一双
「──白雲宮は何階あるか、知ってるか?」
穴のある最深部の部屋を出て、上へと向かう長い長い螺旋階段を上りながら、キースが聞いた。
彼とファルの二人分の足音が、縦に長い空間の至るところに跳ね返り、ガアンガアンと反響している。キースの声も決して大きいものではないのに、その足音に混じってよく響いた。しかしどんな音を出しても、普通に会話をしても、階段から外部に通じる分厚い扉は頑丈に封鎖されているため、他に漏れる気遣いはないのだという。
先程のやり取りで、あの部屋を出てから二人の間には居心地の悪い沈黙の時間が流れていたところだったので、彼のその声が普段のものに戻っていることに、ファルは非常にほっとした。
「十階、じゃなかったかな」
階段を上っていくキースの背中を見ながら、そう答える。
使用人の自分にはまるで縁がなかったとはいえ、白雲宮は天界で最も目立つ高層の建物だ。大体どこにいてもその姿は目に入るし、天界の誰もが敬い憧れる場所でもあるので、それくらいの最低限の知識はファルでも持っている。
クイートたちがそれを知ったら、上の雲まで届きそうなほどに高いという白雲宮が十階しかないのか、と驚きそうだが、外から見える窓の大きさや間隔から考えて、あの建物は一階一階の天井高がおそろしく高いのだ。地界における建築物の常識は、白雲宮にはまったく当てはまらない。
「そう、十階だ。しかし誰もがその中を、好き勝手に行き来できるわけじゃない。白雲宮はそもそも立ち入れる人間がごく限られているが、それらの人間の中でも、さらに身分や立場によって、上がっていける階数が決められている」
キースは淡々と説明した。ズボンのポケットに片手を突っ込み、飄々とした足取りで階段を上っていく彼の声には、まったく乱れというものがない。おそらくファルのためにかなりペースを落としてくれているのだろうが、それでもファルはすでにぜいぜいと息切れがしている。
「階数が決められている、っていうと」
この階段を下る時もつらいと思ったが、上るのはさらにつらかった。なにしろ下から上まで何段あるのか判らないほど延々と続くのだ。飛んでいったら楽だろうなあと思うのだが、ぐるぐると渦を巻く階段しかないこの細長いスペースでは、残念ながら翼を広げるのがかなり難しそうだ。
まったく平気そうに一定の速度を保ち続ける、長身の後ろ姿がちょっと腹立たしい。子供の姿のままだったら、キースだって多少はこの階段に苦戦したかもしれなかったのに。
大きく逞しくなった、彼の背中。
そこには、ホルスターのベルトが横断するように装着されている。そして斜めに掛けられた矢筒。腰には、鞘に入ったイーセンのナイフがすぐ抜けるよう横向きに取り付けられていた。
……その恰好はすべて、「戦うため」のものだ。
「一般人が白雲宮に入ることは、まずない。しかしなんらかの特殊な事情があったとしても、許可されるのは一階のみだ。ある程度の肩書きは与えられているが天の一族に属さない、という者は四階まで。天の一族でも、そこには確固たる上下関係があるから、それによって行ける範囲が決められる。しかし最も上に行けたとしても、七階が限度だな。天帝の妻と娘は八階まで。後継者である息子たちだけが、ようやく九階へ上れることになる」
「はあ……」
ファルは呆れるような相槌を打った。そんな風にいちいち細かい制限がついて、天帝の妻子といえど自由に動けないとは、白雲宮というのはずいぶんと面倒な決まりに縛られている。
「じゃあ、いちばん上の十階は」
「もちろん、天帝しか入れない。天帝の世話をする者や警備の兵はまた別だが、そいつらは全員、舌が切られている。その場所で何を見て何を聞こうが、決して口外できないようにな」
「…………」
口の中に、苦いものが広がる。キースの口調には何の変化もなく、それが余計に、「その程度のことは序の口」という、白雲宮の厳しさ不気味さを強調しているようだった。
ここでは、使用人や兵ですら、そんな扱いをされるのだ。じゃあ、奴隷階級にまで落とされたという天人たちは、一体どんな──
暗澹たる気持ちで思いかけて、ファルははたと立ち止まった。
白雲宮は十階建てで、最上階である十階は天帝の在居する空間だというのなら。
肝心の天人は、どこに?
