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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
68/73

突破



 キースの両側で腕を固めている男たちは、やはり白雲宮の兵だけあって、基本的な技術は習得しているようだった。

 真横に突き出されるようにして伸ばされた両腕は、一人ずつにがっちり関節をきめられて、みしみしと不吉な音が聞こえるほどだ。どこも損傷することなくこれを外して拘束から抜け出ることは、いかにキースでも不可能に近い。

 しかし、次の指示がいつ来るかも判らないこの状況で、同じ態勢を維持し続けるのも無理がある。三人の兵たちは、とにかく手足を縄で厳重に縛りつけておいた上で見張っていれば問題ないのではないか、という結論に達したらしかった。

「その前に、武器を外しておかないと」

「そうだな」

 一人自由に動ける兵が、キースの腰の後ろにあるナイフを取り上げた。


 さっきまで猛り狂っていたのが嘘のように、キースはそれに対して何も反応しなかった。

 声も上げないし、抵抗する様子もない。

 もう諦めたのだろうと、油断こそしないものの、兵たちの警戒心は明らかに緩みつつあった。


 ナイフを手にした兵は、その鞘をまじまじと眺めてから、中身を引き抜き、それが思った以上に上物であることを確認して、軽く口笛を吹いた。

「こりゃあ、エゼル家の紋じゃないか?」

 意外そうに言ってから、キースを見る。

「どうしてお前が、これを持っている?」

「形見として、貰い受けた」

 キースが無表情のまま答えると、再度腹部に衝撃が来た。兵たちが履いているのは重いブーツ状の軍靴なので、キースでなければとっくに内臓が破裂していたところだ。

「嘘をつくな。どこの誰が『アストンの犬』に形見分けなんて……形見?」

 呟くように言ってから、眉を寄せる。

「エゼル家の誰が死んだんだ」

「イーセンだ。イーセン・エゼル。ユアンによって地界に堕とされて、化け物になった。あいつの息の根を止めたのはおれだ。一応、おれの同僚だった男なんでね、形見くらい受け取ったところで罰は当たらないだろうさ」

 キースの返答に、三人の兵が互いの顔を見合わせた。どの表情にも、衝撃と戸惑いと不信が同じくらいの比率で現れている。

 イーセンは、この天界ではかなりの上流階級に属していた男だった。そんな人間が、地界に堕ちて化け物になって死んだという悲惨な末路を辿ったことに、兵たちは驚きを隠せないらしかった。この様子では、天帝の妻たちが地界に堕とされたことも知らないのかもしれない。

「地界に堕ちて──いや、堕とされただと?」

「そうだ」

「しかし、それは第一級犯罪者の受ける刑罰じゃ……」

「ユアンが法を順守する人間かどうか、もう嫌というほど知っているだろう」

「天界人が地界に堕ちたら化け物の姿になるというのは、本当の話なのか」

「間違いなく事実だな」

 兵たちが揃って言葉に詰まる。彼らが交わす目つきには、半信半疑ながら、ひやりとした怖れもちかちかと点灯しだしていた。

 キースは薄っすらした微笑を浮かべ、静かに言った。

「いずれお前らも、そうなるだろうさ。舌が切られただけの連中はまだ幸いだ。いいかよく聞け、お前らはただの使い捨ての駒だ。今後、使いものにならなくなったと見なされた時、少しでも不従順な姿勢をとった時、いいやそれでなくても──」

 言葉を切って、兵たちの顔を見渡す。


ちょっと(・・・・)退屈になった時(・・・・・・・)、ユアンは容赦なく、最深部の穴からお前たちを放り出すぞ。そこに一瞬でも躊躇があるなんて思ったら大間違いだ。地界で化け物になるってのがどういうことか、知ってるか? 全身が苦痛に苛まれ、髪は抜け、皮膚は剥がれ落ち、手足が変形して、言葉も出せなくなる。文字通り、人ではなくなるんだ。醜く変わり果てた姿で、暗い森の中を彷徨って生きるしかない」


 兵たちの顔から血の気が引いていく。冷気のような沈黙が流れた後で、「バカバカしい!」とキースの右側にいる兵が声を荒げた。

「そんなもん、出鱈目に決まってる! 大体、地界に堕ちて化け物になったやつを殺したってんなら、てめえもその時、地界にいたってことじゃねえか。だったらなんできさまは人間のままなんだよ? どうやって地界から天界に戻ってきた? 矛盾してるだろうがよ!」

 キースは冷ややかな目でそちらを見返した。

「どこが矛盾している? お前らだって、おれの相棒の翼を見ただろう。おれはあの翼で運ばれて、この天界へと戻ってきた。おれが地界に堕ちても、化け物にならなかった理由は……」

