呪縛
ファルを背にして、キースは鋭い眼でざっと周囲を見回した。
部屋に入ってきた兵は、素早く数えたところ全部で十五人ほどだった。そのうちの二人が扉へと走って出口を塞ぎ、残りが広がるように散って、キースとファルの二人を囲んだ。
すでに兵たちが入ってきた隠し扉は封鎖されて、キースたちはあっという間に玉座の間に閉じ込められた。特に指示する者もいないのに、彼らの動きには遅滞がなく、迷いもない。
ここにいる白雲宮の兵たちは、厳しい訓練を受けているというのとはまた別に、正当ではない手段で代替わりをした新しい天帝にあっさり鞍替えして下につくことを自ら選んだ人間たちでもある、ということだ。忠誠も信義も持ち合わせていない分、命令されれば仲間の舌を切ったり、侵入者の首を刎ねることくらいは、平然とやってのけるのだろう。
兵たちが手にしているのは、ほとんどが軽くて扱いやすい短剣だった。白雲宮では、長剣は式の時などにしか使用されない。槍を持っている者もいるが、こんな場合は逆に邪魔になる。あとは腰に差した金属製の棍棒くらいか。地界の先進的な武器に比べればどうしても見劣りするが、それぞれの習熟度は高い。
「ファル、飛べ」
視線は兵たちのほうに向けたまま、キースは低い声で囁いた。
でも、と躊躇するように呟く声が聞こえたが、黙殺した。ちゃんと顔を向けて説得する余裕はない。頼むから、という気持ちで握っていた手にぐっと力を込めると、一拍の間を置いて、その手があちらから離れていった。
軽い風が巻き起こる。
兵たちの警戒と注意は、ほとんどすべて、キースにのみ集中していた。いかにも無力そうな少女に対しては、完全に舐めきってろくに目を向けてもいなかった。何をしたところで、すぐに潰せると高を括っていたのだろう。
──が、跳躍と同時に翼を出して、天井近くまで一気に飛翔するファルの姿は、兵たちの度肝を抜いたらしい。
全員の目が大きく見開かれ、揃ってぴたりと動きが静止する。どの表情も、見ているものが理解できないのか、思考の空白に陥っているようだった。
それが驚愕と混乱に変わる前に、キースは迅速に行動した。身を伏せ気味にして床を蹴り、未だ硬直状態にある兵のすぐ間近まで風のように迫る。はっと気づいた兵が、慌てて武器を構え直した時にはもう、キースの拳が腹部に食い込んでいた。兵は悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
「な……」
目の前で急転した出来事に、未だ現実が把握できないままの兵たちは、ますます動揺した。一人が焦ったように手にした短剣を突き出してきたが、冷静さが欠けているため狙いが正確ではない。キースは身を捻るようにして攻撃を避け、そのまま一回転して回し蹴りを見舞った。鞭が空を切るような音がして、兵の身体が吹っ飛んでいく。
そちらに連中の意識が向けられた隙に、間髪入れず、すぐさま近くにいる別の兵の後頭部を掌で掴み、顔面を床に叩きつけた。ぐしゃりと鼻が潰れ、歯が折れる。血だらけの顔を手で覆って、兵は転げまわって叫び声を上げた。
「気にするな、あれはああいう生き物なんだ。放っておいても問題ない。不細工な鳥のなり損ないとでも思えばいいさ」
ゆったりと玉座に腰かけたまま、動じることなくユアンが言う。その声は最初から何も変わらず、柔らかいままだった。
ユアンの言葉で、兵たちは恐慌状態に入る一歩手前で踏みとどまったらしい。当惑気味に顔を見合わせたが、一斉にキースへと向けた目には、また闘志が戻ってきていた。
短剣を握る手に、力が込められる。
「この野郎、ふざけやがって……」
はじめて目の当たりにした未知の生物に対する困惑と入れ替わるように、急速に湧き上がってきた憤怒の念が、兵たちの顔を覆っている。彼らの全身からは、凶暴な波動がゆらゆらと揺らめくように立ち昇っていた。
……あと十二人。
キースは冷静に残りを数えた。ユアンの横槍で思ったほど形を崩すことが出来なかったが、考えても仕方ない。素早く頭を切り替える。
その右手には、短剣がいつの間にか収まっている。攻撃の途中で掠め取ったものだ。兵たちとは対照的に、キースは両手を無造作に下げ、ほとんど構えも取らなかった。
