもあるからね」
ファルがさらりと言う。
「そういうものに詳しいのか?」
「詳しいわけじゃないよ。厨房の手伝いをする時に、料理人の話をちょっとずつ聞きかじるだけ。それに、どの草が食べられて、どの草が薬になって、どの草が毒になる、とかそういう知識があると便利じゃない? 仕事がなくなった時、あちこちに生えている草があれば、とりあえず飢え死にすることはないわけだし」
「…………」
そこらに生えている草を引っこ抜いて飢えをしのいだ経験があるのか、と思うと、少し言葉に詰まった。この天界で、そんな生活をしている人間は、おそらくかなり少数だ。
キースが日常接している世界とは隔たりがありすぎて、上手に想像することすら出来ない。
「……おまえ、親は」
香草入りのサンドイッチをもぐもぐと食べているファルに問いかける。あっさりと返ってきたのは、「いないし、知らない」という、予想通りの答えだった。
赤ん坊のファルは、冬の寒い日、バスケットに入れられて、橋の下にぽつんと捨てられていたのだそうだ。
「ずっとギルノイ屋敷にいたわけじゃないんだろ?」
「うん。あそこは一年くらいかな。それまではまあ、いろんなところを転々と」
いろんなところ、の詳細を話す気はないらしく、むにゃむにゃと濁された。この細い手足や傷だらけの身体を見れば、どの勤め先でも、あまり優遇されていなかったことだけは窺える。
「屋敷の下働きばかりを?」
「他に住み込みで出来る仕事って、あんまりないんだよ」
なにしろ家なしだからね、と軽く言って笑う。
おそらく、保証人や身元引受人などのうるさいことを言わない屋敷ばかりを選んでいたのだろう。そういうところは慢性的に人手不足で使用人が居着かないところ、つまり労働条件の厳しいところだ。他に帰る場所のないファルは、一年中休みなしで働かせるのはうってつけだと、雇用主が悪辣であるほど喜ぶに違いない。
「汚れ仕事ばかりさせられてきたのか」
「まあね。けど、別に嫌だと思ったことはなかったよ」
「なんで」
訊ねたキースを、ファルはかえって不思議そうな顔で、首を傾げて見返した。
「だってそれって、生きていくために、必要なことじゃない?」
「…………」
一瞬、どう返せばいいのか判らなかった。
生きていくために必要なこと──
「誰かがやらなきゃいけないのなら、わたしがやるよ。みんなはどうしてそんなにイヤなのかな。どうしても、よくわからない」
「…………」
ああ、そうか。
それを聞いて、キースは腑に落ちた。
天界に住む人間は、大体誰もが、綺麗なもの、美しいものを第一とするものだ。その反動で、汚れたものや醜いものを激しく忌避し、嫌悪する傾向にある。
身分が高ければそういうものは見ないで暮らすことは可能かもしれないが、そうでなければそういうわけにもいかない。ファルの言うとおり、ある程度の汚れ仕事は、生きていくために必要不可欠だからだ。
だから特に、屋敷の使用人などは、かなりの確率で鬱屈を抱えている場合が多い。美しいものだけを見て笑っていられる人間の傍らで、その生活のために自分のどこかを汚さなければならない現実を顧みて、忸怩たる思いを抱かずにはいられないのだろう。
その中で、我が身が汚れることも厭わずに、堂々と笑っていられるファルのような人間がいたら。
おそらく、内側に溜め込んだ怒りが、一気にそちらに向いてしまうのではないか。自分よりも下がいる、という安心もあるだろうし、そういう人間がいたら便利だという打算や思惑もあるだろうが、しかしそれとは別に、どうしても軽蔑や腹立ちが抑えきれない。
それらの入り混じった複雑な心情が、ファルに対する疎外や暴力という形をとって出てくる──そういうことなのかもしれない。
ファルとキースは、深いところで、よく似ている。
そして、根本的なところで、まったく違う。
キースは口を引き結んで、ファルを見つめた。生まれた時から庇護者もおらず、なんとか生き抜いてきたこの小さな身体。
今までどれだけのものを背負ってきたのか。
それでもどうして、こんな風に笑っていられるのか。
……ん?
