最後の対決
「キース!」
その名を口にして、思わず走り出そうとしたファルの身体は、すぐに後ろから掴まれ強い力で引き戻された。
「……ファル」
キースが小さく呟く。視線がファルの頭から足元までを滑るように動くと同時に、その表情が沈痛なものになった。
「つらかっただろう、よく耐えた」
後ろ手に縛られ、口許から血を流し、顔には酷い痣があり、真っ直ぐ立っていられないほど満身創痍の状態のファルを見れば、今までどんな扱いを受けてきたかは察せられるのだろう。キースの声は優しく穏やかだったが、拭いきれない重苦しいものを伴っていた。
しかしそう言うキースも、決して無傷なわけではない。白いシャツはところどころが裂け、赤い血で染まっている。
「平気だよ。わたしが頑丈なの、知ってるでしょ?」
ファルは笑顔を浮かべてそう言ってから、あ、というように口を開けた。
自分の視界から、これまではあった髪の毛が消え失せていることを、今になって思い出したのだ。
「……ちょっと、みっともないことになっちゃったけど」
肩の上で短く切られてしまった頭髪は、長さが不揃いな上に、大風にでも吹かれた後のようにぼさぼさに乱れている。キースにはあんまり見られたくなかったなあ、と少し恥じ入って俯くと、すぐに「いや」と否定の言葉が返ってきた。
「おまえはどんな姿でも綺麗だ。短い髪もよく似合う」
「…………」
大真面目な顔をして言われ、ファルは口を噤んでしまう。ただでさえ汗が引かないのに、さらに止まらなくなった。デリカシーがないかと思えば、たまにさらりとこういうことを口にするから、キースは油断がならないのだ。
その一瞬の沈黙の隙をついて、
「──で」
とユアンの冷たい声が響いた。
「キース、君、ここで何をしているんだい?」
「言っただろ? お前たちがここに来るのを待っていたと」
ファルを捕まえ微笑するユアンと、捉えどころのない表情をしたキースが、向き合って対峙した。
無造作なほど素っ気ないやり取りであるにも関わらず、二人の間にはぴんと張りつめたものがある。ぽっかりと真空になったような静寂が支配して、真っ青で汗だくになった兵は、呼吸することさえも忘れているようだった。
「……僕がここに来るのを、知っていたかのような言い方だね」
「お前とは長い付き合いだからな。何を考えて、どう行動するのかくらい、想像がつくさ」
ユアンは軽い笑い声を立てた。
「さすがに僕の影だね。僕のことを最も理解しているのは君だということを、君は君自身で証明した。ねえキース、君ももう判っただろう? 君にはそういう生き方しか出来ないってことが──」
「ああ、嫌というほど判った」
キースがきっぱりと答え、ユアンがさらに唇を吊り上げる。
「キース、君はやっぱり、僕の」
優しい声で言いながら、柔らかく目を細め、空いている手をキースに向かって伸ばそうとしたが、
「……地界に堕ちた時から、おれはもうとっくに、別の人間を選んでいた、ということをな」
続けられたその言葉で、ぴたりと動きが止まった。
キースはユアンを見て、それからその傍らのファルに視線を移し、微笑んだ。
「今のおれが忠誠を捧げるのは、ファルだけだ」
そんな場合ではないと思うのだが、ファルは赤くなった。
ユアンは中途半端なところで笑みを止め、石のような目でキースを見返した。ギリッという音をさせて奥歯を噛みしめたのに、自分ではそれを気づいていないようだった。
「──キース、まだそんな世迷言を」
キースは再びそちらに目を戻し、首を傾けた。
「世迷言? それはお前だ、ユアン。おれはお前がどんなことを考えて、どんな行動をするのかが大体わかる。……でも、お前には、おれが何を考えているのかがまったく判らない。今までずっと、他人というものはすべて、『自分の思い通りに動かせるもの』でしかなかったお前は、人間ってものに対する認識が完全に欠落している。他者の気持ちを推測したり、慮ったり、思いやったりすることを一度もしなかったから、自分から離れていく人間の心も判らないんだ。そうだろう?」
キースの碧の瞳には、逡巡も怖れもない。突き放すようなその眼差しと口調は、すでに彼が自分の主人であった人物に対して、心情的な訣別を済ませてしまったことを示している。
