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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
69/73

共闘



 ──目を開けると、すぐ近くに冷たい床の感触があった。

 また眠ってしまったのか、とぼんやり思いながら身を起こそうとしたが、まったく上手くいかなかった。まず手を床に突きたいのに、それがひどく困難だ。

 いや、腕自体が上がらないし、動かせない。

「…………」

 ああ……と、納得すると同時に、現在の状況も理解した。


 ファルは後ろ手に縛られて、どこかの部屋の床に転がされている。


 幸い、不自由なのは腕だけだったので、頭を少し上げて動かしてみた。

 そこは、美しい円形の部屋だった。玉座の間ほど広くはないが、殺風景な点では似たり寄ったりだ。

 あそこと最も異なるのは、こちらの部屋には窓がある、ということか。ガラスの向こうの空は、しらじらとした陽の光が射しはじめている。

 地界を出発したのはまだ夕日が落ちる頃だったというのに、今はもう夜が明けようとしているんだ──とファルは心に刻んだ。


 時計台の鐘が鳴るまで、あまり猶予がない。


「やあ、ようやくお目覚めかい?」

 のんびりとした声の主は、口許に微笑をたたえてファルを見下ろしていた。

 ふかふかとした手触りの良さそうな毛の敷物の上に置かれた椅子に腰かけて、ユアンは長い足を組んでいる。その椅子は、玉座のように凝った飾りは施されていないが、クッションのきいた上等そうなものだ。椅子の脇には小さなテーブルがあって、白いティーカップと短剣が乗っているのが見える。その部屋に調度はほんの少ししかなかったが、どれも豪華でよく磨き抜かれているようだった。

 しかしこの室内で、なにより目を引くのは、壁に沿って、複数の鏡が並んでいるところだろう。

 高い天井から床まで伸びた細く長い鏡が、まるでこの円形の部屋を支える柱のように、林立している。窓から入る白い光がきらきらと反射し、床に転がるファルや、悠然と椅子に座るユアンの姿をいくつも重なるように映し出して、目が廻りそうになった。

 ファルは苦労しながら、手を縛られたままの恰好で、上体を起こした。

 頭がくらくらするのは、なにもこの部屋の鏡のせいばかりではないらしい。どこにも傷はないにも関わらず、ひどく体力が消耗している。ほんの少し身体を動かしただけなのに、どっと疲労感が押し寄せて、額に汗が滲んだ。

 普通に座っているのもつらくて、すぐ後ろの壁に身をもたせかけた。

 ふ、と口から出す呼気が、我ながら弱々しい。

 片翼を失ったせいか、上手く身体の均衡が取れなかった。この不調も、そこから来ているのだろう。風船から徐々に空気が抜けていくように、全身から少しずつ力が失せていくのが判る。

 地界を発った時の元気さが嘘のようだ。あんなにも気持ちがよく、内部から溢れるように湧いてくる力で、これ以上なく充実していたのに。

 ふたつの翼を思いきり動かし、すべてのものから解き放たれるような快感に身を委ね、自在に空を舞い、音を鳴らして踊る風を感じた。


 ……もう、あんな風に飛べない。


「苦しいかい?」

 ユアンは楽しそうに目を細めている。ファルはそちらを見返して、口を開いた。

「平気だよ。わたし、こういうの慣れてるから」

「こういうの?」

「腕を縛られたり、攫われたり、閉じ込められたり、目を覚ましたら別の場所だったり」

 ユアンが声を立てて笑った。

 椅子から立ち上がり、近づいてくると、膝を曲げてファルの顔を覗き込む。

「それはお前が、そのように扱われるだけの存在である、ということさ。縛られ、繋がれ、鳥小屋に押し込まれ、卵を産まされ、絞められて、食われる。鳴き声を上げても、羽ばたいて暴れても、結局はそうなる運命なんだ。お前の言葉も、意志も、誰も聞いたりはしない。家畜というのは、人が利用するために飼育し、繁殖させ、処分されるだけのものだ。……自分を人と同じだなんて、勘違いしてはいけないよ」

 微笑はそのままで、口調は優しく聞こえるほどだ。しかしその空色の瞳には、温かみというものが完全に欠如していた。一分の隙もないほどの美貌が、この青年をさらに非人間的な存在に見せているようだった。