キースも立ち止まり、後ろを振り向いた。
彼の眉は、ぎゅっと中央に寄っている。ファルに話しながら、自分の頭の中でもそれについて思案を巡らせ続けていたらしい。
「おれはユアンの供で、九階までは上がったことがある。もちろん天人の存在なんてものは微塵も感じなかった。十階はさすがに未踏だが、天帝が寝起きするのと同じ場所に、天人を置いているとは思い難い。だとしたら、残る可能性として高いのが……」
考えるように顎を手で撫でて、ぽつりと言う。
「十一階だ」
ファルはぱちりと目を瞬いた。
「十一階?」
「そう」
「だって、白雲宮は十階までしかないんでしょ?」
「そう言われている、というだけだ。天帝以外は、誰も自分の目で確認したわけじゃない。人に知られたくないもの、人の目に触れたくないものは、『そもそも存在しない場所』に隠しておくのが最も安全だろう?」
「…………」
そうか、とファルも納得した。
最上階に行けるのは天帝のみ。そこの内部も構造も、天帝以外は知り得ない。白雲宮は十階建て、と誰もが疑いもなく信じきっている。
その状況で、さらにその上があるかもしれない、などと一体誰が考えるだろう?
「だけど、外から見た窓は」
「自分の身に置き換えて考えてみな、ファル。絶対に逃がしたくない鳥を閉じ込める時、わざわざそこに窓をつける必要があると思うか?」
「そ……それもそうだね……」
赤の離宮で、他ならぬファル自身が、塔の窓を打ち破って空を飛んだのだ。翼のある生き物には、高い壁なんてまったく何の意味もなさない。逃亡を封じるためには、完全なる外部との遮断が条件となる。
──では、白雲宮の天人たちは、高所でありながら光も射さない暗い密閉空間で、外の世界を見ることも叶わず、息を潜めるようにして日々を過ごしているのか。
「ファル」
キースの声で、顔を上げた。いつの間にか、下を向いていたようだ。
「考えるのはあとにしろ。今はとにかく、進むしかない」
「……うん」
深く頷いて、ファルはまた一歩ずつ階段を上っていった。
ようやく外へと通じる扉が見えてくると、キースは再び足を止めた。
背中に掛けていた矢筒を外し、少し間を置いてからファルのほうを振り返る。
「……ファル」
「ん?」
ファルは首を傾げて続きを待ったが、キースはなぜか逡巡するように次に出す言葉を呑み込んでしまった。
手に持った筒に目を落とし、唇を引き結ぶ。
こうして見ると、キースが子供であった時には少し大きめにも見えたその矢筒が、現在の彼には、その手にも体格にも、ひどくそぐわないものになっていた。大人が子供のオモチャを持て余しているような違和感だ。地界を出発する時は、もとに戻れるという保証も確信もなかったため一応持ってきたものの、今のキースには無用の長物となってしまったのかもしれない。
そこまで思って、気がついた。
あ、そうか。
「それ、わたしが持つよ、キース」
受け取るために手を伸ばすと、キースは黙ったままファルに目を向けた。
「どちらにしろ、大人になったキースには、弓のサイズが合わないもんね。それなら、わたしが持っていたほうがいいんじゃないかな」
「……おまえにも、弓矢なんて使えないだろ」
「でも、矢を持って刺すことくらいは出来るかもしれないから」
「…………」
キースの手は動かない。その視線は、ファルに渡したほうがいいのか、それともこのまま階段の下へ放り捨ててしまったほうがいいのかと迷うように、揺れている。
ここは壁面に沿って最低限の明かりだけがあるため、全体的に薄暗い。特に、ぽっかりと穿たれたように底へと通じる螺旋階段の中央は、この長い距離を上ってきた分、もはや下のほうは見えないほどに真っ暗で、深かった。足音の止んだ今、下から吹き上げる冷たい風の鳴る音だけが、二人の間を通り抜けている。
「キース、渡して」
しっかりと顔を上げてキースの瞳を見据え、ファルは強い調子で言った。
「──おまえには、そんなことはして欲しくない」
ややあって、キースからぼそりと返ってきた言葉は、以前に聞いたのと似たようなものだった。
化け物になったイーセンの首を掻き切り、その生命を終わらせようとしていた時も、彼はそう言っていた。
おまえには、見せたくないんだ、と。
キースはいつもそうだ。血も、死も、なるべくファルから遠ざけようとする。自分はそれをどれだけ被っても、ファルの目と耳は塞いでおこうとする。汚濁の飛沫から少しでもファルを守るように、両手で囲って。
