美しい人
「あんた、なんか今日はずいぶんと顔色がよくない?」
翌日、アルマにそう言われてしまった。
「そうですか?」
とぼけた顔をして答えながらも、ファルは感心した。満腹になるまで食べ物を詰め込んだのは昨夜のことだが、しかしそれだけで、そんなにもわかりやすく血色が良くなってしまうものなのか。意外と、人の身体というのは単純に出来ている。
「このお屋敷で頂く食事は美味しいですから」
「あれで……?」
アルマはますます訝しむ顔になった。彼女にとって、マットの作るまかない料理は、ちっとも満足のいく内容ではないらしい。そういえばよく、パンが固いの量が少ないのとこぼしては、ドリスに口うるさくお説教をされている。
キースは嫌いなものをひっそりと残したりはするが、料理について文句を言っているのは見たことがない。ギルノイ屋敷では、当主が好き嫌いの多い人で、ちょっとでも嫌いなものが出てきたら、大声で料理人を呼びだして怒鳴りつけていたものだが。
考えてみれば、ここに来てそんなに時間の経っていないファルでさえ、「キースは苦味の強い野菜が嫌いなんだな」ということに気づいたのだから、料理人のマットがそれに気づかないはずがないのである。それなのにどうして、同じように何度も出し続けるのだろう。
好き嫌いはよくない、とファルと同じように思っているのだったら、もっと調理法に工夫をしてみてもいいのではないか。野菜の苦味を押さえるやり方なんて、普通の料理人なら常識以前のこととして知っていそうなものだ。
──おかしなところだなあ。
どうしても、ファルの思考の行き着くところはそれになってしまう。
キースは決して横暴な当主ではないし、使用人を困らせるような振る舞いをしたりもしない。もう少し、なんていうか……
寛がせてあげてもいいんじゃないのかな。
「あんた、こそこそ厨房で盗み食いでもしてんじゃないの」
気がつけば、アルマはまだ疑わしそうな目つきで、じろじろとファルを検分していた。そうかそうか、そっちにいったか、と少しほっとする。
「しておりません」
大体、厨房は厨房で、マットが手を動かしながら、ちょこまかするファルをじっと目で追っている。あの状態で盗み食いが出来るのなら、その方法をぜひとも伝授して欲しいくらいだ。
「いい? 変な真似したって、すぐにわかるんだからね。あたしたちはずっとあんたを見てるんだから」
あたしたち、ときたか。
ファルが毎朝、几帳面に畳んでいる寝間着、そしてきちんと整えているベッド、メイド服の予備と持ってきた小さな荷物くらいしか入っていない衣装棚。
夜になって部屋に戻るたび、それらが少しずつ乱れていたり動いていたりするから、誰かが毎日のようにいちいち検めているのだろうなとは思っていたが、それは一人とは限らないということだ。四人の使用人たちが交代でやっているのだとすれば、ご苦労な話である。
「はい」
とりあえず、ファルは大人しく返事をしておいた。
キースの部屋から戻る時、お菓子のカケラでも寝間着につけてこないよう、気をつけないとなあ。
「それでアルマさん、今日は裏庭の掃除をするんですよね?」
と、話を変えるついでに、仕事の確認をする。アストン屋敷では、裏庭の掃除は数日おき、と決められているのだが、なにしろ面積が広いので時間もかかる。ぐずぐずしていると陽が暮れて、ドリスから大目玉だ。
アルマもそれを思い出したようで、「そうよ、急がなくっちゃ」と慌てだした。
「あたしは花壇のほうを綺麗にするから、あんたは枯れ葉を全部掃き集めて、一か所にまとめておいて。塀も綺麗にするのよ。それから壊れた柵でもあったらきちんと修理して。あんたの手に負えなきゃ、クライヴさんに言いなさい。それから……」
アルマはいろいろと不満は多いが、仕事をすべてファルに押しつけて自分はサボる、などということはしなかった。クライヴもドリスもマットも、そういう意味では、使用人としての務めはちゃんと果たしている。建物の中はもちろん、裏庭というあまり人の目には触れないところでさえ、美しく保とうとするくらいの熱意はある、ということだ。
しかしそれは、キースの命令によるものではないらしい。大体キースは、庭の状態がどうであろうが、気に留めたことはまるでない。下手をすると、花の名前すらひとつも知らなさそうだと、ファルは思っている。
「わたし、こんなにもお手入れの行き届いたお屋敷は、はじめてです」
思っていたことを、少しばかりオーバーにして口にしてみると、アルマは誇らしそうに胸を張った。
「そりゃそうよ。いつ、どこを見られても恥かしくないようにしておかなけりゃ。あたしがちゃんと仕事をしてるってこと、認めていただかなきゃならないもの」
「……はあ」
認めていただく?