 深く息を吸って、吐く。兵たちを見据える眼に、力を込めた。


「おれが、アストンの血を(・・・・・・・)引いているから(・・・・・・・)だ」


「なに……?」

 兵たちは三人とも困惑したように目を瞬かせた。

「お前らも白雲宮の兵なら、天の一族の影についての話くらいは聞いたことがあるだろう。おれはライリー家に代々仕える影の一族、キース・アストンだ。『アストンの犬』はいついかなる時も完璧で、まるで不死身のようにどんな死地からも生還する──そんな噂を耳にしたことはなかったか?」

 キースの話し方は、普段とは違って、声の大きさにも抑揚のつけ方にも、かなり意図的な調節がされている。兵たちの耳には、もうキースの声以外の音は聞こえていないだろう。

「ダテに数百年もの間、影としての仕事をこなしてきたわけじゃないってことさ。代々繋がってきた血脈が、何も生み出すことなくただ漫然と続いてきたとでも思うのか。天の一族に仕えるには、それ相応の力と才気が必要だ。ずっと暗い場所で蠢いてきた影の一族が、自分の生命と任務を全うできるための秘法を親から子へひっそりと受け継いでいたとしても、なんの不思議もあるまい?」

「秘法……」

 兵の一人がぼうっとしたように繰り返す。困惑したように揺れていた合計六つの目は、今やどれも吸い付くようにキースへと向かっている。

「それがあるから、ユアンも『聞きたいことがある』と言っていたんじゃないか。その秘法を聞き出さない限り、ユアンはおれを殺さない。いや、殺せないんだ。なにしろおれは不死身だからな。アストンの秘法のおかげで、おれは地界に堕ちて化け物にもならず、平然と天界に戻ってきた」

「どんな……どんな秘法なんだ。アストン家の者でなくても、それを使うことは可能なのか?」

 そう問う兵の声は上擦っている。彼らは知らぬうちに、キースの手の内に嵌り込んでいた。両腕を拘束する二人の力も、最初よりずっと弱まっていることにも気づいていない。

 普通なら、ここまで上手くはいかなかっただろう。今現在直面している異常事態に、誰もが精神の平衡を欠いている、ということだ。この状況でまともに頭を働かせられたら、そちらのほうがおかしい。

 ユアンの残忍さ冷酷さをその目で見ている兵たちは、従いながら同時に不安も抱いている。もしも自分が地界に捨てられるような事態になったら、という怯えが、キースの言葉に縋りつこうとする気配を出しはじめていた。

 本当にそんな秘法があれば、もう何も怖くなくなる──

「…………」

 キースは何も言わず、無言で自分の脇にあるものに視線を走らせた。


 兵が、震える手を伸ばし、ホルスターから黒光りする物体を抜き出す。


 生まれてはじめて目にするその奇妙な形状をしたものに、兵たちの目が集中した。ずしりとした鉄の塊は、不可解な魅力をもって人を惹きつけずにはいられない。兵らの興奮した瞳には、畏怖のような感情が浮かんでいる。

「これが……」

「中に、アストンに代々伝わる秘薬が入っている。そこのレバーを引けば、液体が出てくる仕組みだ。それを口にすれば、見たことのない景色にお目にかかれるぞ」

「ど、どんな」

痛みも苦しみも(・・・・・・・)一切感じず(・・・・・)もう死を怖れなくても(・・・・・・・・・・)いい身体になれる(・・・・・・・・)、ということさ」

「…………」

 半ば暗示状態に入り込んでいるとはいえ、それでもその言葉をすぐに鵜呑みにするほど、理性は失っていなかったらしい。魅入るようにそれを見つめてごくりと唾を飲み込み、兵はその筒先をキースに向けた。

「……俺たちを騙しているんじゃないだろうな? 本当にそんな都合のいい秘薬があるとは信じられん。実際は、毒が入っているんじゃないのか」

「薬と毒なんてものは、そもそも紙一重だろう。信じられないのなら信じなくて構わない。お前らが知りたがるから教えてやったまでのことだ。疑うなら、それをそのままおれの口に入れてレバーを引け」

 キースは自ら口を開けた。自分の前に立つ兵を見上げ、にやりと笑う。

「その代わり、絶対に外すなよ。零さず漏らさず、確実に口に入れろ。なにしろ貴重な秘薬だ。しかもあと一回分しかない。おれがここから逃げおおせるか、お前が選ばれた人間になって栄光を勝ち取るか、そのどちらかを、自分で選べ」

