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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
66/73

白雲宮の主



 室内に静寂が満ちた。

 時間にしたら、床に倒れた亡骸に視線を据えつけたまま硬直していたのは、わずかなものだっただろう。しかし、忘れていた呼吸を取り戻し、ぎこちなく足を動かした時、すでにキースの額には薄っすらと汗が浮かんでいた。

 自分の姿を映し出して輝く床に片膝をつき、厳しい表情で傍らの遺体を検める。

 限られた人間以外の前には、ほとんど姿を現すことのなかった天帝の顔を、キースもあまりよく知っているわけではない。実際に天帝を前にしたのは、父親の跡を継ぎ、ユアンの正式な影となってから二、三度。しかも距離が離れていたし、こちらは跪いて目線を下に向けていたのだから、なおさらだ。

 その曖昧な記憶を強引に引っ張り戻しても、目の前の遺体の顔かたちと照合させるのは至難の業だった。なにしろその死人は、目玉が飛び出しそうなほどに眼窩が落ち窪み、皮膚も骸骨にへばりついているという程度にしか残っていない。玉座に近寄った時に異様な臭いがしたのは、この肉体が放つ腐臭だったのかと、ようやく思い至った。


「死んでから、結構な時間が経過している」


 自分では呟くように言ったつもりだったのに、その小さな声は、思っていた以上に部屋の内部で反響した。ずっと同じ場所に立ち尽くしていたファルの身体がびくっと痙攣するように身じろぎをし、より一層、蒼褪める。

 彼女の顔はキースの数倍は汗の珠が浮いている。それでも、口許に当てていた手をぎゅっと拳にして握りしめ、ゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてきた。

「……天帝なの?」

 白っぽい顔色で確認するファルの声は、はっきりと震えていた。キースは目を上げ、おまえは見ないほうがいい、と制止しようと思ったが、同じように片膝をついて覗き込むファルの両の眉が頑固に上がっていることに気づいて、口を噤んだ。

 イーセンの時と同じ顔だ。どうせ何を言ったって、首を横に振るだけだろう。

「断定は出来ない。しかし年齢といい、服装といい、天帝である可能性が高い」

 キースはなるべく事務的な口調で言った。ファルが頷く。

「どれくらい前に」

「それもはっきりとは言えないな。気温などの外的条件にもよるし……しかし、ひと月くらいは経っていると見ていいかもしれない」

「ひと月……」

 ファルが口の中で繰り返して、痛ましそうに床の亡骸を見やる。そんなにも長い間、ここに一人きりでいたのか、と考えているのだろう。


 そうだ、問題は、天帝たる人物が亡くなったとして、なぜこんな場所で放置されていたのか、ということだ。


 通常、天帝が崩じたとなれば、その葬儀は天界を挙げての国家行事として大々的に行われるはずだ。誰もいない時にひっそりと息を引き取ったのだとしても、使用人や警備兵はいるのだから、必ずすぐさま連絡が行き渡る。こんな風に葬られもせず遺体が玉座に捨て置かれる、などということは普通ならあり得ない。

「傷はないようだな……病死か、あるいは」

 言いながら、ローブをわずかに捲って、ちらりと腕を見る。そこもほとんど肉が削げ落ちたような状態だったが、全体が強い茶に変色していた。

「──毒か」

 ぽつりと言葉を落とすと、ファルがまた小さく身じろぎした。

「……誰かに殺されたの?」

「たぶん、としか言えない。こういうのは、時間が経過すればするだけ、判断が難しくなる。それに、どんな理由で死んだにしろ、こんなところに放り出されていることの説明にはならない」

 この白雲宮で謀反や反乱が起こったのだとしても、その首謀者たる人物は、なぜ天帝の死体に見向きもしなかったのだろう。玉座を奪うつもりなら、まずは現君主の死を明らかにするのが最初の仕事のはずだ。それをしなければ、自分が新しい君主であると宣言することが出来ない。

 状況の何もかもが、「異様」の一言に尽きた。

 自分たちが地界にいた間に、悪性の伝染病などが流行って、もはや国家を存続できないほどに極小まで天界の住民の数が激減した──と考えたほうが、まだ理解できる。

 そうでないとしたら……


「……新しい白雲宮の主は、この玉座には(・・・・・・)関心がない、ということか……」


 消えそうなくらいの音量で自分の口から滑り落ちた言葉は、さすがにファルにも聞こえなかったらしい。「え?」と問い返し、顔を上げた彼女は、そこにあるものを見て驚いたように目を見開いた。