誰に? キースに……じゃないよね。
「頑張って頑張って、いつか、よくやった、って褒めていただくんだ。あたし、そのためなら、なんだってやる」
アルマがうっとりと視線を空に飛ばして、夢見るような口調で言う。
「…………」
ファルは口を閉じ、じっと彼女を見た。
まるで少女のようにはにかんで、笑みを浮かべているアルマ。ぽうっと頬を上気させ、今にも足がふわふわと地面から浮き上がりそうだ。先日のドリスと同じように。
そして──
やっぱり、彼女の周囲を取り巻く色だけが、どろりと濁っていく。
どうして?
***
屋敷の表にある庭は、庭師によって整えられている。
この庭師は通いで、一日おきに来ては花を植え替えたり、伸びた枝を切り落としたりという作業を黙々とこなして、帰っていく。年齢はクライヴとそう変わりないように見えるが、正確なところは判らない。話したことがないからだ。
しかしそれは、ファルに限ったことではない。屋敷の使用人たちは、ほとんど誰もまともに、庭師と積極的に関わろうとしなかった。必要最小限のやり取りだけをして、あとはそちらを見もしない。そういえば、ここでは、使用人が他の誰かと気安くお喋りをしているところを見たことがなかった。
庭師も御者も、自分たちの仕事を済ませると、挨拶もそこそこにそそくさと立ち去っていく。その姿からは、あちらも、あまり関わり合いになりたくないと思っているようなのが窺える。仕事を終えた庭師が道具をまとめて屋敷から出ていくのを見かけたことがあるが、一度たりとも後ろを振り返ろうとせず、まるで逃げるような早足だった。
その背中は、いかにも、こんな薄気味悪いところに長居したくない、と言っているかのようだった。
とにかくそういうわけで、庭師から専門的な知恵を仕入れるでもなく、助けを借りるでもなく、アルマかドリスかの中途半端な腕で手入れをされている裏庭は、雑然とした感じはないものの、なんとも殺風景な眺めが広がっている。
植えてある木はすべて幹も枝も細いし、全体的にだらんとして元気がない。下は芝さえ敷かれていないし、雑草も伸びるのを遠慮するかのごとく萎れている。ただでさえこの天界は植物が育ちにくいので、知識がなければこうなるのは当然の帰結である。
アルマの花壇とやらも、どんなにせっせと世話をしたって、大輪の花が競うように咲き誇る、という状態になるのは難しそうだ。気の毒に。花が。
「せめてもうちょっと、張りが出るといいね」
ファルは箒を片手に、よしよしと慰めるようにして木の幹を撫でた。茶色でかさかさした幹は、ほんのりと温かい。うん、ちゃんと生きてるな。少しでも新しい芽が出るといいのだが。
笑み混じりの声をかけられたのは、その時だ。
「──まるで、人に話しかけるように言うんだね」
ファルがそちらに目を向けると、数歩くらい離れたところに、青年が立っていた。
見たことのない人だ。出入りの商人などではないことは、着ているものの上等さから推し量れる。ゆったりとした白いシャツに、同じく白のベスト、すらりと細身のズボンまでが白っぽい。ベストのボタンもシャツの胸元のボタンも外されていて、着こなしはくだけているけれど、布の素材は非常に高級だと、ファルでさえ一目で判った。
「──……」
ファルは咄嗟に言葉が出せなかった。
その場その場で物事を考え、自分の思うように行動するというファルであるのに、この瞬間、自分が何をどうすればいいのか、さっぱり判らなかった。頭が混乱したまま、ただ目の前の人物に目線が釘付けになったきり、動けない。
まるで時間が止まったように感じた。頬を撫でる風の感触も、枯れた葉っぱの匂いも、さっきまで聞こえていた鳥の声も、ファルの心から飛んで消えた。
どうして。
「まあ──まあ、まあ! ユアン様!」
後ろからけたたましい音量の声が飛んできて、びくりと身じろぎした。
息せき切って駆けてきたのはドリスだった。ファルの間近まで走り寄ってくるや否や、おそろしいまでに強い力で腕を掴まれ、引っ張られる。
「何をしてるの、ファル!」
「な……なに、って」
ファルの口から、ようやくぎこちなく言葉が出た。ドリスのきつい顔と剣幕に驚いたというより、青年から目を外せたことに安心した。
「ユアン様の前で、なにぼさっと突っ立ってるの! 頭を下げなさい! 膝を折って!」
「え……」
──平伏しろと?