 翼を持つファルは、確かに人ではないのかもしれない。しかしユアンもまた、普通の「人」とは一線を画している。その彼からこんな台詞が出てくるのは、皮肉もいいところだと、ファルは少し笑ってしまった。

「何が可笑しい?」

 途端に、ユアンの空気が一変した。自分は笑みを絶やさなくても、他人に笑われるのは慣れていないらしい。咎める声は、氷の破片となって相手を突き刺しそうなほどに鋭く冷たい。

 彼の周囲を覆っている闇色が深くなった──ような気がしたが、今のファルにはそれもあまり覚束ない。

 これまでずっとはっきり見えていた「人の色」が、ぼやけて霞んでいる。

 おそらく、翼の半分を失ったあの時、ファルは天人の力をも、半分失ってしまったのだ。

 人ではなく、天人でもない。地界人でも、天界人でもない。


 では、ここにいる中途半端なファルは、一体何者なのだろう。


「……ねえ、ファル」

 また声の調子が変わった。今度のは、甘く耳をくすぐるような声音だった。蠱惑的な瞳が、真っ直ぐにファルの視線を捉えて離さない。まるで自分の内側に吸い寄せるような粘り気を伴っていた。

「いい子だから、僕の言うことを素直にお聞き。そうすれば、決して悪いようにはしない。後でちゃんと、他の天人にも会わせるよ。君は面白い子だから、大人しくしていれば、家畜ではなくペットとして、僕の傍で可愛がってあげるさ」

「…………」

 額から流れ落ちる汗が、目の中に入り込んでくる。何度か瞬きしてそれを払いながら、ファルはこちらに伸びてくる闇を見ていた。

「……それが、あなたの能力なの?」

 静かに問いかけると、ユアンがぴたりと口を噤んだ。

「わたしに人の色を見るおかしな力があるように、あなたには、黒い触手を伸ばして人の色に入り込む、おかしな力がある。そうでしょ? 以前、ドリスさんに向かって、あなたのその闇が伸びて絡んでいくのを見たよ。ドリスさんの色は、あなたの闇色と混ざって、どんどん濁って黒ずんでいった」

 ユアンは微笑を動かさない。しかしその瞳は、奇妙に暗い光を発して、ファルに据えつけられている。

「みんなが、あなたを崇拝し、あなたに盲目的に従った。あなたが美しいから、とても魅力的だから、天帝の息子だったから。でも、それだけじゃない。あなたのその力は……」

 ファルはじっとその顔を見つめた。


「──人を操る異能(・・・・・・)なんだね」


 ひゅ、と空気を切り裂いて、手の甲が飛んできた。

 高い音がして、ファルの身体がもんどり打つように再び床に倒れ込む。しなやかな細い体躯をしているのに、ユアンの力は容赦なく強烈だった。

 頬がじんじんと痺れて熱い。耳鳴りがして、目の前がますますぼやけた。口の中を切ったらしく、唇の端から赤い血が糸を引いて垂れる。

「……何を言っているんだ?」

 ユアンの声は低かった。すらりと立ち上がる。

 ファルは倒れたまま、彼を見上げた。

「誰も知らないんでしょ。キースでさえ、はっきりとは気づいていない。誰より美しくて、才気に溢れていて、天帝に次いで身分の高いあなたに、人々が惹かれるのは当然だと思っていた。でも、あなたには自覚があるはず。あなたは、他人の精神に干渉することが出来る能力を持っている。わたしには、それが闇色の触手になって見えていた。……今も、見える」

