手の中の鳥
──退屈なパーティーだった。
この手合いのものを楽しいなどと思ったことは一度としてないが、今夜はひときわ苦痛なほどにつまらなかった。
一応手にグラスを持っているものの、その中の透明な液体に口をつける気にもなれない。
ひたすら時間が過ぎるのを我慢しているだけというのは、こんなにも忍耐力を必要とするものかと、再認識してしまったくらいだ。
煌びやかな広間の隅の、なるべく人の目に触れにくそうな壁際に立って、キースはひそかにため息をついた。
これで本当にただ立っているだけでいいのならまだ楽なのだが、情報を収集するという目的があって来ている以上、完全に頭を空っぽにするわけにもいかない。
空気のように目立たない存在でありながら、周囲の雑談に耳を澄ませ、全体を見渡しながら人々の動向を観察するのは、案外と骨の折れる作業だった。
「よう、キース。こんな場所で会うとは珍しい」
キースは、声をかけてきた男のほうをちらりと見てから、すぐに視線を前方に戻した。
かなりあからさまに無視をしたにも関わらず、相手のほうはまったくお構いなしにすたすたと歩み寄ってくると、馴れ馴れしくぽんと肩に手を置いた。
「なんだよ、そうイヤそうな顔をするなって」
「イヤそうな顔なんてしてない」
そんな顔をしてわざわざ喜ばせてやるほど、キースはこの男に特別な感情を抱いていない。友情なんてものはもちろん、好意も嫌悪も何ひとつ覚えたことはない。ただ、このニコニコした顔と、イーセンという名前を「知っている」、それだけだ。
手にグラスを持ったまま、もう片方の手はズボンのポケットに突っ込み、何を考えているのか判らない無表情を、どことも判然としない場所に向ける。そうやって、またもとの空気のような状態に戻ろうとしたキースを、イーセンは肩に置いた手にぐいと力を入れて、強引に自分のほうへと向けさせた。
「そんな冷たいこと言うなよ、俺とお前は仲間だろ?」
「おれは仲間なんて持ったことはない」
変わらず口元に笑みを浮かべて、けれど目には少しばかり険の加わったイーセンを見返し、キースは素っ気なく返した。
「俺もお前も、ユアン様に仕える身だ」
「だからって、仲間じゃない。おまえだって、おれのことを仲間だなんて思ったことはないだろう?」
淡々とした口調でそう言うと、イーセンの笑いが口許を歪めた皮肉っぽいものになった。
「……そういう顔をすると、性格の悪さがバレるぞ、イーセン」
キースは興味なさげに忠告した。
おそらくイーセンを知る人間の多くは、この男のことを「善人」だと思い込んでいる。少し垂れた目が柔和なイメージを相手に抱かせるし、普段のイーセンは男女関わらず、人当たりのいい態度で接するからだろう。
イーセンが実は、かなり計算高く、酷薄な性格だということを知っているのは、キースを含め、ごく少数だ。
「大きなお世話だよ」
払い落とすように言ってから、イーセンはふんと鼻を鳴らした。
「……ま、そうだな。実際、俺とお前は仲間なんかじゃない。なにしろお前は、『アストンの犬』だ。天の一族に仕えてきた歴史の長さも、ユアン様からの信頼の深さも、俺なんて到底太刀打ちできるもんじゃないからな」
「…………」
イーセンがキースを見る目には、軽蔑と羨望が複雑に入り混じって浮かんでいる。「アストンの犬」に対する軽蔑、そして、ユアンから特別待遇を受ける立場への、どうにもならない嫉妬と憧憬だ。
そういう感情を他人から向けられるのは別に珍しくもなんともない。これが「憎悪」という形に変わっていくのも、何度も目の当たりにしてきた。
……イーセンがそうなるのも、いずれ時間の問題だな、とキースは冷静に考えた。
ほとんどの人間は、ユアンと関わる時間が長くなるにつれ、崇拝の度合いが強くなっていく。激しい角度で一人の人物に傾倒する人間は、その強すぎる感情を持て余し、それとは正反対の感情を周囲の誰かにぶつけて撒き散らすことで、なんとか折り合いをつけようとするものだ。
その対象になりやすいのが、「最もユアンの近くにいる」とされているキースである、というだけのこと。今さら気にしたって、しょうがない。
「今夜お前がここにいるのも、ユアン様からのご指示があったからなんだろ? でなきゃ、お前がこんなパーティーになんて出てくるわけがないもんな」
イーセンの口調は、ねちねちと絡む色合いが強くなりつつあった。底光りをする鳶色の瞳はほの暗さを帯びている。もういい加減、面倒くさくなってきた。
「──それをおれに聞くのか? おれが誰のどんな意図のもとに動いているか、知りたいか、イーセン」
故意に冷たい声で訊ねると、イーセンはびくっと身じろぎをして、反射的にぱっとキースの肩から手を離した。
