待ちびと
太陽が完全に顔を出して、明るい陽射しが照りつけはじめた頃になっても、キースが見つかったという報告は入ってこなかった。
地界よりも強い陽の光が、この鏡の部屋にも入り込み、そこら中を乱反射させている。輝きに満たされて白く染まったような室内で、ユアンはずっと黙って椅子に座り続けていた。
彼の青い眼は、もう床で転がっているファルのほうには向けられない。足を組み椅子に深く腰かけて、一言も言葉を発さず、動きもしなかった。
整った顔は無表情のまま、周囲からの光を浴びて静止しているその姿は、非常に美しい人形が観客のいない場所にぽつりと展示されているようで、ぞっとするほど幻想的な眺めだ。
部屋の外からは、たまにバタバタと駆け回る足音や、交わされる兵たちの声が聞こえてくる。騒がしいその音と、焦るような怒鳴り声を聞けば、静寂の続くこの室内とは裏腹に、扉のあちら側では相当な混乱が続いているらしいことが窺えた。
きっと、兵たちの誰もが、侵入者の一人くらいすぐに見つかると高を括っていたのだろう。白雲宮は、出入り口を封鎖してしまいさえすれば、巨大なひとつの密室となる。他の建物とは違って、上方へと高くそびえ立つこの場所から外へと脱出するには、一階の扉を抜ける以外に道はないからだ。
どこに隠れていても、この中にいるのは間違いないのだから、順番にくまなく探していけば、必ず発見できると。
入口以外に外部と繋がっているのは、高い位置に設えてある窓くらい。しかし天井高のある白雲宮では、たとえ二階でも、窓から飛び降りることは難しい。普通の人間がガラスを破って地上を目指せば、大怪我を負うか、下手をすれば死んでしまうのは明白だ。
そう、翼でもない限り。
「…………」
不意に、ユアンがゆらりと立ち上がった。
感情のない白い面に動きはないのに、そこにはどこか不吉な前兆を感じさせる恐ろしげなものを孕んでいた。端然ととぐろを巻いて置き物のようにじっとしていた毒蛇が、少しでも触れてきた相手に対して、一瞬で豹変して凶悪な牙を剥きそうな雰囲気がある。
ユアンは椅子を離れると、倒れているファルを氷のような目で見下ろし、「立て」と命令した。
半ば意識を失いかけていたファルは、なんとか首を巡らせ、そちらを見返した。
少し動くだけでも、苦痛が全身に廻って、勝手に顔が歪んだ。しとどに流れ落ちる汗で、視界はずっと水の膜が張っているかのように曖昧になっている。口の中に血が溜まっているのか、声を出そうとしたら喉の奥のほうがこぽこぽと変な音を立てた。
「……なに?」
問い返してみたものの、ユアンからは返事がない。微笑の消え失せたその表情からは、何も伝わってくるものがなかった。
「どこかに出かけるの? だったらどうぞ、ごゆっくり。わたし、ここで大人しくお留守番してるから」
「──はは」
ユアンの唇から、渇ききった笑いが洩れた。唇は上がっているのに、こちらに向けられる目はどこまでも無表情な分、余計に不気味さが増している。
突然、ユアンが足を振り上げた。
反射的にビクッと身を縮めたが、痛みと衝撃はやって来なかった。その代わり、ガシャン! とすぐ近くで大きな音が耳を打った。
目を向けると、ユアンの足はファルの頭の傍らにあった鏡を直撃していた。砕けて粉々になった破片が、床の上に散乱している。切り落とされたファルの髪の毛と、割れた鏡の欠片が、輝きを失って雑然と入り乱れている様子は、ユアンによって蹂躙されたものの象徴のように思えて、ひどく憐れに映った。
ユアンは、次々に部屋の中の鏡を破壊していった。鏡が割れる耳障りで暴力的な音とは対照的に、彼の表情は何ひとつ動かない。せめてそこに怒りの一片でも感情らしきものが浮いていたならまだしも人として理解できるだろうに、ユアンの顔にはそれさえもなかった。
美しい人形のような無表情のまま、部屋中の鏡を蹴りつけて壊していくその姿は、おそろしく狂気じみている。