 以前ほどはっきりとではないけれど、それでもちゃんと見える。

 ユアンの周りから縦横無尽に伸ばされる黒い手。ファルのほうに向かってきたそれは、触れる手前で何かに弾かれたように方向を曲げ、するするとまた縮んでいった。

 ユアンの能力は、ファルに対しては無効、ということだ。その黒々とした色を、天人は受け付けない。

「何を言っているのか、さっぱり判らないね」

あなたもわたしと同じ(・・・・・・・・・・)異端だったんだね(・・・・・・・・)と言ってるんだよ」

「黙れ!」

 ユアンが甲高い声で怒鳴った。

 ずっと口許に浮かんでいた笑みが取り払われ、表情が歪んだ。


 クイートが、天界で始祖と呼ばれている人物について言っていたことを、ファルは思い出した。

 おそろしく自信家で、強欲で、傲慢な男。

 普通の人間の数十倍は、頭も良くて容姿も整って、人を転がすすべに長けており、自分に出来ないことはないと信じている。

 その膨れ上がって肥大化した自尊心が、「上から見下ろされることを」を、なによりも許さない。

 普段は柔らかな笑みの下に隠されているが、間違いなく始祖から受け継いだそういう性質を、ユアンはこの時、はじめて剥き出しにした。


 靴先が飛んできて、ファルの腹部にめり込んだ。

「……っく」

 衝撃で呼吸が止まる。思わず、呻き声を上げた。

 しかし、なおもユアンは攻撃を止めなかった。続けざまに肩を蹴られ、脇腹を蹴られ、頭を踏まれ、息継ぎも出来ない。ぎゅっと目を閉じると、激しい苦痛で瞼の裏に光が瞬いた。

 ファルがぐったりすると、ようやくユアンは足を振り上げるのを止めた。その代わり、手が伸びてきて、髪を掴まれる。

「……震えることしか出来なかった無能な子供が、生意気なことを言うようになったものだ。その反抗的な態度は、キースに教わったのか?」

 掴まれた髪をそのまま上へと引っ張られた。地肌から引きちぎられそうな痛みに、歯を喰いしばる。

「思い上がるな。今のお前はもう、満足に空を飛ぶことも出来ない。せいぜい自分の身を浮かせられるくらいさ。地界への遣いにもならない、役立たずだ。結局お前は底辺の場所で見苦しく這い廻ることしか出来ない、愚鈍で低劣な生き物でしかないんだよ。……そんなやつが、僕のものに手を出したかと思うと、虫唾が走る」

 青い炎を燃やしているようなユアンの眼が、ファルを覗き込んだ。

「──キースは僕だけの影だ、とそう言っただろう? お前のようなやつに割り込んでくる権利はない。キースが自分のものになったなんて思い違いをするなよ。あれは、これまでもこれからも、永久に僕のものだ」

 不意に髪を離し、ユアンが踵を返して椅子のほうへと戻っていった。しかしそこに座るわけではなく、テーブルの上にあった短剣を手に取って、また引き返してくる。

「一体どうやって、キースに取り入ったんだい? 少しは成長したとはいえ、まだまだ貧弱なこの身体でさ。たとえば、この蜂蜜色の髪の毛かな?」

 再び掴まれたと思ったら、ざくりという音をさせて、ユアンが剣の刃でファルの髪を切り落とした。

 まるで雑草を刈り取っていくような無造作なやり方で、次々に髪の毛を落としていく。ファルの霞んだ視界の中を、艶やかに波打つ髪の束がばらばらと降り注いでいき、床に散らばった。

 腰の近くまであった髪は、あっという間に肩の上まで短くなってしまった。うなじの辺りに風を感じる。毎日櫛で丁寧に梳かしつけてくれていたエレネに嘆かれそうだ。

「…………」

 キースも、長くなったこの髪を、よく指先で梳いていた。優しい手の感触の記憶までもが、一緒にずたずたに裁断されたようで、心臓がきゅっと縮むような気持ちになった。ファルには髪型に対するこだわりはないが、この頭を見たらキースはどんな顔をするだろうと思うと、それだけで悲しくなる。


 キースが気に入っているようだったから、このまま伸ばしていてもいいかと思っていたんだけどな……


「それとも、同じく蜂蜜色の、この輝く瞳かな?」

 短剣の切っ先が、すぐ目の前に突きつけられた。大きく見開かれたファルの瞳と、白く冷たい光を放つ刃先との距離は、ほんの指一本くらいしかない。二人のうちのどちらかがもう少し動けば、ファルは翼だけでなく、目も片方失うことになるだろう。

 ファルが身じろぎせずにいると、ユアンがまた笑いはじめた。

「まったく天人というのは可哀想だね。こんなことをされても、僕を恨むことも出来ないんだろう? だからお前らは家畜と同じだと言うんだよ。殺されても、食われても、放り捨てられても、文句も不平も言わず、黙って従うしかない哀れな生き物だ」