ちらりと頭上に目をやる。翼を広げたファルは、シャンデリアの下部にあるガラスの飾りに掴まって、こちらを見下ろしていた。天井が高いのが幸いして、あの位置ならたとえ短剣や槍を投げたところで彼女にまでは届かない。
青い顔で息を詰めるようにこちらを見つめていたファルは、キースと一瞬視線が合うと、力強く頷いた。
飾りを掴みながら、小さく旋回するように飛びはじめる。ガラスがぶつかる耳障りな音、そしてギシギシと軋むような不吉な音を立てて、シャンデリアが揺れた。
「──来ないのか?」
キースは兵たちに目を戻し、落ち着いた声で訊ねた。
「おれはまだ、掠り傷もついていないぞ。たった一人に、白雲宮の兵がいいザマだな」
挑発するように唇を上げると、なんだと、と兵たちの形相がさらに歪んだ。
じり、と足が動いて、距離を縮めてくる。この時点ではまだ、彼らは自分たちの絶対的優勢を確信していただろう。いくら動きが早く、一撃で相手を仕留める腕を持っていようとも、十対一では勝負は見えている。
呼吸を整え、機を窺う。キースを中心にして取り囲み、短剣の刃先が同じ方向を向いた。この剣がすべてキースの身体を貫いたなら即死だ。下手に避ければ、死よりもなお惨いことになる。
兵たちが攻撃に備えて息を吸い込み、緊迫した空気が張り詰めた、その瞬間。
何かが壊れる大きな音がして、天井からシャンデリアが落下した。
華美な装飾がなされた大型のシャンデリアは、猛烈な勢いで床に激突した。大音響が轟き、床にぶつかって砕けたガラスの破片が、辺り一面に飛散する。突然のことに、兵たちは全員が思わず自分を庇うように身を伏せた。それと同時に、キースが疾走をはじめる。
二人の兵を蹴り飛ばし、囲いを突破して、するりと玉座の背後に廻った。
「全員動くな」
ユアンの首筋に短剣を当てて、周囲を睥睨しながらキースはきっぱりと言った。
兵たちがその場に縫い付けられたように動きを止める。誰もが蒼白になって、棒のように立ち尽くした。
「兵を退かせろ、ユアン」
シャンデリアが部屋の中央に落ちても、剣を喉元に突きつけられても、ユアンはまったく表情を変えなかった。それどころか妙に楽しげにくすくす笑いながら、「やれやれ」と肩を竦めた。
「これだけ束になっても君一人に太刀打ちできないとは、白雲宮の兵はもう少しマシだと思っていたよ。こんな状況で君がどういう策を取るか、ちょっと頭を働かせてみたら、簡単に予測できそうなものなのに」
「所詮、自己保身と、他人より少しでも上の立場にいたいという欲が勝った連中だろうからな。そもそも少しでも頭が廻ったら、まず真っ先にここから逃げ出すことを考えるさ」
人の命を紙屑のようにしか考えていないユアンに仕えるというのがどういうことか、少しでも考えれば判るはず。
「ひどいなあ」
ユアンが可笑しそうに噴き出した。
「二人、なかなかいいコンビネーションだったね。天人は決して他者を傷つけられない弱い生き物だというから、僕も侮っていたよ。……どうやらあれは、天人の中でも異端らしい」
言いながら、目線を頭上へと向ける。シャンデリアを落とし、天井近くに滞空していたファルは、兵たちと同じように真っ青だった。肩で息をして、それでも気丈にユアンのことを見返している。
「……あれが、天人の翼か」
ユアンが薄く笑いながら、独り言のように呟く。
上に向けられた硬玉のような光を放つ青い瞳、晒けだされた陶磁器のように滑らかな白い喉に、キースの裡でぞくりとした冷気が走った。
「ユアン、兵を退かせろ」
キースは押し殺した声音でもう一度同じ言葉を繰り返した。理由の判らない焦燥が、胸の奥から突き上げてくるようだった。ユアンの視線がファルのほうを向いているというだけのことなのに、それがなにより恐ろしく感じた。
「君の望みはなんだい、キース」
ユアンが天井を見上げたまま、さらりと聞いた。
「天人という土産を持って、僕の許しを請いに来たのかと思ったら、そうでもないようだ。じゃあ、何をしに天界に戻ってきたんだい?」