そしてこんな場面でも、彼はファルに武器を持たせるのを躊躇している。一つはそういうものを携えていたほうがいいという冷静な判断とは別に、それでもやっぱりファルにそれを使わせたくはない、という思いがあるからなのだろう。
もどかしい。
実際それを持ったとしても、自分にどれだけのことが出来るのか、ファルにだってさっぱり判らない。これまで、他人から暴力を受けても、やり返そうなんて思ったことがなかった。自分が傷つけられた分、他人も傷つけたいという欲求を持ったこともない。細い手足で抗うすべがなかったというより、そもそもそういう発想が湧かなかった。
それが天人の性質だというのなら、そうなのかもしれない。
けれどファルは、もう、そういうのは嫌なのだ。何も出来ず、しようともせず、ただ我慢して小さくうずくまっているだけの、弱い自分ではいたくない。
塔が襲撃された時、エレネの命かキース、そのどちらを選ぶかを、ファルは決断できなかった。そして結局、エレネを助けたことも、逃げられなかったことも、どちらも後悔した。エレネを助けず逃げ出しても、きっと後悔しただろう。
あの時、エレネを助け、なおかつ自由の身になるという道が、きっとどこかにあったはずなのに、覚悟の足りない弱いファルには、それが見つけられなかった。
またあんな思いをするのは真っ平だ。
ファルはキースの掌の中に収まるのではなく、その隣に立つことを望む。
「わたしも、キースと一緒に戦いたいよ」
「…………」
キースはしばらくの間、口を閉じてファルを見返していたが、やがてゆっくりと手を動かした。
矢筒がファルに渡される。
それを背中に括りつけると、どっしりとした重みを感じた。これまでたくさんの武器を手にしてきたというキースは、ずっとこの重みを一人きりで担ってきたのだろう。
二人で分け合うことで、少しは、軽くなるといいのだが。
そんなことを思っていたら、空になったキースの手が伸びてきて、ファルの頭の上に置かれた。
大きな掌は、ファルの頭をすっぽりと包んでしまう。そのまま、ぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でられた。こういうの久しぶりだなあという感想は、ファルだけでなくキースも抱いたようで、撫でながら、はあーと息を吐き出している。また何かを噛みしめているらしい。
「……以前のおれは、仲間ってものを決して持たなかったんだが」
そう呟いて、不意に、彼の顔が近づいてきた。耳に触れるように唇が寄せられ、囁きが落とされる。
「──おまえが、おれの最初で最後の相棒ってことだな」
息がかかって、くすぐったい。ファルは首を竦めるようにして、少し笑った。相棒か。それはとてもいい響きだ。
その名に恥じない自分でいたいと、心の底から思う。
「外見だけでなく、中身も少しは成長したでしょ?」
「そうだな。それでもう少し胸が成長してりゃ完璧なのにな」
「キースは子供でも大人でも、デリカシーがないのはぜんっぜん変わらないね!」
言い合いながら残りの階段を上りきり、扉の前に立つ。
「……天人たちも、おまえのように自由にしてやろう、ファル」
キースが目を細め、微笑んだ。
***
重い扉を、じりじりとした動きで少しずつ開けていく。
細い隙間から、キースが外の様子を窺う。彼の鋭い視線がじっとあちら側へと注がれるのを、ファルは息を殺して見守っていた。このすぐ外に、もしかしたら白雲宮の兵たちが待ち構えているのかもしれないのだ。今までに経験したことのないような緊張感で、心臓が胸を突き破って外に出そうなほど大きく暴れている。
「この近くにはいないな……」
小声で零されたその言葉に、少し安堵した。しかしそれでも、油断は出来ない。人一人分通れるくらい扉を開け、息を詰めて耳を澄ましていたキースが、ようやくファルのほうに顔を向けた。
「いいか、おれが先に行く。合図をしたらすぐに来い」
ファルが頷くと、キースは空気をほとんど動かすこともなく、するりと扉を通って出ていった。今度はファルが扉の前にぴったりと張り付いて、目を凝らす。
そこは建物の中ではなく、外だった。
左側に外壁、右側に装飾の施された柱が連なるように先へと続いている。上には屋根がついていて、下は磨かれた石の廊下となっており、柱の向こうはすでに闇の落ちた屋外だ。敷き詰められた緑の芝が、柱に取り付けられたランプの灯りで、ところどころ白く輝いていた。