そこでふと、気がついた。
ファルはちゃんと食べてはいるが、その食べ方は、明らかに一昨日ほどの勢いがなかった。今日はそんなに空腹ではない、ということなのだろうか。いや、そんなことはないよな。
「おまえ、なんか元気がないな」
「うん?」
ファルがこちらを向く。明かりが蝋燭の炎だけなのでよく判らないが、確かに一瞬、その目がふわりと頼りなさげに泳いだ。
「何かあったのか」
目許を引き締め、上体を前方に傾ける。使用人たちに苛められでもしたのか、と思ったが、すぐに打ち消した。今さらファルが多少の嫌がらせ程度のことを気にするとも思えない。
「…………」
ファルは何も答えず、じっとキースを見ている。いや──違う。キースではなく、キースの周りにあるという、「色」を見ている。
「うん、なんでもない」
少しして、ファルがにこっと笑って言った。どこか安心したような表情になって、またテーブルの上へと手を伸ばす。
「ファル」
「キースも食べようよ。このサンドイッチ、美味しいよ。そんなに苦くないし」
「…………」
何も言うつもりはない、という意志を感じ取り、キースは口を閉じるしかなかった。
──自分のほうは黙っていることばかりで、ファルにも余計なことを言うなと要求しているのに、こちらからあれこれと詮索するのは筋違いというものだ。
短く息を吐く。
「いらない」
「キースって、いかにも体温が低そうだから、こういうものを食べたほうがいいと思う」
「おまえは自分の心配をしろ」
「どれどれ……うわ、ほんとに冷たい」
いきなりこちらに向かって伸びてきた小さな手が、自分の右手をぎゅっと握ったことに、少々動揺した。キースは、割り切った関係の女以外に、こんな風に他人に接触された経験が乏しい。
「おい……」
「キース、血行が悪いんじゃないの? 氷みたいだよ」
少しでも血の巡りを良くしようというのか、キースの手をぎゅっぎゅと揉んだり擦ったりする。こんなにガリガリのくせに、ファルの掌は温石のようにぽかぽかしていた。こちらまで、熱が移ってきそうだ。
それは、酒を呑んで得る熱とは、まったく別のもののように思えた。
……あったかいな。
そう思ったのはほんの束の間のことで、キースはすぐにするりと自分の手を抜いた。
抜いた手を、そのままぽんとファルの頭に置いて、ぐりぐりと撫でまわす。
「髪がぐしゃぐしゃになる……」
とファルが不満そうにしているのが可笑しくて、噴き出した。普段からぐしゃぐしゃなのに、なに言ってんだ。
「……何かしんどいことがあったら、言えよ」
低い声でぼそりと言って、目を伏せる。
おれこそ、なに言ってるんだろう。もう少ししたら、すぐに放り出すくせに。こんなことを口に出す権利はないのに。
「──うん」
一拍の間を置いてから、ファルはこくんと頷いた。
「平気だよ。わたし、頑丈だからね」
「そんなこと言って、部屋でこっそり泣いたりしてるんじゃないのか」
「なに言ってんの、キース」
冗談めかして出したキースの言葉に、ファルはきょとんとした顔を上げた。
「わたし、泣いたことなんてないよ」
なんでもないことのように返ってきたその台詞に、頭に置いていた手が、ぴたりと動きを止めた。
目を見開いて、まじまじとすぐ前の少女を見やる。
……こいつは、なにを言ってるんだ。
きっと苦難続きであっただろう、今までのファルの人生。しぶとく逞しく生きてきたとはいえ、つらいことや悲しいことがなかったはずはない。むしろ、人の数倍はそういう思いをしてきたはずだ。
なのに、ここまではっきりと、「泣いたことがない」と言いきってしまうって。
確かに、自分たちはよく似ているのかもしれない、とひやりとしたものを背中に感じながら、キースは思う。
──ファルもどこか、人として欠落したところがある。