「立て」
円形の部屋の壁に沿って並び立っていた、細長い鏡のすべてを無残に破壊し終えると、ユアンは静かな声でもう一度同じことを言った。
どうやら、同行を断るという選択肢は与えられていないらしい。
「……わかったよ」
ファルは不自由な格好で、どうにか上体を起こした。
腹部はずきずきと重く、全身が軋むように痛む。胸のあたりを何かに締めつけられているようで、呼吸が上手く出来ない。歯を喰いしばりながら、後ろの壁に自分の背中を押しつけ、それを支えにしてよろよろと立ち上がった。
が、すぐにふらりと重心が揺れた。一歩、二歩と横に傾くように動いて、また倒れてしまう。
倒れた場所がちょうどユアンが割った鏡の上だったので、破片がファルの身体の下で潰れて砕ける、嫌な音がした。頬や、後ろに縛られた手に、鋭い痛みが走る。
ち、とユアンが舌打ちして、すたすたと歩を進め、部屋の扉を開けた。
見張りの兵に、「こいつを連れてこい」と命じて、そのまま部屋を出ていく。さすがに、この様子のファルを歩かせるのは面倒だと判断したのだろう。
「は……」
兵は返事をして、すでに廊下の先を歩いているユアンの後ろ姿を少し困惑したように見た。それから急いでファルを荷物のように肩に担ぎ上げ、彼の後を追って足を動かす。
……精も根も尽き果てて抗う力もなく、ぐったりとしているファルの拳の中に、いつの間にか小さな鏡の破片が握り込まれていることには、兵もユアンも気づいていなかった。
ユアンは何も言わず、階段を上った。
玉座の間で気を失ったファルには判らなかったが、どうやら今までいた部屋は、白雲宮の八階にあったらしい。八階は確か、天帝の妻と娘がいた階であったはず。あの鏡の間も、以前までは貴婦人たちが天帝の寵を得るために、美しく装った自分を映し出すための場所であったかもしれない。
「あの……どちらに」
ファルを運搬している兵が、前を行くユアンに遠慮がちにお伺いを立てたが、それに対する回答はもらえなかった。
「覚えておけ、僕のすることに質問と反論は許さない。そして、一度忠告をしたら、二度目はない。今度同じ愚を犯したら、お前の舌も切り取るよ」
後ろを振り返ることもなく返ってきた言葉に、兵がぶるりと身震いをした。ユアンの口調は静かで、決して荒くも激しくもないのに、まぎれもなく本気だということだけは嫌でも伝わってくる。
──独裁者に成り下がった、とキースは言っていたんだっけ。
ファルは兵の肩の上で揺られながら、ぼんやりとあの時のことを思い出す。
表情は見えなかったけれど、キースの声は悲しそうだった。彼がユアンになって欲しかったものは、恐怖で支配する統治者などではなかったのだ。
可哀想なユアン。この世に生を受けてから、彼が望んで手に入らないものなんて、きっと何ひとつなかっただろうに。
兵たちを押さえつけ、天界で暮らす民たちを混乱に陥れ、白雲宮から人々を追放し、あの哀れな化け物たちを新たに作り出してまで、一体、何を手にしたかったのか。
愛情と信頼を持たず、築くことも培うこともせず、それらを一度として必要ともしなかったユアンは、ただ一人の理解者であった人間まで失ってしまった。
もう──誰も、彼を救えない。
***
ユアンが足を止めたのは、玉座の間の扉の前だった。
再び戻ってきたその場所は、固く閉ざされて、ファルとキースがここに辿り着いた時と同じ、ひっそりとした静けさを取り戻している。
その仰々しい扉を開いた途端、ユアンのまとう空気がさっと変わった。
ファルも首を捩って中を見てみたが、特に変化は見られない。自分が落としたシャンデリアはバラバラの残骸と化し、空っぽの玉座と、その前に放置された前天帝の遺骸もそのままだ。
いや──
玉座の後ろの壁に掛かっていた金色の緞帳が、取り払われている。
