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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
72/73

帰還



 いきなり空から大量の石礫が降ってきて、デンは仰天した。

「こ、こりゃあ、一体──」

 おろおろと狼狽するばかりのデンの身体を、ゴウグが力ずくで引きずって、無理やりテントの中へと押し込む。

 危険なほどの大きさの石の塊のほとんどは呪われた森の中に落下したが、小さな破片はこちらにまで飛んできたようだ。丈夫な革で出来た天幕の上に、バラバラと音を立てて降り注いだ。

 繋いである馬が嘶いて蹄を地面に打ち鳴らす音、森の中からは化け物のなんとも形容しようのない啼き声が聞こえてくる。地の底から響いてくるような低く不気味な合唱に、デンはぶるぶる胴を震わせた。

 エレネもゴウグも、不安そうに顔を見合わせている。

「……どうやら、爆薬を使ったらしいね」

 テントの天井に目をやりながら眉を寄せて、クイートが言った。

「ば、爆薬?」

「念のためにと渡しておいたんだけど。キースにそれを使う決心をさせる何かがあった、ということかな」

「何か……」

 あんた子供に何をさせようとしてたんだ、という腹立ちよりも心配のほうが上回り、デンも同じように上を向く。

 爆薬など使って、ファルとキースは果たして無事なのか。いやそれよりも、そんなものを使わざるを得ないような危険なことが、二人の身に降りかかっているのだろうか。

 しばらくすると、音が止んだ。たまらなくなって、すぐにテントの外へと飛び出す。

 草原のあちこちには、白っぽい石が広範囲で飛び散っていた。

 馬はまだ興奮しているが、ぶるるると身体を大きく振っている様子を見るに、さしたるダメージはないらしい。森の中は惨憺たる有様だろうが、枝を広げた木々が、多少は化け物たちを守る役割を負ってくれたかもしれない。

 目の前の光景に、デンは言葉を失った。絶句しているエレネとゴウグも、きっと同じような気持ちでいるのだろう。

 話には聞かされていたことだが、こうして自分の目で見て、ようやく実感した。


 空には、もう一つの世界があったのだと。


 雲の上に浮かぶ建造物。破壊されたのは、おそらくその一部だ。そうでなければ、どうして空からこのようなものが落下してくるだろう。信じる信じないの問題ではない。一面に散らばる人工物が否応なく突きつけてくる現実を、ただ呑み込むしかなかった。

 デンは頭上を振り仰いだ。

「……あ」

 口を丸く開けて、言葉を発した。小さな目も、いっぱいに見開かれる。

 震える手で、空の一点を指し示した。


 ただ白い雲に覆われていただけのその場所に、人の姿が見える。


 まだ、ここからは遥かに遠い。けれど、見える。複数の人が空に浮いている。彼らにはちゃんと手足があり、おまけに翼までがある。背中から長く伸びた白い翼は優雅に上下し、陽射しを浴びて眩く輝いている。

 浄い光の集合体が、雲を抜け、天上から現れた。




 ──同じ頃、リジーのある家の中で。

 分厚い書物を抱えて廊下を歩いていたニグルが、ふと何かに気づいたように顔を上げた。

 周りを見回し、自分の他には誰もいないことを確認して、首を傾げる。

 それから、近くにあった窓に目をやって、そこに近づいていった。

 ガラスの向こうはいつも通りの平和な眺めがあるばかりで、特に変化はない。

 見上げてみても、くすんだ青い空が広がっているだけだ。

 何も見えない。

 しかしニグルは、そこに大事なものを見つけたように、穏やかに微笑んだ。




 ──また、ヨレイクの国、大陸の東端の崖の上では。

 黒くなってしまった墓標の傍らで、博士が空を見上げていた。

 打ち寄せる波音を聞きながら、痩せ細った身体を真っ直ぐにして、老人はしっかりと大地に足を着いて立っている。

 愛しい恋人の頭を撫でるように片手を墓石の上に置き、皺に埋もれかけた目を優しく細めた。

 ずっと遠くを眺めているようなその瞳は、過去の思い出を見ているわけではなかった。




          ***



 落ちてくる瓦礫と吹きつける熱風が、ようやく収まった。

 雲の下に出たキースは、真っ先にファルの姿を探した。

 まだ風に乗って流れてくる白い煙と、周囲を囲むように飛んでいる天人たちの翼とで、その先がよく見渡せない。ファルは無事なのか、爆発の衝撃は受けずに済んだのか、飛んできた石が当たったりはしなかったのかと、焦れる気持ちで目線を動かす。