 決して揺るがないキースの声と態度に、兵はますます動揺した。「一回分……」と逡巡したように呟いて、手にしている黒い鉄の塊を見る。


 その時、兵たちの頭に過ぎったものは、どれも大体同じようなものだっただろう。

 超人的な力を得て、他の誰よりも強く不死身となった自分が、帝冠を被り玉座に腰かける姿……


「おい、ちょっとそれ、俺に──」

 キースの左側にいた兵が、我慢ならなくなったように声を出して片手を伸ばした。見せろ、と言おうとしたのか、試させろ、と言おうとしたのかは定かではないが、その行動は迷いを決断に移させる契機にしかならなかった。

 特別な力を独り占めに、という欲を一気に煽られ、立っていた兵は素早く鉄を自分の口の中に突っ込み、「レバー」を引いた。

 キースの無表情は、変わらない。

 ガアン、という銃声が室内に反響した。




「ひいっ!」

 棒のように後ろへと倒れた仲間の無残な死に様を見て、残り二人の兵が悲鳴を上げた。

 自分の口腔内に銃弾を発射させた兵は、ぱかっと口を開けたまま絶命していた。同じく見開かれた目は、驚いたように天井に向けられている。口の中と後頭部から噴き出した血飛沫が、床に散ってとろりと流れていた。

「こ、こいつ……やっぱり騙しやがって!」

 右の腕を掴んでいた兵が真っ赤な顔で喚き、拘束を外して立ち上がる。その手が腰の短剣にかかると同時に、キースは上体を大きく屈ませて身を捻った。

 茫然とした状態で、それでも手は放さなかった左側の兵の身体が、ぐいんと持ち上げられる。咄嗟のことに対処できなかった兵はそのまま半分ほど宙に浮いて、キースの上に覆い被さるような形になった。

 驚いたのは短剣をキース目がけて振り下ろしていた兵のほうだ。しかし、もはやその時点では、勢いがついた剣を止めることなど出来はしない。

「うわあっ!」

「ぎゃっ!」

 二つの叫び声が同時に上がり、短剣はキースの盾となった兵の背中を切り裂いた。

 鮮やかな血煙を噴出させる二人目の兵に、短剣を持った兵は完全に度を失った。意味のない言葉を呪詛のように怒鳴り散らし、再度短剣を振りかぶる。その目には抑制を失った狂気のような光があった。

 キースは盾にしていた兵の身体を、素早く自分の上から跳ね除けた。そのついでに、するりとそいつの腰から短剣を抜き去る。素早く右手に構え、叩きつけるように上から真っ直ぐ向かってくる刃を、顔の手前で受けた。

 ギイン、と金属質の音が鳴る。

 猛烈な速度で突き出され、あらゆる角度から向かってくる攻撃のすべてを、キースは冷淡に、そして正確に撥ね返した。ギン、ギン、という剣戟の音だけが響き渡る。閃く白刃が、頼りない明かりを反射して煌めき、重なるたびに火花を放っていた。

 凄まじく形相を歪ませて向かってきた一撃を、キースが下から掬い上げるようにして弾いた。

「うがっ!」

 兵の手から柄が離れ、短剣は上空に舞い上がった。くるくると円を描いて放物線を辿り、落下する。きらりと光る鋭い切っ先は、重力を伴って真っ直ぐ下を向いていた。

 向かう先には、武器を見失って焦りながら周囲を見回す兵の頭頂部がある。

 キースは黙って、その結末を見届けた。



          ***



 ナイフを鞘に収め、銃をホルスターにしまってから、キースはその血塗れの惨状となった部屋を出た。

 玉座の間からは連れ出されたが、ここも白雲宮の十階である。三人がかりでも、暴れるキースを移動させるのは難事であったらしい。同じ階とはいっても面積が広いので、現在の場所から玉座の間の扉は見えない。

 さすがに三人いればいいだろうと思ったのか、それとも単純に手が足りないのか、部屋の外に見張りはいなかった。玉座の間でも十五人いた兵の半数くらいは負傷させたはずだし、その連中はしばらく使いものにならない。余計なほうに廻す人材が不足していたとしても、無理はなかった。

 ……いや、というより。

 制圧したとはいっても、白雲宮は未だ態勢がまったく整っていないのだろう。おそらく兵力のほとんどは、建物の中ではなく外のほうに割かれている。ユアンは現天帝を名乗っていたが、ひょっとしたら、ライリー家でさえ彼のこのやり方には脅威を覚えているのかもしれない。