「……そうかな?」

 ファルの口から出る声は、吐息のようにか細い。

 呼吸をするたび、身体のあちこちが痛みで悲鳴を上げる。悪寒を伴った脱力感が、ファルから体力というものを根こそぎ搾り取ろうとしていた。

「確かに、わたしにはよく、わからないよ。人を憎むこと、恨むこと。殴られても、蹴られても、いつも、相手をどう思っていいのかわからなかった。……だって、どうしてそんなことをするのか、ちっとも理解できないんだもの。どうして、人は人に酷いことが出来るのか。自分だって殴られたり蹴られたりすれば嫌だろうに、どうして他人にはそれが出来るのか」

 剣の先端は変わらずすぐ前にあったが、ファルは構わず口を動かした。

「だから、あなたのこともわからない。どうして、こんなことが出来るの。天界に暮らす人たちを苦しめて、一体何を手に入れようとしているの、ユアン。……誰もいなくなった天界で、一人だけ地界を眺めていたって、ちっとも楽しくなんてない。わたし、経験したことがあるから、知ってるよ。人は、人と交わって、笑って、泣いて、喜んで、悲しんで、そうして生きていくもの。それを上から眺めているだけでは、決して心は満たされない。──あなたも、この世界の一部なのに、そこから外れて一人でいるだけでは、何も、得られない」

「黙れ」

 ユアンがもう一度言って、ファルの後頭部を掴み、首を捻じ曲げるようにして強引に自分の顔へと向けさせた。

「誰に向かって偉そうな口を叩いている? 僕はすべての頂点に立つ。お前なんて、残飯にたかる鬱陶しい虫くらいの存在でしかない。僕に跪いて、頭を垂れろ。泣いて許しを請い、助けを求めろ。そしてどこからも救いの手が差し伸べられないことに絶望するがいい。キースはもうお前の前には現れない。二度と僕のものに手を出さないと誓え」

 ユアンは笑っている。けれどその笑顔は、ぞっとするほど酷薄なものだ。

 しかしファルは怯まなかったし、引かなかった。

「いや」

 視線を逸らさず、正面から見返して、はっきりと言った。

「キースは誰のものでもない。ユアンのものでもないし、ライリーのものでもない。もちろん、わたしのものでもない。キースはキースだけのものだよ」

 身動きもろくに出来ず、あちこちが痛くて、どこもかしこも傷だらけで、気息奄々なこの状態でも、ファルの中に、恐怖心はどこを探しても存在していなかった。

 流れ落ちる汗が目に入るし、眩暈は一向に収まらないし、人の色もよく見えず、視界は朧になっているけれど、前方は澄み渡っている。

 頭を下げる必要なんてない。

 人と人とは、向かい合えば誰もが対等だ。

 ああ、そうか──と思う。



 今ここにいるファルの「心」は、どこにも属さず、何者にも縛られず、何に対しても屈しない。

 ファルはファル。

 これこそが、自由だ。



「お前ら天人は、そういう綺麗事しか言わないから、誰かに踏みにじられることしか出来ないのさ。翼を持っているからといって、自分たちが崇高な生き物だとでも思っているのか? お前の仲間が今、この白雲宮でどうやって浅ましく生き永らえているのか、見せてやろうか。光も射さない暗い檻の中に閉じ込められ、鎖に繋がれ、餌を与えられ、仔を産むために雄と雌とで交尾させられるという屈辱を与えられながら、細々と命を繋いでいるに過ぎないんだ。なのにやつらは何も出来ない。ただ嘆いて悲しむだけだ。何も持たない、ただ弱いだけの惨めな生き物なんだよ」

「──でも、痛みと苦しみは、知ってる」

 頭を掴むユアンの力には、加減というものがない。このまま、握り潰されてしまいそうだ。乱れる息の下から、ファルは言葉を引っ張り出した。

「それがどんなものかは、ちゃんと知ってる。知っているから、その痛み苦しみを、他人に与えようとは思わない」

 地界に来た天人の女性は、ファルに対して「天界に関わってはだめ」と警告を発した。

 ……あれはきっと、自分たちのようになってはだめだ、と言いたかったのだ。

「ユアンはそれを知らないんだね。ずっと周りに守られて、見上げられて、美しいと言われ続けて、人の心までも自分の意のままに操ってきたんでしょう? 痛みも苦しみも知らないから、自分以外の人にそれがあるということも判らない」