その事実が、ユアンの全身からどす黒い怒りを噴出させているのは間違いないようだった。彼は無言だったが、後ろ姿だけでも、不穏な気配が立ち昇っているのが判るほどだ。
ユアンは扉を通って真っ直ぐ玉座の間を突っ切った。前天帝の亡骸には見向きもせずに、最奥の壁の前に立つ。掌でどこかを探るような仕草をしたかと思うと、その壁が動きはじめたので、ファルは目を瞠った。
ファルを担いでいる兵も同じく驚いているから、これは襲撃に備えた隠し扉とは、また別の意味を持つものなのだろう。
兵たちも知らない扉……と思いかけて、ひとつの可能性が頭に閃き、鼓動が跳ねる。
では、これが幻の「十一階」へと繋がる通路か。
その扉の奥にある階段を、ユアンは上がっていった。後ろを向きもしないので、兵は迷ったようだったが、「来るな」と命じられない以上は行くしかないと考えたらしく、後に続いた。ファルから見える兵の横顔は、不安と好奇心が混ざり合って、収拾がつかなくなっているようでもある。
暗い階段を進んでいくと、突き当たりの狭いスペースに、若い女性が倒れていた。
その彼女の顔のすぐ近くにあるものを目に入れて、ファルの鼓動はさらに大きく跳ねあがった。
エゼル家の紋が入った、イーセンのナイフ。
……やっぱり、ここに来たんだね、キース。
ユアンが無言で女性を見下ろし、靴先で肩を蹴る。
小さく唸り、もぞりと身動きしてから彼女は覚醒した。傍らに立っている人物をのろのろと見上げて、目を見開く。
「ユアン様……!」
彼女は一瞬頬を紅潮させたが、すぐにざあっと血の気が抜けて蒼白になった。現在、自分が置かれている状況と、申し開きの出来ない失態を犯したことを認識したらしい。
ぱっと起き上がったかと思うと、即座に手と両膝を突き、深々と頭を下げる。
「ユ、ユアン様、申し訳ございません……! アストンの犬が──いえ、この失敗は必ず自分で取り返します。直ちに奴を探して、ユアン様の前に引きずってまいりますので」
ユアンは何も答えなかった。その視線は彼女のほうを向きもせず、突き当たりにある鉄製の扉に据えられている。
上部に細い覗き窓がつけられた、囚人を閉じ込めるためだけに造られたような、殺風景で冷え冷えとした扉だった。
──錠が破壊され、鉄扉は少し開いたままになっている。
全開になっているわけではないので、ファルの目に、その扉の中までは見えなかった。おそらく、見えなくて幸いだ。しんとして無人のその場所は、陰鬱な雰囲気だけが濃密に取り残されている。
陽も射さないこんな暗い獄舎の中で、天人たちは日々をどのように過ごしていたのだろう。
ユアンは女性のほうに改めて目を向けると、立て、というように手をわずかに動かした。
その口許には、微笑が刻まれている。
女性はそれを見て、許してもらえた、と思ったらしい。彼女以外の人間なら、その微笑に禍々しいほど危険なものが滲んでいることに気づけただろうに、ユアンへの強い傾倒と崇拝が、そのように絶望的なまでの誤解を頭の中に生じさせたのかもしれない。
ファルの目には、彼女の周りにある色が、無数に混じり合って濁っているのが見て取れた。
アストン屋敷の使用人たちや、イーセンと同じ色。
ユアンの能力に操られ、「自分」というものをなくしてしまった人の色。
「ユアン様……」
はにかむように口許を綻ばして立ち上がり、出しかけた言葉はそこで途切れた。
ユアンの掌で顔を覆われ、彼女の頭はそのまま後ろの壁に叩きつけられたからだ。
悲鳴を上げる間もなかっただろう。ぎゃ、というような呻き声は、後頭部を石の壁に押し潰され、真っ赤な血飛沫が噴き出す音と共に消えた。壁に毛髪と混じった血糊がべったりとへばりつき、女性の身体から力が抜ける。
ずずずと滑り落ちるようにしてくずおれる彼女から手を離し、ユアンは床に落ちていたナイフを拾い上げた。
そこから彼女がどうなったのかは、ファルは知らない。すっかり怖気づいた兵が、とばっちりは御免だとばかりに後ずさり、階段をそろそろと下りていったからだ。