回廊だ、とファルは思い出した。
ここに連れて来られた時は意識が朦朧としていてはっきりとしなかった記憶が、今になって甦った。円柱の形をした白雲宮の外周を、ぐるっと囲むようにして造られた廊下、それがこの回廊なのだ。
緩くカーブを描いた建物の壁に沿って、素早く移動していたキースの姿が視界から消える。ドキドキしながら待っていたが、少しして、再びキースの顔だけが覗いた。
手で「来い」と合図され、ファルも扉を通って廊下へと出た。あとで見つかったら厄介だろうからと、重い扉を苦労して閉じたら、そこは外から見ると完全に壁の一部となってしまった。何も知らない人がここに来ても、単なる行き止まりとしか思わないだろう。
足音を立てないよう気をつけて、キースの許へと急ぐ。カーブの先に到着すると、すでに制服を着た白雲宮の兵が一人、床に転がって倒れていた。キースはまったく、やることが手早い。
「……何か、妙なんだ」
キースが前方に視線を向け、ぽつりと言った。
ランプと月の光だけがぼんやりと周囲を照らす回廊は、暗く静かだった。天界はどこもかしこも深閑としていると言えばそうだが、白雲宮のこの無音に近い静寂は、背中が冷たくなるほどの威圧感を伴っている。
釈然としないようなキースの顔を見上げ、ファルも声を抑えた。
「妙、って?」
「兵が少なすぎる。それに、いくらなんでも静かすぎる」
「夜だからじゃない?」
「いや……」
キースは何かを言いかけ、口を噤んだ。彼にも、その違和感の正体が何なのか、掴めないでいるらしい。だからこそなのか、彼の目つきがより一層厳しくなった。
「行くぞ」
回廊を辿って進むと、やがて白雲宮の巨大な正面扉に行き着いた。
扉の前に陣取っていた二人の兵の意識を失わせ、キースがその取っ手に手をかける。注意深く試してみたが、取っ手はびくとも動かなかった。
「……中から施錠されている」
キースが戸惑ったように呟いた。
「いつも閉まっているの?」
「いや。確かに夜間は閉められるが、こんな時間から錠が下りることはない。どうなっているんだ」
「何か、あったのかな」
ファルも不安げにひとりごちて、両開きのその大きな扉を見上げた。
キースの二倍はあろうかという高さの、真っ白な扉は、全面に凝った彫刻がされている。その上には、換気のためと思われる小さな窓がついていた。
「解錠できないこともないだろうが、時間がかかる。他に入れそうなところを探したほうがいいな」
そう言って方向転換しようとしたキースの腕を掴んで引き留める。もの問いたげな顔で振り返った彼に、「しっ」と人差し指で唇を押さえた。
「キース、誰か来ないか、ここで見張っていて」
「なにを──」
キースの言葉が最後までいかないうちに、ファルは勢いをつけて廊下の床を蹴った。空中で翼を出し、そのまま上へと浮遊する。
扉の上部に取り付けられた窓枠に手をかけ、用心しながらガラスを通して中を覗き込んだ。
扉の向こうは、広間になっていた。艶々とした床が、天井に取り付けられた豪華なシャンデリアの灯りに反射してきらきらと輝いている。どっしりとした円柱が点々と配置され、壁際には、何かを模った胸像がいくつか飾られているのが見えた。
広間を囲む半円形の壁の一部分に、さらに奥へと通じる上部がアーチ状の出入り口がある。
だが、人の姿はない。
外と同じで、しんとしている。
そっと窓を押してみたら、少し抵抗があったくらいで、呆気ないほどあっさりと開いた。さすがに、こんな高いところにある小さな窓から人が侵入するとは考えなかったのか、はじめから錠はつけられていないらしい。
ちらっと下にいるキースを見る。固唾を呑むようにファルの動向を見つめていた彼は、固い表情ながら、わずかに頷いた。それに頷き返して、窓を開け、滑り込むように通り抜ける。
ぺたんと折った翼が途中でちょっと引っかかったものの、「ちっとも肉がついていない」と先生に嘆かれた細い身体は、ちゃんと窓と壁との間を通過した。
ふわりと床に降りて、扉の錠を外す。
「便利だな」
「いつでも泥棒になれそうだよ」
開いた扉から中に入ってきたキースと小声でそんな会話を交わしていると、奥のほうから足音が聞こえた。
「ファル、上で隠れてろ」