 だから、平気で人を傷つける。

「天人は、確かにいろいろ欠けているのかもしれない。……でもそれは、ユアンだって同じだよ」

 ごほっと咳き込む。息を吸ったり吐いたりするたびに、胸が激しく痛んだ。

「天人が生まれつき負の感情を持っていないように、ユアンも愛情という大事なものを持っていない。そういう風に、生まれてしまったんだね。この世に生まれ落ちたその時からずーっと、ユアンの中身は欠けたままだったんだね」

 ユアンと目を合わせ、ファルは痛烈に言い放った。


可哀想に(・・・・)


「…………」

 ユアンの顔から一切の表情が抜け落ちた。

「それさえ持っていれば、ちゃんと気づけたはずだったのに。唯一、キースが、キースだけが、心を操られなくたって、自分の意志でユアンの傍にいたってこと。キースの色は、ずっと澄んだ青色のままだった。キースはユアンのことが大事で、だからこそ自分の身を汚しても守ろうとしていた。本当に綺麗なもの、美しいものを見逃して、何を手に入れるっていうの、ユアン。あなたのやり方は、ただすべてを壊すだけ。痛みも苦しみも知らず、愛情を持っていない人のところに、幸福は生まれない。不幸も幸福もなければ、たとえ神様になったって、いつまで経っても空っぽのまま、生きなきゃいけない」

「……黙れ」

「だからこんな、破滅への道しか選べなかったんだよ!」

「黙れ!」

 ユアンが短剣を振り上げる。


 その刃先がファルの眼球を突き刺そうとした瞬間、扉が外から激しい勢いで叩かれた。


「ユアン様!」

 ユアンが手を止め、閉じられた扉へと視線を向けた。その横顔にもはや笑みはない。整った美貌はそのままだが、微笑で韜晦されない分、恐ろしいまでの無慈悲さを露わにしていた。

「──なんだ」

 ユアンの抑揚のない応答で、扉が開く。

 そこに立つ兵は、緊張に顔を強張らせていた。ちらっと倒れているファルを一瞥し、礼をしてから慌てて部屋に入ってくる。

「実は……」

 ユアンの耳元に囁かれた報告の内容は、ファルの耳には届かなかった。耳鳴りが未だ続いている上に、少し意識も朦朧としている。もう一度咳き込んだら、床に血の滴が飛び散った。

 兵の耳打ちに、ユアンは表情を変えなかった。しかし、ぼんやりとしている周囲の闇色が、ゆらっと揺れたのは見えた。

「……だから、油断するなと言っただろう?」

 ひんやりとした声には、怒りが滲んでいる。兵は蒼白になって、「も、申し訳ございません……!」と深々と頭を下げた。

「なんとしても探しだせ。それから──」

「はっ」

 直立不動の姿勢になった兵には見向きもせず、何かを言いかけたユアンは、ファルのほうをちらりと見てから言葉を止めた。

「……いや、いい。行け」

「はっ!」

 あたふたと逃げるように兵が退出する。

 ユアンはファルの傍らに屈み込んで、唇を吊り上げた。

「キースが逃げ出したそうだよ」

「…………」

 ファルは口を閉じて、彼を見返した。

「お前を助けに来るつもりかな? また捕まるに決まっているのに、愚かなことだね」

「そうかな……?」

 そう言って、少し笑ってみせた。


 ──キースは、まったく別の場所に向かっているのかもしれないよ?


 ファルはことんと頭を床につけた。

「……天人と違って、人は負の感情を持っているけれど、それを呑み込んでしまえる強さも持っている……」

 目を閉じて、そっと呟く。

「きっと、そういう強さに、天人は憧れた……」

 しぶとく足掻いて立ち向かっていく生命力、自分の弱さを克服していく逞しさ、地を這ってでも前へと進んでいこうとするその尊さに、限りない憧憬を抱くのだ。

 だから、ファルもそうでありたいと願う。



 向かう場所は違っても、共に戦おう、キース。





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