それでさえ、ユアンは気づかない。
誰より美しく、才能があり、天帝の息子という立場に生まれ、人から敬われ続けて不足など何ひとつなかったユアンの、唯一にして致命的な弱点だ。
「──ユアン、人は神にはなれない」
キースは静かに断言した。
「お前はどうしようもなく『人間』だ。子供じみた執着心と、甘ったれた思い上がりと、誰からも見下ろされたくないという幼稚な自尊心が凝り固まって、こんな怪物へと育ってしまった、ただの人間だ。どう足掻いたところで、神になんてなれるわけがない」
「なるさ」
ユアンが叩きつけるような口調で言い返した。
「白雲宮はすでに僕の手中にある。今の僕はもう、地界に取りこぼした天人を一人見つけ出すだけのことに、いちいち誰かの決済を仰ぐ必要もない。あの耄碌した年寄りのように弱腰になる必要がどこにある? 地界のやつらはすべて、力ずくで従わせればいい。これからは全部、僕が判断し、僕が裁可し、僕が決定する。僕はすべての上に立つ存在になるんだ」
「ユアン……」
キースは小さく息を零して、目の前の人物を憐れみの目で見た。
「それは、我欲ってもんだ。神とは真逆の、単なる人間の欲望、それ以外の何物でもない。ただそんなことがしたいだけなら、お前は通常の手段で天帝の座に収まっていればよかった。そうすれば、何年か、何十年かくらいは、玉座に座っていられただろうに」
ユアンが鼻で笑った。
「あんなちっぽけな椅子だけで、僕が満足するとでも?」
「満足するべきだったんだ。その望みを通り越して、人の手には余る欲望を抱いてしまったから、こんなことになったんだと、まだ判らないのか?」
そうなった理由のひとつには、キースの不在、というのもあるだろう。ただ目障りなファルを処分するだけのつもりだったユアンは、それと共にキースまでも失った。今まで自分を守り、足止めの役割も負っていたキースがいなくなり、狂気の暴走をはじめたユアンを抑える人間は、誰もいなくなってしまったのだ。
「人の手に余る? 何を言ってるんだい、キース。僕はもうそれを半分以上手に入れているじゃないか」
「違うね」
ユアンの反論を、キースはすげなく払い落とした。
「お前は確かに人とは違うものを持ってるよ。顔も頭も良く、魅力もあって、才気もある。普通に天帝になっていれば、『本当の』尊敬を勝ち取ることだっていくらでも出来た。でも、お前はそんなものは欲しくなかったんだな。欲しいのは、どこまでも自分だけの世界、自分一人だけの楽園、それだけだったんだ。……だがそんなもの、無理に決まってる。そこにいるファルだって、お前の意のままには動かせなかったんだろ? 今まで、お前がそんな感情的になったことがあるか? さんざんちっぽけだの惨めだのと馬鹿にしてきた相手に、翻弄されているのはお前のほうだ。この世には、決してお前に頭を下げない人間、自分の生き方に誇りを持って信念を曲げない人間だって、確実に存在する。自分を中心にして世界が廻っているわけじゃないってことを、お前もそろそろ知っていい頃だ」
そして、ぽつりと付け足した。
「……人の欲には、涯があるんだよ」
キースは穏やかな口調で、淡々と続けた。
「行き止まり、突き当たりが、必ずある。その先へと進めば、断崖絶壁から落ちていくしかない。生身の肉体と未熟な精神を持ったまま、人は神にはなれない。際限のない欲望は、身を滅ぼすだけだ」
「へえ」
ユアンが面白そうに片眉を上げた。
「だったら、始祖はどうなんだい? 地上に住む人間が、空へと昇り、ひとつの世界を手に入れて、上から見下ろす立場になった。邪魔な天人という存在を追い払い、やつらからこの地を奪って、自分だけの楽園を作り上げたじゃないか。それも人の手には余る欲だった、と言うつもりかい?」
「──その楽園の成れの果てが、現在の天界なんだ、ユアン」
キースは息を吐き、ちらりと穴の下を一瞥した。