「……おれはもう影になるつもりはない。天帝でも神でも、ユアンがなりたいなら、なればいい。白雲宮で何が起ころうと、天の一族同士で争おうと、関心がない。……だが、その野望のために、これ以上天人を利用することは、許さない」
「ええ?」
ユアンはようやく目線をファルから外し、後ろにいるキースへと戻した。さも面白いことを聞いたというように、声を立てて笑いだす。
「キース、君、いつから天人の庇護者に廻ったの? あそこにいるちっぽけな娘のために、わざわざ危険を冒して天界にのこのこと舞い戻ってきたわけ? 傑作だなあ。君ともあろう者が、あんなつまらない女にそこまで骨抜きにされるとは、思ってもいなかった」
笑いながらだが、そこには確実に、冷ややかな侮蔑も含んでいる。射るような視線が突き刺さり、キースの額にじわりと汗が滲んだ。
「……天人はどこにいる?」
「僕がそれに答えるとでも?」
眉を上げて問うキースと、笑みながら返すユアン。
短剣を突きつけている側と脅されている側でありながら、精神的に押されているのはキースのほうだった。
「キース、思い出してごらん。今までずっと君が生きてきたのは、誰のためだった? 君は、僕を守るため……そのためだけに生まれてきたんだ。そうじゃないかい? 僕のためにいつでも命を投げ出す覚悟を負っている、と言っていたよね。君の命は、僕のためだけに存在していたんだ。その君が、僕を傷つけるような真似が出来ると思うかい?」
いつまでも耳に残るような、甘く優しい声だった。キースは唇を固く結び、身動きしない。ユアンの瞳が嫣然と細められる。
「……じゃあ、試してみようか?」
その言葉が終わらないうちに、ユアンがふわりと動いた。
「っ!」
予想外のその行動に、キースはびくりと反応して、咄嗟に短剣を構え直した。しかしユアンはまったく頓着しなかった。いや、それどころか、剣に向かって、自らの喉を近づけてきた。
キースが目を瞠る。勝手に口が動いた。
「やめろ……!」
輝く刃先が、色素の薄い脆そうな皮膚を掠め、鮮血を噴き出そうとした刹那──
キースは短剣を投げ捨てた。
キースの手を離れた短剣は、床に落ちて、そのまま回転しながら滑っていった。それを誰より信じられない思いで見ていたのはキースだった。自分が何をしたのか自覚した途端、一気に全身から汗が噴き出してくる。
──おれは、なにを。
動きを止めた短剣を凝視し、次いで、自分の手に目を移す。指の先が、ぶるぶると小刻みに震えていた。自分自身が取った「ユアンが傷つけられようとするのを阻止する」という行動に、手までが愕然としているようだった。
ユアンに剣を向けていたのはキースだったというのに、それでも、キースの内部の奥深くに刷り込まれた無意識は、ユアンを守る方向に働いた。
ユアンが笑った。
「ほらね、キース。君に僕を害することなんて、出来やしない。だから君は生まれながらの僕の影だと言うのさ。光なくしては、影は存在できない。何度もそう教えてあげただろう?」
「…………」
キースは血の気の抜けた顔で、震える右手を見つめ続けた。激しく暴れる鼓動が胸板を打ちつける。
何度も何度も、幼い頃から聞かされたユアンの声が、耳の奥で反響している。
今になって、思い知った。
──あれはまさに、呪いだったのだと。
***
キースは物心ついた頃から、父親に格闘と武器の扱い方を徹底的に叩き込まれた。
泣き言を言おうが、弱音を吐こうが、聞く耳持たずで無視される。すでに影としての仕事をしていた父親に、幼い子供が敵うはずもなかった。どれだけ自分を鼓舞して向かっていったところで、容赦なく投げ飛ばされ、蹴られ、打ち据えられるだけだ。
身体中を痣だらけにし、数えきれないほどの殴打で腹の中のものをすべて吐いても、どこからも慰撫も救済も与えられなかった。死なない程度に手当てをされた後は、完全に放置され、捨て置かれた。暗い部屋の中、ベッドに潜ってひたすら痛みに耐えるしか、キースに残された道はなかった。
広い屋敷に母親が在宅していたことは、滅多にない。いたとしても、彼女が息子に目を向けることはなかった。たとえすぐ前にいても、見えないもののように視線を逸らされるだけ。話しかけても、返事が返ってきたことはない。彼女の中では、キースは透明な存在も同然だった。