「キース?」

「……ファル」

「キース、真っ青だよ。どうしたの?」

 こちらに向かって伸ばされた手を、反射的に掴んで握る。「ファル」と呼ぶ声音に、今までにない切迫感が滲んでいたためか、ファルは緊張したようにぐっと唇を結んだ。

「早く、天人の居場所を見つけよう。ここはもう、おれの知ってる白雲宮じゃない。もっと危険な──」

 出しかけた言葉は、最後までいかないうちにぴたりと途切れた。



「……やあ、よく来たね」

 という、柔らかい声が聞こえたからだ。



 キースは弾かれるように立ち上がった。掴んでいた手を強く引き寄せ、華奢な身体を後ろに廻して庇う。

 自分にとっては聞き慣れた声だ。しかしそれを耳に入れて、想像していた以上の衝撃と動揺がキースを襲った。汗が一気に噴き出し、腰の後ろにあるナイフの柄にかけた右手は小刻みに震えている。なんてザマだ、と舌打ちしたくなった。

 もう、心は決まっている──はずなのに。

 カツン、という軽快な靴音を立てて、その人物は警戒する様子もなく、開いたままの扉から悠然と室内へ入ってきた。

 透けるような白い肌に、神秘的なまでの輝きを放つ青い切れ長の目。形の良い唇は微笑をかたどり、黄金色の髪は軽やかに揺れて光を反射している。どこもかしこも、まるで人とは思えぬほど完璧に整った美貌の持ち主。


「また君に会えて嬉しいよ、キース」

 優しく微笑むユアンに、一瞬眩暈を覚えそうになった。



          ***



「驚いたよ。その娘はともかく、キースも以前のままの姿でいるなんて。まさか君も、実は天人だったなんていうんじゃないよね?」

 軽口を言うようにくすくす笑いながら、ユアンは迷いもせずに真っ直ぐキースたちのほうに向かって歩いてきた。

 その態度は、キースが彼に仕えていた時となんら変わりがない。白雲宮の最深部で、キースはユアンを裏切り、ファルの手を取って共に地界へと堕ちたというのに、彼の口からは非難や侮蔑の言葉は出なかった。

 あまりにも「いつも通り」すぎて、急激に意識が過去に引き戻されそうになる。すぐ後ろにファルがいなければ、キース自身、あれは夢だったのかという錯覚を起こしそうだった。

 いや、夢などではない。あれはれっきとした現実だ。地界で過ごした決して短くはないあの期間は、相応の重みをもってキースの中に存在している。以前の自分とは違うから、今の自分はここにいるのだ。

 だからこそ、目の前のユアンの変わりのなさが信じがたく、悪寒を覚える。そんな微笑は、決して今この場面で浮かべるような種類のものではない。

 ユアンの姿が寄ってくるにつれて、キースの足はじりじりと後退していった。見たところ彼は武器らしきものを何も身につけていない。にも関わらず、キースの頭の中で、警鐘ががんがんと痛いほどに鳴り響いていた。

 背後のファルからは、ひっきりなしの震えが伝わってくる。振り返れば、きっとその顔からはさらに血の気が抜けているに違いない。

 ファルは天界にいた時から、ユアンに怯えていた。天人である彼女には、この人物が一体どのように見えるのだろう。

 躊躇なく進んできたユアンは、床に転がる天帝には一瞥もくれずに、そのまま空いていた玉座に腰かけた。



「──改めて自己紹介しようか。僕が現天帝、ユアン・ライリーだ」

 落ち着いた物腰でゆったりと足を組み、ほんの少し上体を傾け、肘置きについた右手に顎の先を乗せて、彼はそう言った。



 その声に、自分の立場を誇示するような響きは微塵もない。ごく当たり前のことを口にするような言い方だった。優しげな微笑は、びくとも揺れることなく保たれたままだ。

 身にまとっているのもローブなどではなく、上等だがさっぱりとした洋服姿。床の遺体のように数多の宝石で自らを飾ることもしていない。

 それなのに、他を圧するような堂々とした威厳がある。

「いつ……天帝に?」

 対して、キースの口から出たのは無様なほどに掠れた声だった。足は少しずつ後退し、玉座に座る人物と距離を取り続けている。持っている武器の数からも、それを扱う技術面でも、どう考えても有利なのはこちらのはずなのに、ちっともそんな気にはなれなかった。