さっきまで酒のせいでほんのりと血色のよかった顔が、一瞬にしてさっと青くなる。動揺したように周囲にきょろきょろと目をやって、特に誰もこちらを注目しているような人間がいないことを確認し、ほっと息をついた。
「いや……悪かった。失言だ」
目を逸らし、取り繕うように襟を手で直しながら、バツが悪そうに言う。余計な干渉をした結果、これまでにあっさりと排除された数多の人間たちのことを思い出しているのか、ぶるりと小さく身震いをした。
「キース、俺は別に……」
「……もう、いい」
言い訳めいたことを口にしかけたイーセンを遮って、キースは再び前方に視線を向けた。
今の会話にも、イーセンにも、彼の考えていることにも、まったく興味が湧かない。邪魔をしないで放っておいてくれれば、もうそれでよかった。
キースが口を閉じて黙り込んでしまっても、イーセンはすぐにその場を立ち去らなかった。何を言えば自分の失態を帳消しに出来るのかと、考えあぐねているようだ。
それが、ふと、何かに気づいたように安堵した表情になった。
「あ──ああ、綺麗なご婦人が、お前をちらちらと気にしてるぜ。じゃ、俺は退散するから、上手くやれよな」
どうやら、その白々しい台詞で、この状況の締めくくりをしようと思ったらしい。わざとらしい笑いを浮かべ、ぽんと背中を叩いて、片目を瞑る。他人からすれば、さも親しい友人同士のやり取りのように見えるのだろう。
さらにお節介なことに、キースのもとを離れたイーセンは、「ちらちらとキースを気にしていた綺麗なご婦人」に近づいていって、ひそひそと耳打ちをした。彼女の目が途端にぴかぴかと輝きだしたのを見れば、何を言っているのかは大体予想がついて、キースは息を吐いて天を仰ぐ。一体、なんの嫌がらせだ。
いそいそとこちらに寄ってくる女性の姿を目に入れながら、早くもこれから交わすことになる実のない会話を思い浮かべてうんざりした。あとで文句を言ったところで、イーセンはきっと、「情報収集に協力してやっただけ」と言い張るのだろう。あのテの女性の話は、仕事どころか、時間の浪費にしかならないのだが。
しかしここで露骨に逃げるわけにもいかない。これからのさらに退屈な時間を耐えるために、キースは今までただ手に持っていただけのグラスに、ようやく口をつけた。
嘘と虚栄だけで塗り固められた場所。
……ファルがここにいたら、どんな「色」を見るのだろう、と考えた。
***
夜更けになって屋敷に戻ると、出迎えの顔ぶれの中にファルもいた。
クライヴ、ドリスと並んで、「おかえりなさいませ、旦那様」と控えめな声と態度で頭を下げている。昨夜キースの脛を蹴りつけておいて、よくもここまでしれっと出来るものだなと感心した。
……そんなに心配することもなかったか。
内心でそう呟いて、そっと息を吐く。
単純明快でいかにも馬鹿っぽい子供にしか見えないファルだが、実際のところ、けっこう頭も勘もよかったし、世間知もあった。あれこれと疑問は抱いているようだが、それを上手に隠して、表面上「何もわかりません」という顔をすることに長けている。クライヴやドリスの前では、徹底してキースと目を合わせようともしない。
見た目が完全に子供なので、つい先入観を抱いてしまうというのもあるかもしれないが、それにしたって、ここの使用人たちを相手に、よく立ち回っているものだなと思う。
ファルは、キースが考えていたよりも、ずっとしっかりした少女であるようだった。人を見る目はそれなりにあるほうだと自負していたが、良い方向でそれを上回っている。
これなら、もう少しは、大丈夫だろうか。
キースがファルをこの屋敷に連れてきた理由──それは一言で言ってしまえば、「緊急避難」とでも呼ぶべきものだ。
背が低く、肉なんてどこにあるのかと思うほどに痩せていて、せっかくの蜂蜜色の髪はパサパサで艶もなく、陽に焼けてはいるのに顔色が悪い。確認したのは腕だけだが、おそらく身体じゅう、いろんなところに傷がある。とても十七歳とは思えない未発達な身体は、どこからどう見ても、栄養失調寸前の子供だった。
食事も満足に与えられず、どうやら頻繁に暴行を受けているらしい形跡がある。
能天気なファル本人がどう考えていたにしろ、あのままギルノイ屋敷に置いておけば、いずれ遠からず倒れるか死ぬだろうことは、キースには簡単に予想がついた。かといって、他家の内情においそれと口出ししたり踏み込んだりすることは出来ない。上流には上流の了承事項というものがある。
だから、少し──ほんの少しだけ。
ファルをこの屋敷に置いて、それからすぐにどこか別のところに移そう、と思ったのだ。他人の目には、気まぐれで拾ってきた子供を、また気まぐれで放り出す、というようにしか見えないように。十日か二十日、それくらいなら大丈夫だろう。
──それくらいなら、ユアンだって特に関心を持たない。