ただ、目は固く瞑っても、両手が縛られているため耳は塞げなかったので、それからしばらく続いた不気味な湿った音は、いつまでもファルの頭の中に残ることになった。
──姿を消した天人たちは、どこへ行ったのか。
それは誰にも判らない。知っているのは、彼らをあの恐ろしい獄から救い出し、逃げるのに手を貸した人物だけだろう。
しかし、彼の行方も杳として知れないままだ。
……ただひとつ、判ったことは。
十階の奥まった目立たない場所で、窓が一枚、割られていたらしい。
兵たちはそのことをあまり深く考えていなかった。それはそうだろう、もしも誰かがこの窓から飛び降りたというのなら、その誰かは間違いなく生きていない。兵たちが命じられたのは「侵入者を見つけ出し捕らえる」ということだけであって、空を飛ぶ生き物の捕獲ではなかった。
だからそれを発見した兵は、その窓から身を乗り出し、「下」を見て死体がないかどうかの確認はしても、「上」を見て羽音に耳を澄ますことはしなかったし、ユアンへの報告も、ずいぶんと遅れたものになった。
ようやくそれを聞いたユアンがその場所に到着すると、割られた窓からは、ただ強い風が吹き込んできているだけだった。
目線を下に向ければ、そこには床に散ったガラスの破片に混じって、白い羽根がいくつも落ちている。
ユアンはぐっと拳を握り、壁に打ちつけた。
「キースっ……!」
凄まじいまでにぎらぎらとした光を放つ目を中空に向けて、歯の間から絞り出すようにその名を口にした。
***
「……あのよ、いつまでもそんな格好してると、首が固まっちまうぞ」
声をかけられて、デンはようやく顔を空に向けるのを止め、困ったようにこちらを見ている男のほうへと向けた。
長い間ずーっと立ったまま上を向いていたため、確かに首が痛い。手を首の後ろに廻して筋を撫でながら、ため息をついた。
「二人は大丈夫かねえ……」
何度目になるか判らない独り言を零すと、男がますます困ったような顔になる。ゴウグという頑丈そうな大男も、それに対する答えは持ち合わせていないらしかった。
「デンさん、お茶を淹れましたから、どうぞ」
エレネという若い女性が、気遣うように言ってくれたが、デンはごにょごにょと口の中で遠慮しますというようなことを呟いて、尻込みした。女性全般が苦手なデンだが、特にこんな上品で頭の良さそうなエレネのようなタイプは、目を向けるのも憚られる。
「そうそう、どうせ二人はこちらの手の出しようのない場所に行っちゃってるんだからさ。せめてゆったりした気分で待ったほうがいいよ」
すでに手にしたカップに口をつけているクイートが、気楽な調子で言う。ここは何もない草原地帯、しかも化け物がいるという呪われた森のすぐ近くだというのに、まるでピクニックでもしているかのようだった。
大きな馬車を立派な馬で率いて、ここまでやって来た三人は、おそらくかなりの上流階級に属する身分なのだろう。それなのに、こんな場所でもどこかの屋敷にいるかのように、平然と過ごしていた。
ゴウグとエレネはてきぱきと野営の用意を整えて、テントを張り、火を焚き、どこからかティーカップまで出して、すっかりその場に腰を落ち着けてしまっている。食糧も豊富にあるようだし、これなら二日や三日は余裕で過ごせるだろう。
「…………」
デンはもう一度ため息をついて、しょんぼりとその場に座った。確かに、自分だけが焦っていてもしょうがない。この三人を見ていると、なおさらそう思う。
腰を下ろしたところに、エレネがお茶を入れたカップを持ってきて、渡してくれた。どうもすみません申し訳ないと必要以上にぺこぺこしながら受け取ると、エレネが優しく微笑んだので、さらに冷や汗が出た。本当にこういうタイプは苦手だ。
「……デンはさあ」
その様子をまじまじと眺めていたクイートが、不思議そうに口を開く。