 キースの問いに、ユアンはにっこりした。

「わりと最近かな。思ったよりも早く白雲宮を制圧できてね」

「制圧……」

 キースが呟く。ではやはり、ユアンは正当な方法で、天帝の位を継承したわけではない、ということだ。


 武力をもって攻め入り、天帝を殺害し、天の一族を排除し、兵たちの舌を切断して、白雲宮は虚ろな孤城へと変貌を遂げた。

 こんな方法では、天界を円滑に統べることなど出来ないと、判っているだろうに。


「なぜ──こんな真似を。そんなことをしなくても、あんたは天帝になれたのに」

 キースは呻くように喉から声を絞り出した。

 天帝の後継者候補は五人いた。しかしその中で、頭ひとつ分抜けていたのがユアンだった。天帝は美しく賢いユアンに目をかけていたし、側に召す頻度も他の後継者たちより多かった。あと数年もすれば、高い確率で、次代の天帝として指名していたはずだ。

 なにもこんなことをしなくても、天帝の座はユアンのものになっていた。

「そうだね、その通りだ」

 ユアンは面白くてたまらないというように笑い、キースに向かって目を細めた。

「……なにしろ、その道を敷いて整えてくれたのは、君だものね、キース?」

「…………」

 キースは拳を握った。

 そうだ。

 ユアンの影になってから、彼が滞りなく天帝になれるよう、道を作ってきたのはキース。

 その障害となるものは、いつもすみやかに排除した。表面的には、どの後継者の利益となるか判らないよう、しかし結果的には必ずユアンの立場が上がるよう、慎重に、注意深く、時には周囲を欺いて罠に嵌めながら、立ち回ってきたのだ。


 ユアンを天帝にするための犠牲が、最小限で済むように。


「キースは、判っていたんだろう? 僕がその気になったら、周囲のものすべてを踏み潰してでも、それを手に入れようとすることが。君は実にまどろっこしい手段で、少しずつ、でも確実に、僕を玉座に近づけようとしていたよね。……ライリーの誰もが僕を天帝にすることばかり躍起になっていたけれど、僕が天帝になった『後』のことを考えて行動していたのは、君くらいのものだったよ」

「……あと少しで、実現していた」

 キースがこつこつと着実に整備してきた、「天帝への道」だ。

 黙っていても、あとはもう、ユアンが次期天帝としての承認を受けるところまで来ていたはずだった。

 厄介の種になりそうな不満分子は片づけたし、正式な決定が下されれば、他の天の一族だって渋々ながら従うしかない。前天帝が死亡し完全にユアンが新天帝として君臨すれば、誰も表立って歯向かう人間はいなくなる。少しだけ目を光らせていれば、それでよかったのに。


 ユアンは自ら、その筋書きを無残なまでに破壊した。


「……こんなやり方では、誰もあんたについてこない。天の一族はライリーを除いた四家が手を組み、天帝の座から引きずり落とすことに血道を上げるだろう。五家の中で、ライリーは最も政に向いていない家系だ。他の四家に徹底的に反抗されれば、何ひとつ、政治は上手く廻らない……」

「政治?」

 ユアンは面白いことを聞いたというように、目を瞬いて噴き出した。

「そもそも、僕がそんなことをしたいなんて、まさか思っちゃいないよね、キース。僕が天帝になりたかった理由は、ただひとつ。僕の上に誰かがいることが、目障りでたまらなかったからさ」

「…………」

 キースは歯を喰いしばり、目を伏せた。

 そうだ、知っていた。ユアンが国政になどまるで興味がなかったのも。天の一族の思惑も、もっと言うなら、自らが所属するライリー家の血も矜持も欲も、まったくなんとも思っていなかったことも。

 ユアンは非情で冷酷だ。愛情を理解せず、慈悲の心を一片も持たない。そんな人間が天帝になったら、天界はこれまでにない苦難の道を辿ることになるだろうということも、知っていた。

 しかしそれでも、「天帝になる」というのがユアンの望みであれば、キースはそれを叶えてやろうと思ったのだ。

 ユアンがどれほど暴虐な真似をしようとも、周囲が盤石なら、それはあまり表に出ずに済むかもしれない。だからいつも、それを念頭に入れて動いていた。自分が築く道が、なるべくなだらかになるように。なるべく、敵が少なくなるように。