「始祖が天人からこの地を略奪して、何年だ? 四百年と少し……正確には、四百十二年が経つ。その間に人だけは増えたが、文明や文化は地界から吸い上げたものばかりで、ほとんど努力もせずにただ安穏と暮らし続けた結果が、今のこの天界だ。住人たちは極度に潔癖になり、自分の身を汚すことも、汗まみれになって働くことも厭う。そのくせ自分たちは高尚だと馬鹿げた誤解をして、他人を下に見ることで安心し、現状をまともに考えることもしない。土壌は痩せて、植物はすぐに枯れ、動物だってこの地では上手く育たなくなった」
あの穴から堕ちた後、キースとファルが見て知ったこと。
地界では、溢れるほどに緑が茂り、動物たちは逞しく肥え、人々はみんな自らの手を真っ黒にして日々の生活を成り立たせていた。
肉も野菜も味が濃く、口に入れただけで力が漲るような感じがするほどだった。
天界にはなくて、地界には余るくらいあるもの──それが、瑞々しく迸るほどの、生命力なのだ。
「もはや天界人の肉体は、地界の環境にも適応できない。……弱すぎるんだ。天界に生きているものは、身も心も脆弱になりすぎた。この世界すべてが、まるで無菌室で育てられてでもいるかのようだ。無菌室から出れば、死ぬしかない。そんな弱く脆い生物が、これからもずっと永らえていけるとでも思うか?」
再び顔を戻し、キースはユアンを正面から見つめた。
「天界は、すでに終焉へと向かいつつある」
「…………」
ユアンは黙り込んだ。その顔にもう笑みはなく、またあの人形のような無表情に戻っている。
「始祖が作った世界は、ほんの四百年ほどしか保たなかったということさ。始祖は永遠の繁栄を夢見ていたかもしれないが、一人の人間の欲望としてはそれが限界だ。地界に比べれば、あまりにも儚いものだったな。お前が手に入れようとしている果実は、実はもうずっと以前から、腐りかけていたんだよ」
「だから」
ユアンの口から出た声は、ひどく低かった。
「だから、僕がやり直すんだ。そうだろう? 増えすぎてしまった天界人たちを間引きして、またここを美しい楽園へと戻す。始祖の夢は僕が引き継いで、より大きく確実なものへとしてやるさ」
「どうやって?」
「必要なものは、地界から、いくらでも──」
「天人はもういないのに?」
「…………」
ユアンは口を噤んだ。ますます表情が抜けて、しらじらとした美貌がぞっとするほどに強調されている。すぐ近くにいる兵は、それに対して陶酔するよりも恐怖のほうを強く感じたらしく、じりっと足を動かし、一歩後ずさった。
「天人はいるさ、ここにもう一人」
一本調子なその声と共に、ファルの後ろ首が掴まれて、ぐっと引っ張られた。
容赦ない力に、そのまま後方へ倒れそうなのを持ちこたえる。ぎゅっと唇を噛んだ。
さっきからずっと、ユアンの目はキースのほうにしか向いていない。兵も怖れのためか、注意力が散漫になっている。誰もファルの指が動いていることに気づいていない。いや、気づいているとしたら、一人しかいない。
手首から垂れた血が、ぽたぽたと床に滴り落ちている。太い縄がかなり細くなっている手応えを感じた。焦りすぎて破片を落としたら一巻の終わりだ。もどかしいけれど、慎重に、ゆっくりと。
あと、もう少し。
「こいつに仔を産ませてやればいい。片翼だろうと、天人は天人だ。人間の男に種付けさせて、どんどん数を増やしていく。ほんの数年の辛抱さ」
「…………」
今まで同じ温度を保っていたキースの周囲の空気が、すっと冷えた。しかしその烈しすぎるほどの怒気を向けられても、ユアンはまったく意にも介さなかった。
「家畜はそういうものだよ、キース。そんなものに情をかけたお前が悪い。この天人はこれから僕の管理下に置く」
「そんなことはさせない。ファルはお前には渡さない。おれがどうしてここにいたと思うんだ?」
「こいつを取り返そうっていうのかい? それこそ、どうやって? 一歩でもその場から動いたら、今度はこいつの目を抉る。その次は指を切り落とす。仔を産めさえすれば、腕や足なんて邪魔なものは、なくても構わないんだ」
ユアンは兵から短剣を受け取り、それをファルの顔にぴたりと当てた。震えた手で剣を渡すと、兵はさらに一歩後ろに動いたが、ユアンはそれも気にしなかった。
短剣の刃先が、ファルの目のすぐ下にある。
「どうする、キース? このまま、こいつの目玉が床に転がり落ちるのを見届けるかい。それとも、一人でその穴から飛び降りるかい。それとも僕に跪いて許しを請うかい?」