なにがなんだか判らなかったが、ファルは素直に両膝を折って、その場に跪いた。地面に手をつき、頭を下げる。頭の上に、青年の目がじっと向けられているのを意識して、身体が強張った。今までに、こんなにも緊張したことはない。
ファルの傍ら、ドリスも片膝をついた。
「ユアン様、お越しでいらっしゃるのなら、前もって教えていただけたら、私ども、万端準備してお迎えいたしましたのに……! まあ、よりにもよって、こんな裏庭なんてみっともない場所に」
ドリスの声は、顔を見なくても喜色に溢れていることが判るほどに、高く弾んでいた。嬉しいのと、恥じ入っているのと、どう言えば自分の気持ちを相手に伝えられるのかもどかしがっているような声だ。
「うん、ごめんね。ふいに思い立って、来ちゃったんだよ。……さあ、立って、ドリス。そんなことをしたら君の服が汚れてしまうじゃないか」
青年は優しく言って、ドリスに手を差し伸べた。ドリスは恐縮し、そして感激しきって、「まあ、まあ」と同じ言葉を繰り返している。すでに涙声だ。
「ほら、君も」
白く滑らかな細い指が目の前に差し出されて、ファルはぎゅっと自分の手を拳にして握りしめた。
「いえ……いいえ。わたしは、このままで」
立ち上がったら、きっと足が震えているのがバレてしまう。それだけは避けたかった。どうしても、それを知られてはならない、ような気がした。
「そうですとも、ユアン様。そのような子供に触れては、ユアン様の美しい手までが汚れてしまいます。さあ、とにかく、中へ。美味しいお茶をすぐにお淹れいたしましょう」
ドリスは完全に浮き足立っていた。いつも厳めしい顔を保ち続け、笑うことを知らないような彼女が、今はすっかりとろけそうになっている。
「そう、ありがとう」
青年は静かに微笑んで返したが、しかし、足は動かさなかった。
「──ファル、といったっけ?」
名を呼ばれ、再びびくっと全身で反応してしまう。
「顔を上げてくれるかい? そんなに下を向いていられちゃ、君がどんな子だか、ちっとも見えない」
青年の言葉に、ドリスがいかにも渋々というように、「ファル、顔を上げなさい」と命じた。
「…………」
ファルはぐっと口を結んで、ゆっくりと顔を上げた。
──こちらを見下ろし、柔らかく笑んでいる青年は、非常に美しかった。
二十代前半くらいか。卵形の顔の上には、空のように明るい青色の切れ長の目と、高く形の良い鼻、微笑をかたどる唇が、絶妙に配置されている。きめの細かい肌は透き通りそうなくらい白く、絹のようだった。
もしも神というものがいるのなら、その神でさえ仕上がりに満足したはずだと思わずにいられない、整った面差し。そしてまた、ふわりと輝く黄金色の髪が、彼の美を一分の隙もなく完成させている。誰もが彼を見れば、ため息をついて、賞賛の声を上げずにはいられないだろう。
そうだ、青年は美しかった。人としてあり得ないほど、どこもかしこも完璧だった。万物に愛されそうな容貌は、神々しいまでの高貴ささえ備えていた。
……なのに、どうして。
こんなにも、真っ黒なのか。
青年の周囲を覆っているのはすでに「色」などではない。それは完全なる「闇」だ。
混じりけのない、正真正銘の闇色。ただそれだけだった。
こんなこと、あるわけない。こんな人、いるはずがない。ファルはこれまでの十七年間で、一度だって、こんなものを見たことはない。
だって、ファルにだけ見える「色」──それが人の性質を表すというのなら。
黒だけで塗り潰されたこの人は、一体、どんな。
血の気の失せた顔で、ファルは彼を見返すのが精一杯だった。握りしめた拳は、力を入れ過ぎて白い線が浮いている。こめかみからじわりと染み出した汗が、珠になって頬を滑り、地面へと落下した。
「……なかなか、面白いね」
青年は目を細めて、ぽつりと呟いた。
ファルはそれを見て、自分の感情の正体を知った。
──恐怖だ。
どんな扱いを受けてきても、これほどまでに身体の奥底から湧き上がる怖れを抱いたことはない。
全身を襲う震えが、ずっと止まらないほどに。
わたしはこの人が、怖い。
「さあ、まいりましょう、ユアン様」
ドリスに促され、今度は青年もそれに従った。ようやくファルから目線を離し、身体の向きを変え、足を動かす。
ゆったりとした足取りで屋敷の入口へと向かう青年。そしてそのすぐ後ろを歩き、頬を赤らめながら、笑顔を絶やさずあれこれと話しかけるドリス。二人の後ろ姿が遠ざかっていく。
……ドリスの色が、どんどん濁る。
青年の周りを囲む黒は、まるで触手を伸ばすかのような動きをしていた。長く細い無数の「闇色の手」は、斜め後方にいるドリスへと向かっている。
獲物を捕らえるように、絡み、包み、混じる。
ドリスの色が黒ずみを増していくのを見て、ファルは眩暈を覚えた。