 国を放置し、民を捨て、このがらんどうのような白雲宮で一人、神として君臨しようと。


 それが本当に実現可能な望みなのか、キースには判らない。しかしユアンは可能だと信じて行動し、そこに迷いも躊躇いもないだろう。一度足を踏み出したからには、現在の天界に暮らす人々の生命をすべて犠牲にしても、地界を混乱に巻き込んでも、笑いながら進み続ける。

 しかし、それは。

「──それは、人間には過ぎた望みだ、ユアン……」

 キースはぽつりと呟いて、視線を上げ、歩き出した。




 キースが一直線に足を向けたのは玉座の間だった。

 これだけ静かだということは、ユアンとファルはこの階にはいないのだろう。翼を切り落とされて意識を失ったファルの姿が脳裏に甦り、ぐっと拳を握った。呼吸を繰り返し、腹の底から突き上げてくる焦燥を抑えつける。

 ──もう、間違えない。

 玉座の間の扉の前にも、見張りは置かれていなかった。不用心だなと少し呆れる。新しい主に見向きもされない玉座など、守る必要はないと考えているのだろうか。


 ……あるいは、かえってそのほうが、本当に隠したいものから人を遠ざけるのに都合がいい、と思ったか。


「甘いぜ、ユアン」

 玉座の間の扉を開き、キースはつかつかと室内に入っていった。

 部屋の中央には破壊されたシャンデリアの残骸。血の跡はそこら中に残っているが、倒れていた兵は他の場所に連れて行かれたのか一人もいない。隠し扉は閉ざされて、壁の一部となっている。

 散らばる破片を構わず踏んで歩いた。気の毒な前天帝の遺体は、おかしな格好で床に転がり、捨て置かれたままだ。キースはその横を通り過ぎ、空の玉座をも素通りして、椅子の背後にある、扉正面奥の壁の前に立った。

 天井から下りている金色の緞帳を掴み、一気に剥ぎ取る。

 その向こうにも、他と変わりない白い壁があるだけである。キースはその壁に耳を当て、注意深く拳で叩いてみた。


 予想通りだ。音が違う。


「どっちが迂闊だって?」

 ユアンはキースに隠し扉の存在など示してはいけなかったのだ。あそこから兵たちがぞろぞろと姿を現した時から、キースの頭にはこのことが閃いていた。

 頭の固い上の人間は、柔軟な発想力に乏しい分、ひとつの考え方に固執する。人目に触れさせたくないものは扉の中に。さらにその扉は壁の中に。

 いちばん目立って、いちばん目立たない場所に。

 一つ隠し扉がある場所に、さらにもう一つ別の隠し扉があるとは思わないだろう、ということか。どんなものでも裏を読みたがるマクラム家あたりが考えついたことかもしれない。

 音を探って、本物の壁と、あちら側が空洞になっている壁との境界を見つけた。掌を置き、力を入れて押す。じりじりとだが確実に、動く感触があった。

 ごご、と重い音がする。床を擦って、壁が口を開けていった。

 扉の向こうは真っ暗だった。窓もなく、明かりもない。玉座の間から射し入る頼りない光からその先に階段が連なっているのが見て取れた。

 十一階への、入口だ。

 カツンという靴音をさせて、キースは一段目に足をかけた。



          ***



「驚いた、本当に来たのね」

 階段を上りきった先には、先客がいた。

 先客というより、この場所を訪問するかもしれない客を待ち構えていた、というべきか。階段の先にあった踊り場のような狭いスペースは、やっぱり窓はないが、壁面に取り付けられたランプが周囲を照らしている。

 その真ん中に、女が一人、笑みながら立っていた。

 二十代はじめくらいの、若い女だ。すらりとした身体にぴったりと密着するような衣服を身につけ、ことさらその均整のとれた肢体を強調させている。扇情的ではあるが、その顔に乗っている笑いはまったく友好的ではない。

 ファルもあと数年すればこれくらいになるのかね──とちらっと頭を過ぎったのはそんな埒もないことで、あとはキースはその女にほとんど関心を向けなかった。視線はじっと彼女の後ろにある鉄製の扉へと向けられている。

「ちょっと、聞いてるの?」

 キースがまったく返事もせずに余所を向いているため、女が苛立たしげな声を出した。足踏みをして、靴の踵を鳴らす。

「あんたはここの番人か」

 ようやくキースの目が自分のほうを向いたことに満足したのか、女が唇を上げた。

「ええそうよ。ユアン様のご命令でね。ひょっとしたら大きなネズミが入り込むかもしれないからって」

 一応、手は打っていたわけだ。

「その扉の向こうに何がいるのか、知っているのか?」

「ええ、教えていただいたわよ。空を飛ぶ家畜でしょ?」

 女が笑みを深める。目をとろんと細めて、うっとりと夢見るような表情になった。

「他にはだーれも知らないんですってね。それくらいの秘密を、私だけに教えてくださったのよ。特別だって。それだけ、今のユアン様は私に心を許してくださっているということよ。あんたと違ってね。キース……キース・アストン」