「ファル! ファル、どこだ?!」

「ここだよ、キース! 無事?!」

 返事が聞こえて、ほっとした。彼女のほうでもキースを探していたらしい。すぐにでも駆け寄っていきたいが、なにしろ今の自分たちは空中に浮かんだ状態で、それも天人たちによって持ち上げられているわけだから、自由に身動きできないのが非常にじりじりする。

 声がしたほうから、キースと同じく両側から天人に抱えられたファルが、姿を現した。

 血の跡と痣はあるが、新たに負った傷はないようだ。よかった、と安心し、手を差し伸べる。ファルも、顔や腕から出血はあるものの、さほど酷い怪我はないキースを見て、強張った顔をようやく綻ばせた。

 ファルの手もこちらに伸ばされて──


 が、二人の指先が触れ合う直前で、互いの身体が後ろへと引かれた。


 近づきかけていたキースとファルの間の距離が、また離れる。

 ファルが驚いたように目を瞠った。キースは再び厳しい表情になって唇を結び、両側の天人たちに目をやった。

 キースは男の天人二人に、ファルは女の天人二人に抱えられている。

 彼らの青白い顔が、どれも固く冷たいものに覆われているような気がして、背中がひやりとした。

 負の感情はなくても、慈悲だけで成り立っている生き物だというわけでもない、ということか。

「……なんのつもりだ?」

 訊ねても、彼らからは返事がない。もう一度、今度はもっとはっきり詰問しようとしたところで、羽音を立てて飛んできた若い女の天人が、キースとファルの間に入った。

 彼女はキースと向き合い、静かな声で言った。


「ファルは、私たちと一緒に行きます」


 一瞬、息を呑む沈黙があった。

「──何を言ってる」

 ややあって、キースの口から低い声が出る。

 すぐ前にいる天人に隠れてしまい、ファルの姿も顔も見えない。それが余計に、キースの焦慮と苛立ちを煽った。と同時に、底なしの恐怖が腹の底から湧き上がってきた。これまで経験した中で、最大の恐怖心だ。知らず、額に冷や汗が滲んだ。

 天人たちはみんなか細く非力だが、両腕を取られて足も宙を浮いている今のキースのほうが、彼らよりももっと非力な存在なのだと、今になって気づく。二人の天人に手を離されたら、キースはなすすべもなく地上に落ちるしかない。

 ──このままファルを連れていかれたら、もう決してこの手に取り戻せない。

 空の上で、翼を持たないただの人間は、天人に抗う手立てを、何ひとつ持たないのだ。


「私たちを、あの白雲宮の牢獄から救い出してくれて、ありがとう。お礼を申します。鎖から解き放たれて、私たちはやっと自由になれた。──けれども、ファルをあなたにお渡しするわけにはいきません」


 白く薄い衣だけを身にまとい、天人は儚げな細面をキースに向けて、そう言った。そっと壊れ物を置くような口調で、しかし決定事項を告げるように、はっきりと。

 自由の身になった今もなお、その濡れたような瞳は悲しげな色を湛えている。劣悪な環境に置かれ続けて、身体が弱っているのか、少し苦しげな息を吐いた。

「……どうして」

「どうして?」

 唸るように絞り出したキースの問いに、むしろ不思議そうに首を傾けて問い返す。

「あなたが、あの鉄の扉を開いてすぐ、私たちに問いただしたことを、覚えているでしょう? それに対する、私たちの答えも」

「……っ」

 キースが歯を喰いしばった。



 あの重い鉄の扉を開け、思い出すだけでも胸糞の悪くなりそうな獄に足を踏み入れて、キースが真っ先に天人に訊ねたこと。

 ──どうすれば、天人は地上で長く生きられる?