食事の中には、時々、毒が混ぜてあった。
それも訓練の一環だったのだろう。身体が毒に慣れるためのものだから、決して致死量まではいかない。しかしまだ子供だったキースは、少し口に入れただけで、恐ろしいまでの苦痛に襲われた。燃えるような熱が生じ、頭が痺れ、全身が痛みに苛まれる。助けを求めようにも、使用人は冷たい目で観察しているだけで、指一本動かそうとはしない。
自分がどれくらいの毒で死ぬか、こいつらは見極めようとしているんだ……と思うと、そちらのほうがよほど恐怖を感じた。
だったら苦しそうな顔はすまい。意地でも、この連中に弱みを見せたりはしない。自分がのた打ち回るところを、喜悦と好奇に満ちた目で眺めるだけの人間に、これ以上娯楽を提供するなんて真っ平だ。
歯を喰いしばり、汗まみれになっても、呻き声も上げずに呑み込む子供を見て、使用人たちは露骨にがっかりした表情をした。
その目、その顔。芯から怖気が走った。これが人間なのか。だとしたら人間というのは、なんて醜くおぞましい生き物なのだろう。
キースが死んだって、きっと誰もなんとも思わない。自分がいなくなれば、父と母はアストンの血を繋げるだけのために、また不幸な子供を作り出すだろう。誰からも愛されず、生を望まれもしない子供を。
しんしんと心が凍えていく。
キースはもう、親にも他人にも期待をするのは一切やめた。誰からも関心を持たれないのなら、自分も誰にも関心を持たないでいようと決意した。期待をしたら、それだけ裏切られた時の痛みが大きい。ただでさえ、何ひとつ喜びも楽しみも見いだせないこの生なのだ。これ以上傷ついたら、もう保たせる自信がない。
苦しむばかりの心なら、最初からないほうがいい。
キースの顔から表情が抜け、必要なこと以外喋らなくなると、周囲の態度はますます冷たくなった。可愛げのない子供だと。さすが「アストンの犬」は人とは違う、と。揶揄され、軽蔑され、貶められて、キースの心はより一層闇の中へと埋没していった。
そんな時、はじめてユアンに引き合わされた。
この方がお前のあるじだと言われ、猜疑心に満ちた顔を向けたキースに、まだ幼かったユアンはにっこりと笑った。
「やあ、君がキース? 嬉しいよ。ずっと、会いたかったんだ」
──そう言って。
自分に笑いかけるユアンに、キースが一気に傾倒したのは無理のないことだった。今まで誰も、誰一人として、キースに笑顔を向けた人間など、いなかったのだ。泥にまみれ、どこもかしこも傷だらけで、強張った顔で相手を見据えることしかしない子供に、「会いたかった、嬉しい」と言ってくれる人間が、他にどこにいるだろう?
ユアンはその頃のキースにとって、唯一の光だった。
成長するにつれ、彼がどうしようもなくどす黒い何かを持っていることを知っても、その笑みに自分が求めるものは一片も入っていないことに気づいても、キースはユアンに仕え続けた。
どんな命令でも、従った。
……キースを必要とし、生を望んでくれるのは、この世でただ一人、ユアンだけだったから。
──これからも僕のために力を尽くしておくれ、キース。君がこれまでに必死の努力で身につけたその能力は、僕の影としてしか、使い道がないのだからね。君が最大限に力を発揮できるのは、僕の許だけだということを、忘れてはいけないよ。いいかい、君はそのために生まれ、そのために生きていく。君という人間は、僕のためにだけ、存在しているのだからね。
何度も、何度も。
──君が生きられるのは、僕の近くだけだよ。光あってこその影だ、光なくして影は存在し得ない。そのことを、決して、決して、忘れてはダメだよ、キース。君のことをこんなに大事に思っているのも僕だけ。『アストンの犬』は、常に地を這いずり廻り、他人の血にまみれ、汚泥に沈むことを宿命としている。誰からも嫌われ、軽蔑され、逃げられる、忌まわしい一族だ。その君を受け入れてあげるのは、この世界で僕ただ一人だということを、忘れてはいけないよ。
繰り返し囁く、ユアンの声。
──死んではダメだよ、キース。君は僕のために生きていなくてはいけないよ。君の生命の所有権は、僕にあるのだということを、いつも心に刻みつけておくんだよ、いいね?