「……どれも御免だな」
キースは呟いて、ファルを見た。
「ファル──」
何かを言いかけた、その時。
ごおおん、という重低音が鳴り響いた。
最深部のこの部屋の、壁も床も低い天井もびりびりと振動するほどの音。天界中、どこにいても聞こえるこの大きな音は……
時計台の、鐘の音だ。
耳が痺れるようなその大音量が止まるのを待ってから、キースが再びファルに向かって口を開いた。
「……これで終わり。約束の時間だ、ファル。鐘の音が鳴ったら、その時に二人でどうするか考えよう、と言ったよな?」
「うん」
ファルが頷く。
ぶちん、と最後の細い繊維を切断した感触があった。
「おまえは、どうしたい?」
問われて、ファルは一瞬も答えを迷わなかった。
「キースと一緒に行くよ。どこでも」
「そうか」
キースが少し笑う。
手を持ち上げ、真っ直ぐに差し出した。
「……じゃあ、一緒に行こう、ファル」
「うん!」
ファルが返事をすると同時に、背中に白い光が集まりはじめた。
片方を失ったもう一方の翼が、強い光輝を放って形をとっていく。強烈な白い閃光がまともに目を射て、ユアンが眩しさのあまり思わず顔を背けた。ふらりとよろけるように足が後方へとずれ、その拍子に剣の刃先も離れた。
ばさっ、と音を立てて、翼が大きく羽ばたく。風が起こり、ユアンが庇うように自分の手を顔の前に持っていった。人形のような美貌が、眉を上げ、歯軋りをし、醜悪なものに変化するのが見える。
ファルの足がわずかに浮いた。
「待て……!」
風に押されながら、ユアンが手を伸ばしてくる。
彼の凶暴な意志と、強すぎるほどの自我は、屈するのを断固として許さなかった。今まで、自身のすべてを周囲に受け入れられてきたユアンは、自分に歯向かう者、拒絶する者の存在を、絶対に認められなかった。
頭を垂れ膝をつくまでは逃がさない、という狂念が、ユアンにファルの翼を捕らえさせた。
ファルが振り向く。ユアンが哄笑した。
「僕の勝ちだ!」
凄まじく歪んだその表情を見て、ファルは眉を下げた。
そこにいるのは、地界の咎人の森にいる化け物と、変わらない。
もう人ではなくなってしまった、悲しい生き物だ。
「──わたしは、あなたには従わない」
その途端、ファルの翼が──ユアンが勝ち誇ったように掴んでいる、実体化した翼が、形を崩しはじめた。
光の粒子に戻ったわけではない。翼の端から、少しずつ、一枚ずつ、羽根が剥落するように抜けていったのだ。まるで、一輪の花が風に吹かれ、一枚ずつ花弁を剥がし散っていくように。
白い羽根が、自分の意思があるかのように、一枚、また一枚と落ち続ける。次第にそれは勢いを増し、速度を増した。大量の羽根が視界を埋め尽くすように乱れ散り、渦を巻くようにして舞い上がる。花吹雪のごとく。
ユアンが掴んでいた場所も、するりと滑るように翼から離れた。呆然と目を見開くユアンの手の中には、数枚の羽根だけが残されているだけだった。引き止めていた反動で、身体が傾いだ。
翼はもうほとんどその形状を留めていない。すべて羽根になって宙を飛び、薄暗い部屋の中を白く染め上げていく。儚く、美しく、どこか夢のような光景だ。ユアンの後ろでは、兵が腰を抜かしていた。
ファルは、自ら翼を切り離した。
自由になったファルが駆けだす。拘束を外した両腕をキースへと差し伸べて、真っ直ぐに走った。
「キース!」
飛びついてきたその華奢な身体を強く抱きしめて、キースがそのまま後ろへとゆっくり倒れ込む。
白い羽根が飛散する中、二人の姿は穴の向こうへと消えた。
***
しばらくの間、沈黙だけが室内を支配していた。
「ひ……ひいっ!」
ようやく我に返った兵が、もう耐えられないとばかりに腰を上げ、扉を開けると、這うようにして外へと逃げ出した。普通の人間には理解できないものを目にして、精神の限界に達してしまったのだ。
ユアンはそちらを振り返りもせず、ただじっと光の射し込む中央の穴を見据えていた。しんとした静寂の中、聞こえてくるものは何もない。
「──馬鹿だな」
小さく呟くと、ユアンはその穴に向かって歩いていった。
覗いてみたって、どうせその姿はとっくに地界へと堕ちて、もう見えないに決まっているが。