 それだけが、知りたかった。キースはその答えを求めて天界に向かい、天人を見つけ出したというのに。

 天人たちは互いの顔を見合わせ、困惑したようにこちらを見返しただけだった。

 ……そんな方法は知らない、と。



「あなたと地界に行っても、この子は幸せにはなれません。天人は、空でしか生きられない運命です。ファルは私たちと共に参ります。地上まではお送りしますので、あなたは一人でお帰りください」

「嫌だ」

 キースは目の前の天人を睨みつけ、吐き捨てるように返した。


 ここまで戦ってきたのは、一緒に未来を生きるためであって、もう二度と手の届かないところへ行くのを見送るためじゃない。

 天人も答えを知らないというのなら、他の道を死に物狂いで探して見つけ出すまでだ。


 キースの返事に、天人はわずかに眉を下げた。

「……どうか、困らせないでください。私たちはあなたに感謝しております。出来れば、納得の上で」

「納得して、笑顔で別れの挨拶でもしろっていうのか。絶対に御免だ。お前たちの自己満足になんて付き合っていられるか。ファルはおれと地界に戻る」

「そして地界の権力者たちの争いに巻き込ませる、と言うのですか? 翼を失ってもファルは天人の娘。地上においては、禍の種にしかなりません。この子が、私たちのようにどこかに閉じ込められ、虐げられて苦しい思いをすることになるのを、黙って見過ごすわけにはまいりません」

「そんなことにはさせない」

「なぜ、言いきれるのですか。それはあなたの思い上がり、傲慢というものではありませんか? あなたもやはり天界人、地界人と同じなのですね。ファルは私たちの仲間、私たちの同胞です。天人ではない種と交わって生きていけるはずがありません」

「お前こそ、なぜそんなことが言いきれる。そっちのほうがよほど傲慢だ。翼を持たない人間のことを、無意識に見下している。ファルは天界と地界で、ずっと人と交わりながら生きてきたんだ」

「その結果が今のこの姿ではないですか。痛めつけられ、傷つけられ、髪も、翼も奪われた。私たちと同じく、この子もずっと尊厳を踏みにじられてきたのでしょう? 私たちはもう、人というものを信じられない──」



「でも、わたしは信じてるよ」

 キースと天人の言い争いの中に、のほほんとした声が割り入ってきた。



 天人が驚いた顔で、後ろを振り返る。彼女が身体をずらしたので、ようやくキースにも翼に隠れていたその姿が見えるようになった。

 ファルは少し困ったように笑っていた。

「ファル──」

 天人がうろたえたように名を呼んだ。

「ごめんね、わたしのこと、心配してくれているんだね。でもわたしは、みんなと一緒には行かないよ。キースと地界に帰る」

「……で、でも」

 迷いのないファルの言葉に、天人のほうが眉を下げる。

 もともと線が細いので、そういう表情をするとより一層頼りなさげになって、風でも吹いたら飛ばされそうだ。

「ごめんね」

 ファルはもう一度言った。

「わたしはキースと一緒に地界で生きていく。これからみんながどこに行くのか、どこに新しい安住の地を見つけるのかわからないけど、たぶんそこに、わたしの居場所はない。翼を失くして飛べなくなったわたしは、もう空の上では生きていけない」

「そんなこと──そんなことはないわ、ファル。あなたのことは私たちがきっと守ります。だから」

「わたし、守られてばかりではいたくない」

 強い口調できっぱりと言ってから、目許を緩ませて天人を見る。

「以前、地界で会ったね。あの時よりもわたし、少しだけ強くなったよ。これからも、強くなるように頑張る。だから信じて。キースのことも信じて。大変なことはあるかもしれないけど、わたし、キースと一緒に、地界で未来を見つけていきたいの」

「…………」

 天人は寂しげな眼差しでファルを見つめた。他の天人たちも全員、戸惑ったような表情をしている。そんな返答が来るとは、思ってもいなかったのだろう。

 ファルが、今度はキースのほうを向いた。

「あのね、キース、大丈夫」

「え……」

 キースも戸惑った。何に対して「大丈夫」なのか、判らない。

「キースがわたしに言わなかったこと、なんとなく想像がついてるけど、たぶん大丈夫。両方の翼がなくなって、やっと力が整った気がする。だから大丈夫」

「…………」

 よほどキースが理解不能という顔をしていたのか、ファルは「えーとね」と一生懸命考えはじめた。腕を動かし、すぐ前にある天人の翼を指し示す。


「──うん、翼。見えなくても、わたしの背中には翼があったでしょ? 天人の力の源である翼は、たぶん、地上にいるとその力を空中に放出しちゃうんだと思う。風船からしゅーっと空気が漏れちゃうような感じ、って言えばわかる? 空に上がるとその空気が勝手に補充されるんだけど、地上だとだんだん萎んでいく一方なの。だから、疲れちゃって眠くなるんだよね。天人の力が全部抜けちゃうと、眠ったまま目が覚めなくなるのかもしれない。でもわたしには、もうその翼がない。片翼だと力の均衡をなくして消耗しちゃうけど、両方の翼がなくなったらすごく楽になった。翼を失って、そのことがはっきりとわかった。だからきっと、大丈夫」