「あんまり人付き合いが得意じゃなさそうな──っていうか、この忌み地にいるのは大半がそんな感じだと思うけど、でも少し、他の人たちとは違うんだね」
「え、あ、うん、そ、そうだな、俺は昔から、他の人間と違って、いろんなことが上手く出来なくて、役立たずのろくでなしでさ」
おろおろと言いかけた卑屈な弁明を、「いや、そうじゃなくて」とクイートは遮った。
「この地にいるのは大体みんな、他人にはなるべく関わらない、自分のことしか考えない、っていう主義の持ち主ばかりだろう? けど君は、キノイの里からはるばるこんなところまで走ってくるほどに、ファルとキースのことを心配し、気にかけているんだなと思って。本当は俺たちみたいなのと一緒にいるのも苦痛なんじゃない? それでも我慢して、ここであの二人が戻ってくるのをじっと待っている。そういう強さは、どういうところから出ているものなのかな」
「つ……強さ?」
デンはぽかんとした。自分のような人間に、まったく縁のない言葉が出てきて、すぐには反応できない。
「お──俺のは、そんなもんじゃないさ。ただ、キースにも、約束したからよう。ここでお前たちを待ってるって。俺は本当に何も出来ない情けないやつだけども、どうしても、それだけは守りたいと、そう思ってるだけなんだ。……いや……」
口を動かしながら、デンは首を捻った。出している言葉に嘘はないものの、なんとなく、その理由はひどく上滑りしているように思えたのだ。
嘘ではないが。でも、もっと正直な自分の気持ちは、なによりも。
「……あの二人に、会いたいんだ」
いつも笑って、デンを受け入れてくれていたファル。素っ気ないのに大事な時には尊重してくれたキース。あの二人の子供に、もう一度会いたい。声をかけたい。頭を撫でてやりたい。怪我はないか、痛いところはないか、困っていることはないかと訊ねて、力になってやりたい。
おかえりと、言ってやりたい。
それだけだ。
「──そう」
クイートは、少し笑っただけで、それ以上の問いは出さなかった。
そのまま口を噤み、雲に覆われている空を見上げ、目を眇める。
ファルとキースがいつ戻ってくるのか判らないと言いながら、夜を越え、明るくなってもなお、彼らもこの場所から動こうとはしなかった。上に顔を向ける時のその瞳の中に、自分と同じものがあることを、デンも気づいている。
──二人の姿が空の中に見えるのを、クイートたちもまた、待ち続けている。
デンは少しお茶を飲んだが、すぐにやっぱり我慢ならなくなって、再び頭上を見上げた。白い雲が広がっているだけのその場所に、何もないことを確認して、失望する。ずっとその繰り返しだ。
今頃、あの二人はどうしているのだろう。手も声も届かないあの雲の上で、何が起きているのか知ることも出来ないとは、もどかしくてたまらない。
……ファル、お前さん、翼があるんだってなあ。
「ファルとキースが地界で最も信頼している人物なら、俺たちも信用するしかないだろう」と言ってクイートが話してくれた、度肝を抜かれるような説明を、デンは完全に理解しているわけではなかった。天界、天界人、天人、と次から次へと聞かされて、頭は飽和状態だ。
難しいことは判らない。地界の未来などというスケールの大きな話は、デンの許容範囲を超えている。ちまちまと草を採ったり、すり潰したり、乾かしたり、という変わり映えのしない日常を送っている人間に、天界と地界の複雑な関係性の是非を問われても、目を白黒させることしか出来ない。
そんなことに巻き込まれてしまったファルを、デンはただ不憫に思うばかりだ。あんな小さな子供たちが(と言ったら、エレネは妙に複雑そうな顔になり、クイートはニヤニヤしていたが)、どうしてそんな苦労ばかりを背負い込まねばならないのか。
早くその翼で、キースを連れて戻っておいで。