自分で思っていたよりもずっと深く根強く、その言葉はキースの内部に刻みつけられていたのだ。
***
その呪いが、今この時になって発動した。
キースは自分の意志とは無関係に動く手足を、茫然と見つめるしかなかった。
「判っただろう? キース」
笑みを含んだユアンの声が、キースの耳朶を打つ。
「君は、決して僕を傷つけることなんて出来やしない。そういう風に生まれついているんだ。……何をしている? この侵入者をさっさと捕まえろ」
その言葉で、兵たちも我に返ったように目を瞬いた。意味が判らないながら、ユアンの言葉どおり、キースが彼を害することは出来ないということを悟ったらしい。手にした武器を改めて構え、再び距離を詰めてくる。
キースは後ずさりながら、視線を動かして、扉までの距離を目測した。あそこにいる兵は二人。
玉座の間には窓がない。シャンデリアが破壊されたため、照明は壁に設置してある灯りだけ。この薄暗さなら、兵の動きも万全ではないはずだ。
──ファルだけでも、ここから逃がさないと。
身を翻し、一直線に扉に向かって駆けた。
後ろから兵たちも一斉に追ってくる。彼らが追いつくよりも前に扉に到達し、そこに陣取っていた二人の兵の胸倉を同時に掴んで強引に引き剥がす。それと共に、扉を蹴り上げるようにして開放した。
「ファル!」
大声で名を呼ぶ。羽ばたきの音が近づいてきたが、それを確認している暇はなかった。すぐに態勢を立て直した兵が剣を振り下ろしてきたからだ。
寸でのところでそれをかわすと、手首に手刀を入れて武器を叩き落とし、身を捻って脇腹に蹴りを入れる。倒れるのを見届ける間もなく膝を曲げて身を沈め、後ろからのもう一人の攻撃を避けた。頭の上を剣先が通過してから、ばね仕掛けのように半回転して跳ね上がり、兵の腹部に拳で強打を叩き込む。
そこに、いちばん早く追いついた兵の剣が向かってきた。これを避けると次の攻撃に間に合わない、と瞬時に判断し、左腕に受ける覚悟を決めてぐっと力を入れたのだが、
「ぎゃっ!」
その兵は悲鳴を上げて、血の噴き出す右手を押さえ屈み込んだ。
傍らでは、矢を両手に抱えるように持ったファルが、真っ青な顔で、ぶるぶる震える唇を引き結んでいる。鏃の先から、真っ赤な血がぽたぽたと滴っていた。
「何してる、ファル、早く扉から──」
「いや」
捕まえて扉の外へ放り出そうとした細い腕が逃げていく。眦を吊り上げたファルが、怒ったようにキースを睨んだ。
「また、わたし一人を逃がそうとしてるんだね? 一緒に行こう、キース」
「──……」
一瞬、言葉に詰まった。また、というのは、天界から地界に堕とされたあの時のことを言っているのだろう。ファルだけを逃がして、自分は閉ざした扉を守るため残るつもりなのかと。
まったくこいつは、こんな時ばかり鋭いのだから、厄介だ。
「バカ、そんなことを言っている場合か。早く──」
ファルは窓から外に出さえすれば、いくらでも逃げることが可能なのだ。白雲宮を脱出できたら、そのまま地界に戻ればいい。
そう言いかけたら、横手からまた短剣を突き出された。くそ、と罵りながら剣ごとそいつの手首を掴んで引き寄せ、殴り飛ばす。
ファルは苛立たしそうに翼を何度も羽ばたいて強い風を起こし、手に持った矢を闇雲に振り回していた。兵たちが一定以上彼女に近づけないのはそのためらしい。
「早くここから出ろ!」
「いや!」
「こんな時くらい素直に言うことを聞け!」
「素直じゃなくて結構だよ、キースのバカ!」
「この無神経女!」
「デリカシー欠乏男!」
こんなところで押し問答をしていても埒が明かない。キースは腹を括った。
手近にいた兵を力任せに床に叩きつけると、ファルに向かって手を伸ばす。
この相棒は、キースの自己犠牲の弱さ甘さなど、絶対に許してくれない。だったらもう、キースが選ぶべき道は、ひとつしかないではないか。
「わかった、行くぞ!」
ファルがぱっと目を輝かせて、破顔した。
「うん!」
矢を握っているほうとは反対の手を、キースのほうに伸ばそうとして──
しかしその手はキースに触れることなく、力なく下がった。
ファルが目を大きく見開いたまま、動きを止めた。風もぴたりと収まった。翼が羽ばたきを停止したためだ。
手から矢が滑り落ちて床に当たる。宙に浮いていた身体が不安定に揺らいで、傾いだ。
蜂蜜色の瞳から、感情豊かな光が消えた。