その短い間に、なんとかもう少し栄養を取らせて、体力を取り戻させてやればいい、とキースは考えた。
アストン屋敷の使用人たちはみんな、キースを監視することに忙しくて、憂さ晴らしに子供を痛めつけるような暇も余裕もない。居心地はあまりよくないだろうが、食事と睡眠くらいは確保できるはずだ。
つまり、とりあえず目前に迫った危険を避けるための、一時的な措置である。救い出した、なんてものじゃない。本当に救うというのなら、こんなやり方はすべきではなかった。キースは、ファルのこの先については、なんの責任も負えない。
ただどうしても、放っておけなかっただけ。
本当は、ファルのような人間を、自分やこの屋敷に関わらせるようなことはしてはいけないと、キースだってよく判っている。
……だから、もう少しだけ。
***
書斎兼執務室のソファに座って、酒の入ったグラスを傾ける。
明かりは灯していないが、カーテンを開け放った窓からは、白い月光が射し入っている。そちらにぼんやりと目をやりながら、キースは口中の液体を喉に流し込んだ。
喉を通った瞬間に生じた熱は、胃の中に落ちて、じわりと全身へ広がっていく。キースはどんなに強い酒でも酔うことが出来ない体質なので、この束の間の熱を得るためにだけ呑むようなものだ。
酔っ払ってふわふわと浮かれることもない。面白いものを見つけて騒ぐこともない。他の連中のように笑ったり喜んだりすることもない。
そもそも、この人生を楽しいものだと思ったことがない。
ただ、生きているだけ。
我ながら、つまらない人間だ。
──自分の命さえ、自由にならない。
それはもう、ユアンのものだと決められている。
「…………」
グラスを持った手を止めて、キースは窓の外をじっと見つめた。
ガラスの向こうは真っ暗だ。今夜はきっちりと鍵をかけてあるから、誰もここには入って来られない。もともと密談のための部屋なので、閉め切ってしまえば声が外に漏れる気遣いはないし、この屋敷で最も侵入も盗聴も難しいように作られている。
ファルのやつ、明日はちゃんと来られるかな。食い意地が張ってるから、忘れてるってことはないだろうけど。今度は靴を履いてくるんだろうな。
眠くなってきたのか、思考が散漫になりだした。もう一度酒を口に含んでから、ゆっくりとソファに身を沈める。
他の人間の目がある時は、キースはファルのほうに極力視線を向けないようにしているので、同じ屋敷にいながら、あの顔をきちんと見られる機会はほとんどない。あれだけ食べて、少しは顔色が良くなったか確認してみたいのだが。どれくらい食わせたら、ファルの頬っぺたは肉がつくようになるんだろう。
昨夜摘んだ時の感触を思い出して、指を動かしてみる。一応あれでも、柔らかかったな。子供だからか。いや違った、子供じゃないんだった。判っているつもりでも、あの外見にすぐ騙されそうになる。
──なのに、夜這い、だって。
ちょっと力を入れたらすぐに折れそうなくらいに細くて、正直言って、どこが胸でどこが腹なのかさっぱり見分けがつかないようなあの体型で、夜這いって。
思い出したら我慢できなくなって、ぶはっと噴き出した。
あれで本人は、「自分は若くて溌剌とした十七歳の女の子」とか考えているらしいのが本気で笑える。中身は確かに年齢相応にしっかりしているとは思うが、ファルの場合、そんな心配をしなければいけないのは、よほど特殊な嗜好の持ち主が相手の時だけだろう。
しばらくの間、くっくっくと笑い続けてから、深い息を吐き出した。
笑ったことで、身体の中に溜まっていた澱んだ何かが、少しは消えてくれたらしい。ここ数年感じたことがないくらい穏やかな気分になって、目を閉じた。
たとえば、自分のすぐ目の前に翼を傷めた鳥がいたら、なんとかまた飛べるようにしようと思うものじゃない?
頭の中に、そう言った時のファルの顔と声が浮かぶ。
あの時、おれは思わない、と答えたが、そうでもなかったな。自分が今やっていることは、まさしくそれと同じだ。翼を傷めた鳥に餌と寝床を与え、また飛ばしてやろうとしている。
違うのは、ファルは誰に対してもそう思うのだろうが、キースはそうではない、ということか。
キースは他人に関心を抱かない。昔から、ずっとそうだった。誰にどう思われたって構わない。こちらに向けられる感情が何であっても、気にしたことはない。
憎まれようが、恨まれようが。
キースを縛りつけるものは、今も昔も、ただ一人だけだ。
そんな自分が、手の中に鳥を入れるなんてことは、きっと許されないのだろう。早く両手を開いて、空に放してやらないと。
もう少ししたら。
眠りに引き込まれながら、もう少し、もう少し、とそればかりを考えていることに、キースは気づいていなかった。
明日は、ファルに何を食わせてやろうかな……