「……そうなのか?」

 声が上擦りそうになるのを抑えるのに苦労した。それが本当ならどんなにいいだろう、と思う。翼なんてあってもなくても構わない。ファルが元気でいてくれさえすれば、それでいい。

 確認するように天人のほうを向くと、彼女は困惑した表情で、ファルとキースとを交互に見た。

「さあ……なにしろ、両翼をなくすという感覚が私たちにはさっぱり判らないので……それに、自らの翼を切り離した天人なんて、見たことも聞いたこともありません。いろいろと常識を外れていて、どう考えればいいのか……ただ、私たちが地上にいると、力が抜けていくような感じがする、というのは確かですが」

 前例がなさすぎて判らない、ということか。天人自身にさえ、翼と天人の力についての深遠さは把握できていない。だったらやっぱり確実性はない。キースの不安は晴れないままだ。

「わたしが大丈夫といったら大丈夫なんだよ」

 なんでそんなに自信満々なんだよ、と思ったらちょっとカチンときた。これまでキースをずっと悩ませ続けていた問題だ。その重要性をこいつはちゃんと理解しているのか、と腹立たしくなってきて、自然と口から出る声も尖ったものになった。

「おまえな、ちゃんと真面目に考えてるか?『なんとなくそんな気がする』じゃなくて、もっとしっかりした根拠はないのか」

「だってなんとなくそんな気がするんだもん。翼のないキースには、いくら説明したってわからないよ」

「その説明からして不十分だと言ってるんだ。翼がないおれにも理解できるように話してこそ、説明と言うんだぞ。わかってるか?」

「またそういう面倒くさいことを……」

「おまえが適当でいい加減すぎるんだ」

「わかったわかった、じゃあ『なんとなく』じゃなくて胸を張って断言すればいいんでしょ。大丈夫!」

「大した胸でもないくせに」

「デリカシーない!」

 くだらない喧嘩に突入しはじめた会話に、唖然としていた天人は、とうとう笑い出した。

 青白かった頬にほんのりと赤味が差す。それを見て、ファルが表情を和らげた。どうやら、故意に軽い口調で話していたらしい。

 髪を短く切られ、細い身体のあちこちは痛々しいまでに傷だらけでも、ファルは確かに強くなった。

 眩しいほどに、綺麗になった。


「……ファルは、私たちの最後の子なのです」

 天人が口許にまだ微笑みを残したままそう言って、目を伏せた。


「天人は非常に数が少なくなりました。現在、生き残っているのは三十人ほど。いつしか子供も生まれなくなり、いちばん最後に生まれたのが、このファルです。ファルの母は、せめてこの子だけは未来へ送り出したいと、決死の思いで赤ん坊を連れて、白雲宮から逃げ出しました。ファルは私たちの最後の希望、最後の光だったのです。天界で一人きり、つらい思いもするだろうけれど、生き抜いて欲しかった……」

 天人はファルに優しく笑いかけ、その頬をそっと指先で触れた。

「天人は、このまま滅んでいくでしょう。天界からは遠く離れたどこかの雲の上で、私たちはひっそりと終末を迎えます」

 彼女の言葉に、他の天人たちも黙って頷いた。

 三十人ほどの天人は、男が三割、女が七割といったところだろうか。今話している天人が二十代ほどで最も年若く、あとはもう壮年の域に入っている。これで繁殖も望めないとなったら、残る道はひとつしかない。

 種の滅亡だ。

「──白雲宮のあの牢獄の中で、私たちは天界という世界が悲鳴を上げて軋んでいく音を聞いていました。あそこももう、限界が来ています。これからは植物も満足に育たず、動物たちも少しずつ減少していくでしょう。終わるのは、天人が先か、天界が先か……」