天人だろうと、天界人だろうと、どうだって構わない。あの二人はデンにとってかけがえのない存在だ。
帰ってきたら、たくさん食べさせて、労わってやろう。結果がどうであっても、頑張ったなと笑いかけてあげよう。デンに出来ることは少しだけ──ほんの少ししかないけれど、それでもデンの出来る限りのことをしてやろう。
「……無事に戻られるといいですね」
「あの生意気で小憎たらしいキースが守ってるんだから、ファルは大丈夫だって。きっとな、うん、きっと」
「俺は本当、こういう待つだけの時間は苦手だと思い知ったよ。自分で動いた方がよほど楽だ。胃が痛い」
エレネとゴウグが空を仰ぎ、クイートが苦笑する。
「…………」
デンは一心に祈るように願った。
ファル、キース、みんなが待っているよ。もしも上手く事が運ばなくても、構わないんだ。その時はまた、一緒に考えよう。そうだ、自分たちが住むこの世界のことなのだから、デンたちこそが一生懸命考えなければならないのだ。
何も出来なくても、役には立たなくても、そうして考えることこそが、きっといちばん重要なことなんだ。
俺ももう逃げるのはやめるよ。言い訳しないで、自分にやれることを一生懸命考える。失敗してもいいんだ。誰かにすべてを押しつけて、いろんなことから目を背けて、自分だけがつらい思いをしているなんていじけながら殻の中に閉じこもるのが、なにより恥ずかしい。
ファルは、「デンさんに助けられたし、助けられている」と言ってくれた。キースは、「デンにしかやれないことがある」と言ってくれた。本当はどうかなんてことは問題じゃない。
大事なのは、自分がそういう人間でありたい、と願うことだ。
生きている限り、可能性はいくらでも生まれる。果てしなく続き、広がっている。
──未来が待っているから、帰っておいで。
***
ユアンはファルを兵に担がせたまま、今度は白雲宮の下へと向かった。
階段を下り、正面扉の錠を外して、建物の外へと出る。ぐるりとした回廊を通り、ファルたちが出てきた重い扉を開けて、長い螺旋階段を下った。
階段の先の扉の前に立ったところで、ユアンが後ろを振り返った。
「そいつを降ろせ」
その命を受けて、兵がようやく肩からファルを降ろす。兵の顔は固く強張っていた。きっと、もうこれ以上は関わりたくない、逃げ出したい、というのが本音なのだろう。
やっと床に足がついて、ファルはほっとした。苦痛が去ったわけではないが、ずっと荷物のように運ばれているのも、これはこれでつらい。
まだふらふらするものの、なんとか立てた。ここまでの足音がまだ反響しているようでがんがんする頭を軽く振り、顔をしかめて前方にある扉を見る。
扉の向こうには、白雲宮最深部の部屋がある。
「──それで、こんなところまで来て、何をするつもりなの? またわたしを地界に堕とすつもり?」
「僕のすることに、質問も反論も許さないと言ったはずだが」
「それはこっちの人に対して言ったんでしょ。わたしはあなたの部下じゃない」
ファルが言うと、横にいる兵が緊張のためか、ぎしりと身じろぎした。ユアンは唇を歪めるようにして上げた。
「まったく生意気だね。お前を地界になんてやるわけないじゃないか。片翼の出来損ないだろうと、天人は天人だ。他の天人が逃げ出した以上、なんとしてもお前に仔を孕ませて、また増やすしかない」
「お断りだよ」
ファルはそう言ったが、実のところ、ユアンの声はあまり耳に入っていなかった。右手の先に持った鏡の破片で縄を切ろうとしているのをどうすれば気づかれないか、それを考えるのに精一杯だったからだ。
ずっと縛られ続けて、そろそろ指の感覚がなくなりつつある。手首からは血が滲んで、擦れるたびに痛みが生じた。こんな頼りない小さなカケラで、丈夫そうな縄が本当に切れるのか、不安でたまらないけれど。
ファルはまだ、何も諦めていない。