 ……なるべく、ユアンが他の誰かを傷つけなくてもいいように。


「君が何を考えていたかは、知ってるよ」

 ユアンが目許を緩ませる。見る者すべてを惹きつけ、崇拝させる、とろけるような極上の笑みを浮かべた。

「だから、僕もまあ、それならそれでいいかなと思っていたんだ。時間はかかるけれども、どちらにしろ天帝になるのは僕だ。キースが僕のために一生懸命働いているのを見るのは嬉しかったし、なにより、楽しかった。だからその間くらいは、愚鈍な連中に付き合っていてやろうかなと」

 それはまるで、出来の悪い人間たちに憐れみを施すかのような口調だった。

「でも、君がいなくなってから、ここは一気につまらなくなってしまってね。誰もかれも、馬鹿の一つ覚えみたいに僕のことを『美しい、美しい』って誉めそやすだけさ。なーんにもわかっちゃいないし、考えようともしない、救いがたいまでに無知なやつばかりだ。キースほどに、僕を理解する人間は一人もいなかった。……特に、こいつ」

 ユアンが組んでいた足をほどく。その長い足は、優雅な動きで前方へと突き出され、すぐ前に横たわる天帝の亡骸を乱暴に蹴りつけた。

「汚らわしい手で、僕に触れようとしてきたんだ。前々から、厭らしい目で見てきて、腹立たしかったんだけどさ。四人も妻がいながら、息子にも手を出そうとするなんて、正気の沙汰じゃない。こんな老害は、さっさと処分してしまうに限るよ」

「……天帝の妻たちは、どうした?」

 危険が多いため一族の元で保護されている天帝の子供たちとは違い、彼女らは白雲宮に居住していたはずだ。だが、上がってきた途中で、それらしい姿はまるで見かけなかった。

「あ、うん、邪魔だったから、捨てた。他のうるさい連中も一緒に」

 こともなげに返ってきた言葉に、眉を寄せる。

「捨てた……?」

「天界から不要物を捨てるところとして適しているのは、ひとつしかないじゃないか。君たちはよく知ってると思うけど」

「地界に……?!」

 キースは愕然とした。


 では、咎人の森に増えたという、化け物。

 あの中に、天帝の妻たちも混じっていたのか。

 天帝の妻のうちの一人は、ユアンの実の母親だというのに。


 足許から戦慄が背中まで駆けあがってくる。次いで、全身が恐怖の念に占められはじめた。

 キースはユアンのことを、ある程度理解していると思っていた。その内部に巣食う黒々とした部分も含め、どういう人間なのかを知っているつもりでいた。しかしそれはおそらく、ひどく傲慢な考え方だった。この人物の闇の深さは、キースの想像を遙かに超えている。

 絶望的なまでに。


 ……ここまで(・・・・)狂っていたとは(・・・・・・・)


「残念だよ、キース」

 ユアンが小さく息をつく。

「君がいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。君が天界にいれば、僕はまだあと少しの間くらいは我慢していられた。ここまで死人が出ることもなかっただろう。君のせいで、時間をかけて積み上げてきたものは、すべて崩れ落ちてしまったね」

「…………」

 キースの裡に、怒りに似た感情が湧いた。あまりにも苦く、あまりにも悲痛な叫びが脳内で唸りを上げている。自分の二十数年の人生の一切が、塵となって儚く散っていくのを感じた。この空虚さは、胸を抉るような痛みを伴う。いっそ、ユアンのようにすべてを壊してしまったら、どれほど簡単だろう。

「──キース」

 ナイフの柄にかけた自分の右手が、ふいに温もりに包まれる。その感触が、かろうじて、キースに抑制を取り戻させた。


「キース、しっかりして。闇の触手が伸びてきてる。取り込まれてはだめだよ」


 ファルの声は、掠れても震えてもいなかった。決して大きなものではないが、どこか凛とした響きをもって放たれる忠告の言葉は、しっかりとキースの耳に届いた。

 彼女の顔は見えないのに、なぜか自分の周囲が、ぼんやりとした淡い光に覆われているような気がする。

 ファルの目に何が映っているのか、キースには判らない。闇の触手というものがこちらに伸びてきているとしたら、ひょっとしたら彼女はその無垢な力で、キースを護っているのかもしれなかった。

「…………」

 柄から手を離し、そこにあった細い手を握る。そうだ、こんなことで揺らいでいるわけにはいかない。

 キースは真っ直ぐユアンに顔を向けた。


「おれは、あんたが天帝になりたいのなら、そうしてやろうと思っていた。天界の未来よりも、あんたの望みを実現させるほうを優先させたかったからだ。でも、こんな形になってしまった以上、おれのその願いも潰えた。……今のあんたは、天帝なんかじゃない。ただの独裁者に成り下がっている」