翼を両方失った天人と、もともと翼を持たない天界人が、穴から落ちて、どうなるというのだ。死にはしなくても、それと同程度の屈辱と苦痛を受けることになるだけ。化け物になることが「自由になる」というのなら、とんだお笑い草だ。
ユアンはキースに失望した。もう少し頭の廻る、冷静な男だと思っていたが、あんなつまらない娘のために、結局すべてを捨てる羽目になってしまった。二人で死を選ぶなんて、およそ考えつく中で、最もくだらない結末だ。
だったらもう、あんな影は要らない。
しかしこれで、天人は全員天界から姿を消したことになる。まったく腹立たしい限りだが、逃げ出した天人をどうすれば見つけられるか策を考えて──
そう思いながら、一歩、二歩と足を進めた。
三歩目で、違和感を覚えた。
何か、音がする。
かすかな──いや、どんどん大きく、強くなっている。
近づいてくる。
「……なんだ?」
ユアンはその場に立ち尽くした。その音は彼に迫る危険を告げていたが、混乱も生じさせた。何が起こっているのか判らない。どうして「その音」が聞こえてくるのか、理解できなかった。
羽音が。
それも、小鳥の羽音のような軽いものではない。もっと存在感のある音。唸るように翼が風を切り、空気を裂いて、ぐんぐん上昇してくる音だ。しかもその音は複数だった。
たくさんの翼が羽ばたいて、一斉にこちらに向かってきつつある。
穴を目がけて突進してくる。
「……!」
硬直したユアンの前に、穴から猛烈なスピードで「何か」が飛び込んできた。
翼を広げて飛翔してきたのは、二人の天人だった。
彼らの中央、両側から抱きかかえられているのは──キース。
計四つの翼でしっかりと支えられ、空に浮いたキースは真っ直ぐこちらを向いていた。両手を前方に突き出し、黒い鉄の塊を構えている。その筒先はぴたりとユアンに向けられていた。黒々とした穴の中が覗き込めそうなほど、揺らぎもせず。
「──今度こそお別れだ、ユアン」
キースがそう告げると同時に、轟くような音が室内に反響した。赤い火花が筒先から迸る。
それがユアンの見た、最後の景色となった。
……額の真ん中に銃弾を撃ち込まれ、新しく天帝となった青年は、短い生涯を終えた。
「ファル、いるか」
二人の天人に抱えられて下降してきたキースは、黒髪を風にはためかせ、厳しい表情のまま、ファルを呼んだ。
穴から落ちたところを空中で受け止められ、二人の天人によって身体を支えられたファルもまた、雲の上に留まっている。自分で飛べないのはもどかしいが、「ここだよ、キース」と返事をすると、天人たちが翼を動かしキースの許へ寄って行ってくれた。
「ファル、おれの足に括りつけてあるものを外してくれ」
両脇を天人に持ち上げられながら、不自由な態勢でキースが自分の右足を上げた。どうやらキースが言っているものはズボンの下にあるらしい。少し苦労しながら手を伸ばし、裾を捲ってみると、脛のあたりにしっかりと括られた筒を見つけた。
ファルは見たことがないものだ。丈夫な紙を巻いたような筒で、先端に細い紐が飛び出している。
「外したよ」
そう言うと、キースが頷いて頭上を見上げた。
そこには、天界へと通じる穴が大きく口を開けている。
「そいつをあの穴の中に放り込め。なるべく緩い放物線を描くように。出来るだけ高く上げるんだぞ」
「…………」
ファルは躊躇した。手に持ってみれば、その特有の臭いのする筒がどういう役割を果たすものであるか、薄々は察しがつく。キースが何をするつもりなのかも。
目を合わせると、キースはぐっと唇を引き結んで、頷いた。
「おれと一緒に罪を背負ってくれるか」
「──うん」
ファルも血の気の抜けた顔で頷き、強く筒を握りしめた。
天人に抱えられながら、態勢を整える。穴を見据えて、息を大きく吸った。筒を持った手を振りかぶる。
キースが銃を構えた。
「……いくよ!」
その声と共に、力の限り思いきり、筒を放り投げた。
「爆風が来るぞ、すぐに逃げろ!」
キースが怒鳴って引き金を引く。
銃口が火を噴いて、発射された銃弾は、外れることなく筒の芯を捉えた。
ドン、と空を揺るがす轟音がして、赤い炎が白い雲を焦がすように噴出し、荒れ狂う灼熱の風が強く吹きつけてきた。