 目を閉じて、胸に手を当てる。

 天人の口からは、自分たち種と自分たちが作った世界を滅亡へと追いやった天界人への恨みの言葉は出なかった。だからこそ余計に、彼女の言葉のひとつひとつが、これから失われていく者たちへの鎮魂の哀歌のように聞こえて、胸を締め上げる。

「ファル」

 天人が目を開けて、再びファルのほうを向いた。

「……あなたは、地界で幸せになれる?」

 ファルはにこっと笑った。

「うん。なるよ。きっとなれるよ、キースと一緒なら。ううん、キースと一緒じゃないと、わたしは幸福を手に入れられない。それに──ほら、見て!」

 人差し指の先を、下へと向ける。キースと天人たちがそちらに視線を向けると、大きな森の外で、数人の人影が立っているのが見えた。



 そのうちの一人が、大きく手を振っている。

 おおい、おおい、お前たち、大丈夫かい、と声を張り上げているのはデンだ。

 あの気が弱くていつも背中を丸めながら遠慮がちに喋っていた男が、今はそんなことも忘れたかのように、大声を出して叫んでいる。

 ファル、キース、早く帰って来いよう、と高く挙げた両手を勢いよくぶんぶんと振っている。

 待ってるからなあ!



 天人が微笑んだ。

 ファルに顔を寄せ、祝福を与えるように、頭に唇を当てた。

「……私たちの愛しい子。希望の子。あなたの母親リィナも、とても強い人だった。そしてとても優しい人だった。あなたは母譲りのその強さ優しさで、私たちを救ってくれたのね、ありがとう」

 今度はキースのほうを向いて、笑いかけた。

「酷いことを申しました、ごめんなさい。あなたと一緒なら、ファルはきっと大丈夫でしょう。お二人を地上まで送り届けます。ファルとキース、あなたたち二人に、私たちの力の限りの加護を──」

 天人たちの翼がひときわ強烈な輝きを放つ。迸る光輝はひとつひとつが混じって重なり、巨大な光の球体となった。その中央に、キースとファルがいる。二人は天人に抱えられながら、白い光に包まれ、ゆっくりと下降していった。



 下では、おおい、とデンがまだ必死に手を振っている。

 クイートは少し笑い、エレネは涙ぐみ、ゴウグは顔を真っ赤にして。

 みんなが手を振っている。



「ただいま!」

 ファルも大きく手を振り、弾けるように笑った。

 ──ああ、この顔だ、とキースは思う。

 おれが、これからもずっと見ていたいもの。




          ***



 地上に降り立って、空へと昇ってゆく天人たちを見送ったキースとファルの許へ、一番乗りで駆けつけてきたのはデンだった。

「ファル! お、お前さん……よく帰ってきてくれたな、大丈夫か、こんな傷だらけになって、痛いだろう、可哀想になあ、大丈夫か」

 何度も「大丈夫か」という言葉を挟みながら口を動かすデンはすでに涙声だ。エレネはファルの姿を一目見るなり、馬車へすっ飛んで行き、薬や包帯を山ほど抱えて戻ってきた。ゴウグは「ちくしょう、こんなひでえことしやがって」と歯軋りしながら怒っている。クイートは、この男にしては珍しいくらい素直に、「無事でよかった」とぽつりと言った。

 一通りそれが収まると、空白が開くように無言が落ちた。

「で、そのう……ファル」

 デンが遠慮がちにちらちらと視線をファルの後ろに向けながら、おそるおそるというように切り出す。他の三人も似たようなもので、一斉に視線が「見たことのない長身の男」へと集中した。

「──キースは?」

 キースとファルは目を見交わした。

「えーと……」

 と、ファルがこりこりと自分の頬を指で掻く。

「とりあえず……どこから説明しようか?」




 そこからの騒ぎは省略するが、とにかく全員が驚いた、ということだけは確かだ。

 特にキースもファルも子供だと信じて疑っていなかったデンとゴウグは、ファルが十七歳だということも、容易には受け入れられなかったらしい。デンは「ふ、二人とも……大きくなって」と言ったきりぐるぐると目を廻して混乱していたし、ゴウグに至っては泡を吹きそうになっていた。