 静かな口調で言うと、はじめて、ユアンの微笑がピクリと歪んだ。

「そうかい? で、どうするつもり?」

「それはおれの台詞だ。こんな暴挙をして、どうするつもりなんだ。政治には興味がない、ただいちばん上にいたかった、というだけで白雲宮を占拠したのか? それじゃ子供と同じだ、ユアン。いくら兵を喋れなくしたところで、敵は白雲宮の外にいくらでもいる。白雲宮が堅固な造りでも、数に物を言わせて攻め込まれたらいつまでも保つものじゃないぞ。そんな短い間だけでも、頂点にいることを求めたのか?」

「もちろん違うよ。僕はこんな悪趣味な飾りのついた玉座なんかには興味がないけれど、だからって一度手に入れたものを、自分より下にいるやつにくれてやるなんて真っ平だ。もしも中に押し入ってくるやつがいたら、すべて殺してしまうまでさ。手足を切り落とし、首を刎ねてね」

 ユアンが薄く笑った。その表情を見て、今までそれが実践されてきたことを悟り、慄然とする。今のところここがこれだけ静かなのは、その残虐性に恐れをなした敵側が、二の足を踏んでいるためなのではないかと推測できた。

 きっと、混乱の極致にあるのだろう。これまで、己が身を汚すことを嫌悪し、地界から吸い上げるばかりで自らは何も行動せず、安穏と飽食を貪ってきた天の一族および天界人たちは、この状況に対処しきれていない。

「……そんなことをしていたら、いつかこの天界には人がいなくなる」

「そうだね」

「民のいない国で、支配者になることは出来ないぞ」

「言っただろう? 僕は、政治にはまったく興味がない」

「だったら……」

 じわりと新たな汗が浮かぶ。まったく噛み合わない会話に、冷気がじわじわと這い上ってくるような気持ちになった。以前自分が仕えていたあるじは、こんな人間だっただろうか、という疑念が湧きあがってくる。

 キースは大きな意味で、ユアンという人物を見誤っていたのではないか。

「だったら、一体、何がしたいんだ」

「何って」

 ユアンがやんわりと笑った。


「僕はね、神になりたいんだよ、キース」


「なに……?」

 何を言っているのか判らずに戸惑う。ユアンの顔はどこにも邪気というものが見当たらなくて、それが余計に不気味さを増した。

「神は人の世界の政に関心を抱いたり、手を出したりしないだろう? それと同じさ。僕は誰も到達できない高みで、下界を見下ろし、地を這いずって浅ましく生きる人間たちを眺めるだけ。始祖はそもそも、天界をそういう場所にしたかったのではないかな? 現在、この白雲宮の外に蠢く低劣な輩どもが、天帝の座という玩具を奪い合って醜い争いを繰り広げていると知ったら、始祖もさぞお嘆きだ」

「…………」

 しばらく、言葉が出なかった。ユアンの出す言葉は、キースの常識では理解できないものばかりで、まるで本当に子供の他愛ない夢物語を聞いているようだった。

「真面目に言ってるのか」

「失礼だなあ、キース。僕はいつも大真面目だよ」

「本気で、神になりたいと?」

「そう。まずは、今ここに住む天界人たちを駆除していこうと思っている。少し増えすぎたよね。この地には害にしかならない。ここで暮らすのは、神であるこの僕と、ほんの少しの下僕だけで充分さ」

「駆除?」

 鬱陶しい虫を追い払うだけ、というような言い方と単語に、キースはますます困惑した。もしかしたら自分は今、壮大な冗談に付き合わされているのか。

「そんなこと、出来るはず」

「そうかな?」

 否定しかけたキースに、ユアンはくすくす笑った。

「ねえキース、人は、何を必要として生きている? まあ、単純に言うと、水と食物と空気だよね。そのうちの空気はしょうがないとして、水と食物のほうは、いくらでも調整が可能だ」

「調整……」

 ユアンは、そう、と唇を上げた。


「特に水だね。キースも知っているだろう? 天界における飲料水は、おもに雨水と地中の水分をろ過し浄化して賄われている。その管理を一括して行っているのが、この白雲宮。今は普通に手に入る水だけど、その供給がある日突然停止したらどうなる? 天界人たちは、何がなんだか判らず渇いて死ぬしかない。ほんの五日もあれば十分さ。それに、家畜に与える飼料もひとつの場所で作られているから、そこに毒を混ぜ込んでしまえば天界の牛馬や鶏は大多数が死ぬ。あるいは手っ取り早く、大規模な火災を起こしてもいい。……地上から隔絶され、資源の限られるこの小さな世界はね、キース、君が思っているほど強靭でもなければ、たくさんの人間が住むことにも適してはいないんだよ」