鋭く指示をして、キースが扉を閉めて再び錠を下ろし、近くの円柱の影に身を潜ませる。浮き上がったファルは、高い天井にまで昇ると、シャンデリアの飾りに掴まって翼を広げた。何本も立った蝋燭の熱で、頬が焼けそうだ。
コツコツと足音をさせて、やって来たのは兵だった。
いや、制服を着ているのだから、兵なのだろう、と推測するしかない。しかし言ってはなんだが妙に動きのおかしい兵だった。ふらふらとした足取りは覚束なく、顔色も悪い。
彼は広間にまで来ると、辺りを見回して、何かを探すような素振りをした。ひょっとしたら、ファルが立てた羽音を聞きつけて、鳥でも入り込んだのかと様子を見に来たのかもしれない。
そのためか、兵の目線は、普通なら向けられるはずのない天井へと移された。
そこで彼は凍りついた。口が丸く開けられる。
──見つかった。
兵の視線と自分の視線がかち合って、ファルは身を固くした。
ここで叫ばれでもしたら、他の兵たちも大挙して押し寄せてくるだろう。さあっと血の気が引いた。
が、兵は目を見開き、口も開けたまま、ファルを凝視して指先を突きつけてくるだけだった。お前は何だ、と驚愕した顔が問いかけているようなのに、糾弾の言葉がその口からは出てこない。
翼のある生き物をはじめて見て、恐怖で声も出せないのだろうか。
──いや、違う。
「……! ……!」
兵は、明らかに何かを叫びたがっていた。目をいっぱいに瞠り、唇を動かして、蒼白になった顔で必死に訴えようとしている。しかしその喉から押し出されるのは、ひしゃげたような呻き声ばかりだ。
どくん、とファルの鼓動が波打った。
この人、もしかして──
うがあ、という声は、地界に堕とされ化け物の姿になった天界人が出す唸りに似ていた。整った発声器官で紡がれる声音ではない。なんらかの理由が、兵に言葉を出させるのを阻んでいる。
眦に涙を溜め、兵は両手を振り回すようにして暴れた。まるで狂人が踊っているかのような動きだった。恐慌と混乱に乗っ取られ、彼は正常な思考をどこかへと追いやってしまっている。
惑乱したまま、兵がくるりと方向を変え、やみくもに走り出す。その背後に音もなく近づいたキースが、手刀を彼の首筋に叩き込んだ。
一瞬動きを止めた兵の身体が、ずるりと滑るように崩れ落ちる。気を失い、うつ伏せで倒れた彼を仰向けにして、何かを確認していたキースが、上を向いた。
「……ファル」
その声も、表情も、強張っている。
「舌が、切断されている」
──白雲宮の内部で、何か途方もない異変が起きている。
わずかな時間でも、そう判断せざるを得なかった。あれこれと考え、想像していたことが、すべて吹っ飛ぶほどの異常さだ。ファルにとっても、キースにとっても、予想すらしていなかった事態に、困惑ばかりが増していく。
中にいるのは少数の兵のみ。しかも、おそらく全員が、舌を切られて声が出ないようにされていた。玲瓏として誇り高い白雲宮は今や、人の声も音もないがらんとした空虚な容器と化している。
キースの顔つきは、どんどん焦燥に占められていった。
「ファル、このまま一気に十階まで行くぞ」
ファルも、うん、と同意した。手足の先が、ずっと震えっぱなしだ。この煌びやかな建物で、何が起こっているのかまったく判らない。
それでも、今はもう身を隠しながらひそかに進んでいる場合ではない、というのは感じた。尋常ならざるこの状況では、もはや自分たちの勘と素早い行動だけが頼りだ。一刻も早く、天人たちを解放してここから離れないと、という気持ちに追い立てられるようにして、ファルとキースは白雲宮を駆け上っていった。
たまに出くわす不運な兵たちは、キースがすべて無力化した。銃やナイフを使うまでもない。舌を切られた兵は、戦闘能力を失ってしまったかのように、ほぼ無抵抗のまま沈んでいく。魂というものを抜き取られたような彼らの虚ろな瞳を見ると、どうしても森の化け物のことを思い出して、底冷えがした。
彼らはみんな、怯え、嘆き、絶望している。
周囲を取り巻く色は、もとの色が判らないほどに黒ずんでしまっていた。
***
ようやく、十階に到達した。
階段の先、通路の奥にあった重厚な扉の前に、警備の兵はいなかった。扉に耳を当てて気配を探っていたキースが、無言で首を横に振る。誰の存在も感じ取れない、ということらしい。ファルの鼓動はますます大きく、激しくなる一方だ。
天帝は、ここにはいないのだろうか?