「で……で、お前はいくつなんだよ」

 震える指を突きつけて訊ねられたので、キースが「二十三」と素っ気なく返したら、ゴウグはまた目を剥いた。

「俺より年下?!」

 クイートまでが一緒になって叫んでいる。

「そのわりに老け……いてっ!」

「二十三の男があの子供の姿……てっ!」

 余計なことを言おうとした二人に対して、容赦なく鉄拳制裁を加えてやる。ファルが横から、「キースは難しい年頃なんだから、子供扱いしても年寄り扱いしても怒るんだよ」という、これまた余計な忠告をした。

 ちなみにエレネは、黙々とファルとキースの手当てをした後、今はファルの髪の毛を切り揃えて整えるという作業に没頭している。いかにすればより可愛く大人っぽくなるか、と真剣に考えて鋏を握るエレネに、ファルは諦念の顔つきで、されるがままだ。

 そんな場合ではないと思うし、それについて何かを申し立ててもいいのではないかと思うのだが。

 女というのは、よく判らない。



          ***



 六人で円になって草原に座る。

 天界で起こったことについての話は、おもにファルがした。キースは時々そこに付け加えたり、逸れかけた方向を修正したりするくらいだ。ファルは、ユアンのことは「天帝の息子」とだけ話し、その人物像も、キースとの関係性も、すべて省いた。


「……神にねえ……」

 クイートがどこか感嘆するように呟いて顎を撫で、空を見上げた。


「本当に神が味方をするとしたら、自分が神になろうなんて露ほども思わない人間に対してだと思うけどね……」

 ちらっとファルを一瞥する。

 それから、深く長い息を吐き出した。

「──ま、詳しいことはおいおい聞かせてもらうよ。とにかく、天人は白雲宮を逃げ出し、新天地を目指して旅立った、と。それさえ判れば充分だ。……新しい天帝が立って、なんとか白雲宮が混乱から立ち直ったとしても、天人に見捨てられ、地界と切り離された天界は、もう長くは保たないだろう」

 後半、独り言のように出された言葉に、キースは視線を宙に向けた。

 クイートが改めて、キースとファルのほうに真っ直ぐ向き直る。


「……ありがとう、二人とも」

 そう言って、深く頭を下げた。


 キースもファルも、それに対して返事はしなかった。二人とも、自分たちの心に従って動いたまでのことで、クイートに礼を言われるようなことではないと思ったからだ。

 クイートもそれは判っているのか、再び頭を上げると、その顔にはいつも通りの、ちょっと厭味ったらしい微笑が乗っていた。

「しばらくはこちらも混乱するだろうし、これからまた、大変なんだけどねえ。俺だってリジーに帰ったら大忙しだよ。……それでさ、ファル、キース」

 窺うような目が、こちらを覗き込む。


「俺が王になるのに、協力する気はない?」


 ファルはきょとんとした。

「……クイートは、やっぱり王さまになりたいの?」

「なりたいっていうより、ならなきゃしょうがないんだよ。兄弟の中で、俺よりも頭が良くて、民のことを考えて、腹黒い人間がいれば、俺は喜んでその補佐に廻るんだけどね。そっちのほうが自由が利くし楽だし。……けど、どいつもこいつも頭が悪くて、自分のことしか考えていなくて、しかも悪事を企んでもどこかせせこましい、っていうやつらばっかりでさ。あいつらのうちの誰かが王になったら、俺はまず速攻で消される。リジーから逃げれば、あの国は他の大国にやられる。だとしたら俺が俺のしたいようにリジーを守るには、自分が王になるしかない。判るかい?」

「う……うーん……」

 ファルは複雑そうな表情で唸った。

「大体、矛盾してるんだよ。最も優れた者が王に、っていうなら、世襲制になんてしないで、民の中から王を選んで国を治めさせればいい。でもその制度ひとつを変えるにも、まずは俺が権力を握らなきゃどうにもならない。俺は、リジーという国が、そして世界が、どう変わっていくのか見たいんだ」

 クイートの瞳が強い光を放っている。どうしても思い出してしまうものがあり、キースはそこから目を逸らした。


 ──ユアンがこういう人間であったなら、天界も少しは明るい方向へ進んで行けたのかもしれない。


「俺が王になるのを手伝ってくれないか? 二人とも」

「……おれはもう二度と、誰かに仕えたりはしない」

 キースがぼそりと呟くように落とした言葉を、クイートは一蹴した。

「さすがに俺だって、君ら二人のような人間を部下にしようなんて図々しいことは思ってない。それくらいの分は弁えてる。だからせめて、協力者になってくれないか、と頼んでいるんだよ。俺が王になるまで、環境を整えるのに時間がかかるからね。その間、少しでも味方を減らしたくない。だけど、俺一人では守るのも限度がある。エレネのこともあるし、同じ轍は踏みたくない。だから君たちに、手を貸してほしいんだ」