「…………」

 頭から血の気が引いていきそうだった。その気になったら、ユアンは必ず、その言葉を実行する。

「……しかし、それでは天界は滅びるだけだ。神を気取ったところで、あんたも人間だ、生活の基盤が崩れたら生きていけないのは同じだろう」

「いやだな、キース」

 ユアンが可笑しそうに笑い声を立てる。手の上に置いた顎を離し、キースの後ろにいる娘を覗き込むように頭を傾けた。


「そのために、天界では天人を飼っている(・・・・・・・・)んじゃないか。たとえここに水や食料がなくなっても、地界にはいくらでもある。供物なら、いくらでもあちらから捧げられるよ。……僕は神になると言っただろう? 支配するのは天界だけではなく、地界もだ」


 ユアンの瞳に怪しい光が宿った。クイートとは種類の異なる強烈な意志が、磁力を発しているかのように相手を引きつけて放さない。

「……よく天人を僕の許に連れて来てくれたね、キース。君はやっぱり、忠実で有能な、僕の影だ。僕が求めるもの、僕が望むものを、よく知っている。イーセンはまったく役立たずで、苛々させられたよ」

「やめろ」

 キースは語気強く言った。クイートの視線からファルを守るように立ちはだかる。

「おれはもう、あんたの影じゃない」

「君は生まれた時から僕の影だよ。君は僕のためにだけ、生きている。君の命は僕に所有権がある、とそう言ったね? 君はそれを肯定した。僕をまた裏切るつもりかい、キース。君にとっての唯一の主人、君にとっての光を」

「…………」

 キースの表情が強張るのを見て、ユアンは目許を和らげ、撫でるような甘い声を出した。

「……君はただ寂しかったんだよ、キース。だから代用品として、そこの出来損ないの天人に癒しを求めた。それだけの話さ。けれど、そろそろ目を覚まして、きちんと自覚しなければいけないよ。君の心を占めているのは、やっぱり僕以外にはいない、ということをね。考えてごらん、どうしてよりにもよって、そんなみすぼらしく小さな女の子を、君は選んだんだい?」

 ユアンが薄く笑む。

「決まってる。僕と正反対だったから(・・・・・・・・・・)だ。僕とそいつは表と裏、孤独を埋めるために君は『鏡の世界の僕』に手を伸ばした。その娘の向こうに、君は僕の存在を見て、求めている。その娘に執着するのは、単なる代償行為に過ぎないということさ。そうでなきゃ、どうしてこんなにも、あらゆるものが僕とは真逆のベクトルを向いている女を──」

「違う!」

 咄嗟にキースの脳裏を過ぎったのは、自分のことが受け入れられず屈折し、それゆえにファルに固執したニグルの顔だった。それを追い払うように頭を振り、激しく否定する。

 この声を耳に入れてはならない。心が絡み取られてしまう。

 その時だ。


「……キース!」

 ファルの悲鳴のような声で、はっとした。


 気配は感じなかったし、足音も聞こえなかった。未だ開かれっぱなしの扉の向こうに人影はない。そこから入ってきた人間もいなかった。

 それなのに、いつの間にか、キースとファルの背後には、多数の男たちが出現している。

 ユアンが玉座に座ったまま、笑った。

「迂闊だね、キース。その娘が関わると、君はいつも冷静な判断力を失う。ここは白雲宮の玉座の間だ。敵の襲撃に備えた隠し扉があることくらい、想定していなかったかい?」

 見れば、ついさっきまで確かに壁であったはずの一部分に、ぽっかりとした空洞が出来ていた。

 男たちはそこから次々にこの部屋へと踏み込んでくる。彼らは制服を着ていたが、ここに来るまでに出会った兵たちのように生気のない顔つきはしていなかった。手に手に武器を携え、殺気を孕んだ眼でキースたちを睨みつけている。

「こいつらは、声を失くした傀儡の連中とは違って、僕に絶対服従を誓った兵たちだよ。僕の味方は、この白雲宮の中にも、いくらでもいるということさ」

 ユアンが言って、機嫌良さそうに目を細めた。


「──さあ、その天人を渡してもらうよ、キース」





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