キースが腰の後ろのナイフに片手をやりながら、扉を足で蹴りつけて開ける。部屋の内部は、広々とした空間になっていた。高い天井も壁も床も燦然と輝いているが、円柱も胸像も絵画もない。
ただ正面に、大きな椅子だけがある。
椅子の背後の壁には、金色の緞帳が下りていた。背もたれに掛けられた布は、白い布に金色の房飾りがついた立派なもの。ここまで広いというのに、室内に置いてあるのは、それだけだった。
ファルは未だかつて、こんなにも豪奢で寂しい部屋を知らない。
……これが、玉座。
椅子には、誰かが座っていた。
光沢のある滑らかな白銀の布地をたっぷりと使ったローブのような衣服をまとい、輝く金色の帝冠で頭を覆ったその人物は、うな垂れるように前方に首を傾けている。
扉が乱暴に開けられても、見知らぬ二人組が室内に入っても、彼はまったく身じろぎすることもなく、じっとしたままだった。たくさんの宝石が連なった、胸にある首飾りも、重そうにぶら下がっている耳飾りも、ぴくりとも揺れない。
椅子の肘掛けに両腕を置いて、頭を垂れているその人の顔は見えなかった。
「天帝……」
キースが小さな声で呟いた。
この天界を統べ、白雲宮の頂点に君臨する存在。年齢はもう六十に近いと聞いている。年相応に頑固で、天の一族と自分の直近の者だけしか寄せつけず、キースでさえどんな顔をしているのかよく知らないという、天帝。
「…………」
ファルはガタガタと足を震わせた。その震えはすぐに全身に廻って、立っていられないほど不安定に揺れ始めた。すっかり血の気が引いた顔は、流れ落ちる汗でびっしょりと濡れている。大きく瞠られた目は、一直線に天帝に向かい、凝視するように釘付けされていた。
キースがその様子を見て、不審げに眉を寄せる。
「ファル?」
「キ……キース……」
口元を両手で押さえた。喉から絞り出す声は、言葉にならない。どうして、という疑問だけが、ファルの頭の中を渦巻いている。
どうして、こんなことに。
その場から動かないファルを見やってから、キースは意を決したように玉座へと歩み寄った。制止する声は、どこからもかからない。床を歩くキースの足音だけが響いている。
「キース……ダメだよ、キース……」
キースは玉座の傍らに立つと、「天帝か」と声をかけた。しかしそれでもなお、天帝は俯いたまま、顔を上げようとはしない。ぐっすりと深く眠り込んでいるかのように、完全な無反応だ。
「……だって、色がない」
キースの手が、天帝の肩へと伸びた。
しかし、少し触れただけで、その身体はぐらりと揺れて、前のめりに大きく傾いた。
キースが息を呑む。
ドサッと音を立てて床に倒れた天帝の頭から、帝冠が外れて転がっていく。もの言わぬその人物の代わりに、ファルの喰いしばった歯の間から、呻き声が洩れた。
「──もう、死んでる」
ようやく露わになった天帝の頭部はすでに腐食し、帝冠の下では、頭蓋骨の一部が露出しはじめていた。