 敵を潰すのではなく、味方を守るために協力して欲しい、と。

「…………」

 キースは口を噤んだ。隣のファルと目を合わせる。

 エレネによって綺麗に整えられた髪を揺らし、ファルは微笑んだ。


 だったら、お手伝いしてあげようか?


 言葉にはしなくても、そう言っている。キースの耳にはちゃんと聞こえた。

 やれやれと息を吐く。リジーの国がどうなろうと、さして関心はないのだが。

 ……もう片足を突っ込んでいるようなものだし、しょうがないか。

 それに、これから事態がどう動くか見極めるためにも、リジーの王子であるクイートの近くにいるのは悪くないと思えた。確認のしようがないこともあり、天界から天人がいなくなったという事実が浸透するには時間がかかるだろう。翼を失ったとはいえ、ファルのことが知られたら地界の国々は手を伸ばしてくるかもしれない。


 キースとファルはこれから、地界の住人の一人として生きていくことになるのだから。


「金はもらうぞ」

「いきなりそれなんだ、君って結構ガメツイね」

「こっちだって切実だからな」

 なにしろ現在キースは無職で無一文である。ファルと二人で生活を成り立たせていこうと思ったら、それなりに安定した収入源が必要になる。

「それから、条件がある」

「え」

 クイートが目を瞬いた。この上、まだ? と思っているらしい。当たり前だ、キースとファルはそんなに安くはない。


「──お前が王になったら、この忌み地にいる人たちを東西の大陸に移住させろ」


「え」

 クイートがまた同じことを言った。

 今度は、困ったように顔をしかめる。

「でもさ、それは……」

「大きなことを言うのなら、それくらいの器量を見せろ。……天界がこれからどうなるかは、まだ判らないからな。天人を失って、これまでのように知識を得られず状況が袋小路に嵌った時、新しい天帝がどういう行動を起こすかも予測できない。ひょっとしたら、自分たちで別の進化を辿るかもしれない。……最悪、白雲宮が崩れる可能性もある」

「崩れたら、どうなるんだい」

「白雲宮は雲と雲を繋ぐ役割を果たしていると言われる。白雲宮が崩れたら、天界そのものが支えを失くして、雲を突き破り、地界に崩落する……と、言われている」

 どこまでが事実なのかは判らない。しかしそのように言い伝えられてきたのは本当だ。

 淡々としたキースの説明に、クイートたちは凍りついた。

「ちょっと、それ……」

「もちろん、空に浮いたまま、静かに朽ちていく可能性も大いにある。しかしそれは、もっと時間が経たないと判らない。今のうちに、この忌み地は無人にし、本当に『捨てて』しまうのが上策ということだ」

「うーん……」

 クイートが眉を寄せ、自分の頭を掻いた。

「でもそれは、とても簡単には……」

「頭が良くて、民のことを考えて、腹黒くて性格が悪いのが、お前の取り柄なんだろ? それを最大限に活かせ。……約束するなら、お前が王になるのを手伝ってもいい」

「性格が悪いとは言ってないんだけど。ああもう! わかったよ! 努力する!」

 クイートが天を仰いで大声を出すのと同時に、キースの肩に何か温かいものがことんと置かれた。

 見ると、ファルが目をこすりながら、頭を傾けてもたれかかっている。

「──眠いのか?」

「ん……だって、一晩寝てないし……」

 そう言ってから、微睡むような顔を向けて、悪戯っぽく笑った。

「これはあの『眠い』とは違うから、安心してね」

「…………」

 それはなんとなくキースにも判った。何かに連れて行かれるような、強制的な睡眠の入り方ではなく、疲労と睡眠不足から来る、穏やかな夢への入口だ。

「疲れただろう。ゆっくり休め」

「──うん」

 ファルはキースの肩に頭を預けて、目を閉じた。

 しっかりと、キースの手を握りながら。






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