キースは一瞬、何が起こっているのか把握できなかった。目の前の現実が受け入れられず、脳が理解を拒んでいた。頭の中は、どうしてと、ひたすら疑問符ばかりに占められて、それ以外のものが入り込む隙間がなかった。
──どうして、こんなことが。
大きく広げられていた、ファルの翼。
それが片方、おかしな角度に曲がっている。
いや、曲がっているのではない、外れているのだ。一方の翼は確かに彼女の背中に繋がっているのに、もう一方の翼はそこから離れている。
馬鹿な、と思った。そんなことがあるわけがない。あっていいはずがない。
……翼が、切り落とされるなんて。
ファルの背後、翼の向こうから現れたのはユアンだった。いつの間にか玉座を離れ、彼は今、左手で無惨にもがれた翼を掴み、右手で短剣を持っている。
切り落とされた翼は、端のほうから光の粒子となって空中に拡がり、散失した。
ファルが目を開けたまま、何かの荷物のようにどさりと床に落下した。彼女の背中に残ったほうの翼も、弱々しい輝きを放って姿を消していく。ファルは人形のように反応がない。どこも動かない。虚ろに開いていた目が閉じられて、そのまま意識を失ってしまった。
ユアンは冷然とした眼差しで、それを見下ろした。
「片翼の天人か。出来損ないは、やっぱり出来損ないということだね」
「ユアンっ!!」
キースが激昂した。
空気が振動するほどの大きな声を上げ、ユアンに掴みかかろうとしたが、その腕は、彼に届く前に兵によって捕われた。背中から羽交い絞めするように二人がかりで押さえつけられ、キースは死に物狂いで抵抗した。
ユアン、と咆哮するような怒鳴り声が、室内に響き渡る。
怒りに我を忘れたキースは二人でも止められなかった。自制を失い、暴れ狂って拘束を外そうとする様は、まさに牙を剥く獣のようだった。髪を逆立て、碧の目から炎を噴き出さんばかりに激怒するキースの姿を見て、まだ意識のある兵が怯えるように身を縮めた。
「殺してはダメだよ。キースには聞きたいことがあるからね。落ち着くまで、別の部屋に閉じ込めておいて。くれぐれも言うけど、油断をしてはいけないよ。それでも『アストンの犬』だ。縄で厳重に縛っても、簡単に抜けてしまう」
その呼称を耳にして、兵たちが驚いたような顔をする。道理で──と納得するように頷く者もいた。
「ユアン──てめえ!」
「主人に向かってご挨拶だね、キース。心配しなくても、この天人も殺しやしないさ。まだいろいろ使い道があるからね」
両腕を兵一人ずつに絡み取られ、もう一人に後ろから首を押さえられ、歯噛みをするキースに、ユアンが笑いかける。思い出したように手に持っていた短剣を見て、ぽいっと床に投げ捨てた。
「片翼でも、天人は天人だ。……なにしろ、天人はすっかり数が少なくなってしまってね。なかなか繁殖もしないし、困っていたんだ。元気だけはありそうだから、こいつなら新たに仔が孕めるかもしれない。ああ、そうだ、人間の男が相手でも、天人から生まれてくる仔には翼があるのか、実験してみてもいいかな」
考えるように、ユアンが呟く。
兵たちによって引きずられていくキースが吠えるような声を上げるのを聞いて、くすくす笑った。
***
何のためにあるのか判らない、家具のないがらんとした小さな部屋に入れられてから、キースは人が変わったかのようにぴたりと暴れるのをやめ、黙りこくった。
「おい……どうするよ」
「縄で縛るのもダメっていうんじゃ、鎖ぐらいか?」
「鎖ってもなあ……」
ここまでキースを連れて来た三人の兵たちが困惑しながら話しているのは、虜囚の拘束方法についてらしかった。床に座らされたキースの腕は、未だ二人がかりで両側からがっちりと捕われたままだ。
「ただでさえ大変な時に、面倒事を持ち込みやがって」
唯一手の空いている兵が憤懣と共に吐き捨てて、キースの腹部を靴底で踏みつける。手加減のない勢いだったが、キースの無表情に変化はなかった。
「いっそこの腕も切り落としてやりゃいいんじゃねえか」
「おう、あの化け物鳥の翼のようにな」
兵たちが笑い合う。一瞬、ぴくりと指先が動いただけで、キースは沈黙を保った。
「この白雲宮に侵入しようなんて、馬鹿なことを考えるからだぜ」
嘲笑され、ようやく、口を開く。
「……まったくだな」
「あ?」と兵が覗き込んだが、キースはそちらに目を向けもしなかった。何もない虚空を見据えて、小声で呟く。
「──おれは本当に、大馬鹿だ」