「言っただろう? お前の意志や気持ちなんて、誰も聞きやしない。でもその前に、お前を縄で縛って穴から吊り下げる。何時間でも、何日でもね。まだこのあたりをうろついている天人がいたら、お前というつまらない餌につられて、食いついてくるかもしれない。片翼の天人なんて、それくらいしか使い道がないじゃないか」
「無駄だよ、そんなことしたって。天人たちはとっくに、この広い空のどこかを自由に舞っている」
「そうとは限らない。天人というのは、仲間を見捨てられない生き物だ。自分で自分のことも助けられないくせに、自分だけ逃げることも出来ない。それで殺され、自らが作り出した住処を失い、奴隷の立場に甘んじ続けているというのに、懲りずに同じことをするんだ。身の程知らずの、馬鹿な連中なのさ」
「わたしを出来損ないだと言ったのはユアンでしょ。異端のわたしは、天人たちの仲間じゃない。やっと手にした自由と引き換えに、わざわざそんなのを助けに来たりしないよ」
「キースもかい?」
ユアンの問いに、ファルは言葉に詰まった。
「キースは来るさ、必ずね。この白雲宮のどこかにいるはずだから、いずれ見つかるだろう。キースの目の前でお前を兵たちに襲わせたら、今度はどんな顔をするか、楽しみだ」
「……悪趣味だね」
小刻みに震える指先から、鏡の破片が滑り落ちそうだ。手許が狂って縄ではなく手のほうを傷つけてしまい、出血で余計にぬるぬるする。
眩暈がまるで収まらないが、今この時に倒れるわけにはいかない。ふ、と息を吐いて、目を強く瞬いた。
「僕が悪趣味? ひょっとして、自分たちだけが綺麗なつもりででもいるのか? 言っておくけど、キースのほうが、これまでの人生で、僕よりもずっと残酷で、汚いことをしてきたんだよ。キースがどれだけの人間を殺してきたか、知っているのかい」
「……知ってるよ。キースが話してくれたもの」
「それでまた、『可哀想に』って薄っぺらい同情をしたわけかい? でも実際に、あの男がどれだけ残酷なことをしてきたのか、お前はその目で見てきたわけじゃない。そうだろう? 現にこの白雲宮でも、キースは拘束から逃れるために、三人もの兵を手にかけた。それはもう、部屋の中が血の海になるほどの、凄惨な殺し方だったらしいよ。迷いも躊躇いもありゃしない。あの男はずっとそうやって生きてきたんだ。人の命なんてなんとも思っちゃいないという点では、僕とまったくおんなじさ。その口で、どうして僕を非難できる? キースの手は真っ赤な血で染まっている。背中には、これまで殺した人間たちの怨念が染みついている。お前はそれを何も知らない。知らないのに、自分はキースのすべてを判っているというように、大きな顔をしている。その傲慢な鈍感さ、反吐が出そうになるね」
「だったら」
ファルが強い口調で言って、ユアンと真っ向から目を合わせた。
「──分けてもらうよ。話をして、目を見て、手を取って。キースが今まで一人で被ってきた、血も、罪も、怨念も、これからはわたしが半分負っていく。キースへの責めも、罰も、咎も、わたしが半分受ける。キースが苦しい思いをするのなら、わたしがその苦しみを半分もらう」
ユアンの眉が上がった。手が伸びてきて、乱暴に胸倉を掴まれる。
顔を近づけ、低い声を出した。
「……本当に、お前ってやつはどこまでも、僕の癇に障るよ。仔を産んだら、最も苦しい方法で殺してやる。生きている間、一瞬でも安寧が得られると思うな」
扉を開け、ファルを突き飛ばすようにして部屋の中へと入れた。よろけながら足を踏み入れて、転ばないように力の入らない足を踏ん張ったところで──
動きが止まった。
大きく目を見開く。
ユアンも部屋に一歩を踏み入れた瞬間に、足を止めて固まった。
兵が驚愕したように、「お、お前は」と叫び声を上げる。
白雲宮最深部の、薄暗い部屋の中央にある、大きな穴。
その前に、一人の男が立っている。
「よう、待ってたぜ」
と、キースが言った。