 キースがわずかに首を傾げると、女は喉の奥で笑い声を立てた。

「はじめまして、よね。あんたは私のことを知らないもの。でも私はあんたのことを知ってた。ずっと前からね。ユアン様の最も近くにいられる影の一族、アストンの犬。私がどれほどあんたを憎く妬ましく思ったか……なのにあんたは、ユアン様を裏切った! 一族の血に背いて、つまらない子供を選んだ! それを知った時には、怒りで頭がどうかなりそうだったわ。兄は喜んでいたけれどね。これで自分がユアン様の『一番』になれると」

 その言葉に、目を瞠る。

 女の長い髪は明るい茶色。ぎらぎらとした目は兄のように垂れてはおらず、むしろ吊り上がっていたが、どこか軽そうな鳶色は同じだ。


「……イーセンの妹か」

「そうよ。もう少しで、あんたとは夫婦になるところだったわね」


 何が面白いのか、くくくっと笑っている。人を小馬鹿にするようなその笑い方もイーセンとよく似ていた。

「それは危ないところだった」

 キースは本気でホッとした。いくら美しくても、こんな笑い方をする女を妻になんて、死んでも御免だ。


 あのまま天界にいたら辿っていたかもしれない道の先にいたであろう女。

 こうして面と向かって対峙して、キースはその道とはすでに決別を果たしていたことを実感した。


「あら、つれないこと。私はわりと満更でもなかったけど。だってアストン家に嫁入りすれば、それだけユアン様に近づけるもの」

「悪いが、あんたは俺の趣味じゃない」

「そうよね、あんたの趣味は、翼の生えた気色の悪い子供だったわね。おぞましいこと」

 本当に気分の悪そうな顔で吐き捨てながら、女が腰の後ろに片手を廻し、態勢を整える。鳶色の瞳に凶悪そうな光が宿り、全身から殺気が放出された。

 キースも手を後ろにやって、ナイフの柄に触れた。

「イーセンは死んだ。知ってるか?」

「あらそう。だけどあんなやつ、どうだっていい。ユアン様の役に立たなかったから死んだ。それだけのことでしょ」

 女の顔にも声にも、同情や憐れみは一切なかった。

「ちょうどいいわ。兄がいなくなって、エゼル家の跡継ぎは私。ライリーの影はアストンではなく、エゼルになるの。あんたを殺して、私がユアン様の傍につく」

「……それは無理だ」

 キースが言い終えないうちに、ナイフがしゅっと空気を裂いて向かってきた。

 次々に繰り出される攻撃を避けたが、狭いこともあって動きが制限される。エゼル家はナイフを扱うことにかけては一流なのか、熟練された手さばきは兵たちよりもよほど手強かった。

 ナイフの刃がキースのシャツの袖を切り裂き、頬を掠め、脇に傷をつける。じわりと滲んでくる血で、白いシャツが赤く染まっていった。

「邪魔なのよ! どうして戻ってきたのよ、あんた! ユアン様に、あんたは必要ない!」

「──そうだな」

 ナイフをかわしながら、キースは同意した。


「ユアンには、誰も必要ない」


 言うと同時に、向かってきた腕を掴んで捻り上げる。ぎゃっと呻いて女が蹴りを入れてきたが、それをもう片手で押さえて腹部を膝で蹴り上げた。その手からナイフが滑り落ち、うずくまりかけたところを、首の後ろを狙って手刀を入れる。

「……く」

 美しく整った顔を歪めて、女がくずおれるように倒れ込む。気を失う一歩手前で、キースは彼女の目の前に、自分が持っていたナイフを放り投げた。

「イーセンの形見だ、返す。それから言っておくが、ファルはあんたの数万倍、綺麗な娘だ。おれの趣味は悪くない」

 がくりと女の頭が垂れたのを見届けて、鉄の扉の前に立った。

 取っ手には大きくて頑丈そうな錠がついている。キースは銃を出して、狙いをつけ、引き金を引いた。

 耳が痺れそうな銃声が轟き、錠が吹っ飛ぶようにして壊れる。

 取っ手に手をかけ、ゆっくりと開けた。


 暗闇の中で、いくつもの目が怯えるようにこちらを見ていた。





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