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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
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 翼を大きく羽ばたいて、舞い上がる。

 ぐんぐんと風を切り上昇していくにつれて、ファルの胸にはなんとも言えない喜びが湧いてきた。

 背中の翼を自在に動かすことは、ファルにとっては手や足を思いきり伸ばして広げるという行為に似ていた。自分を繋ぎ止めようとする何物からも自由になるような、陶酔と解放感に満たされる。

 もっと、もっと、と自分の中の何かが貪欲に風を感じたがっている。周囲を包むように流れていく空気が心地いい。浮遊するごとに、ぞくぞくとした快感が背中を駆け上がっていく。力の限り翼を動かして、どこまでも飛んで行けたならどんなにいいだろう、という欲求を抑えつけるのが、ひどく困難なほどだった。


 それはおそらく、天人の本能というものだ。


 翼を持つ天人は、空でこそ自らの力を十全に活かすことが出来る。天人にとって、地上にいるということは、鳥が羽を縛られるのと同じなのだと直感的に悟った。この果てのない広い空を心ゆくまで翔けて、はじめて、天人は天人として生きられるのだ。

 ──ああ、このまま、ずっと飛んでいられたなら。

 天人という種の生物としての本能が、叫ぶように渇望しているのを感じる。覚醒して間もないファルはまだ、その強烈な欲求を上手に制御するすべを知らない。

 翼を実体化させた時のファルは、どこか別人のような雰囲気を待っているとキースは言う。それはあるいは、天人としての本能が、ファルという個人の人格を侵食しようとしている、ということなのかもしれなかった。


「ファル」

 キースの声が聞こえて、ファルはようやく、「ファル」としての自分を取り戻した。


「……うん?」

 すぐ間近にある彼の顔を見返す。口から出る声が、妙に間延びしているようなのは、頭の芯がぼうっと痺れているからだ。

「悪いが、少し森の上空を廻ってみてくれないか」

「うん」

 キースを抱えたまま、ファルは方向転換し、咎人の森の上を旋回するように飛んだ。ともすると拡散していきそうな意識を努力して集中し、ファルも視線を下へと向ける。

 眼下に広がる緑の木々は、夕日で全体がすっかり赤色に染まっていた。なんでも呑み込んでしまいそうなほどに深く大きな森は、尖った葉が縦横に茂り、その下が見渡せない。あの森の中に多くの化け物が──天界から堕とされた罪人たちが棲みついているとしても、上空からはその気配すら感じ取ることが出来なかった。

 森の化け物は、最近になって一気に数が増えたという。しかも、彼らには「罪人のしるし」がない。正式な裁きを経ることもなく、天帝の許可すらもとらず、地界へと追いやられた人々がいるということなのだろうか。

 もしもそうなのだとしたら、それは、現在の天界の秩序が崩れ始めている、ということの表れなのかもしれない。

 金枝宮に降り立った天人は、「天界に関わってはだめ」と言っていた。あの言葉は間違いなく、ファルに向けられたものだ。彼女の口ぶりでは、天界ではなんらかの大きな変化が起こりそうだということだったが、一体どんな内容を指していたのだろう。


 ……それはきっと、良い変化ではないでしょう。


 あの時の天人の言葉と、それを口にした時の彼女の伏せられた目を思い出し、背中がひやりとする。

 森の中の、化け物となった天界人たちは、どういう理由で地界に堕とされたのか。当人たちに聞ければいちばんいいのだろうが、あの姿になってしまっては、おそらくまともな会話を交わすことは不可能だ。薄暗くなってきたとはいえ、視線を遮る葉がここまで多くなければ、上空から様子を見ることも出来ただろうに。

「もうちょっと、寄ってみるね」

 そう言って、滑空し、森の木々に近づいてみた瞬間。


 いきなり、自分の身体が上空へふわりと浮き上がった。


「え?!」

 不意に乱れた気流に驚いて、咄嗟に翼を両側に大きく広げたものの、下から巻き上がってくるような突風は収まらない。その風に押されるように、身体が不安定に揺らいだ。

「な……なに?」

 ファルが目線を落とすと、不可解な上昇気流は、森の真ん中あたりから発生しているようだった。どう考えても、あんな場所から上に向かって風が吹くなどあり得ないはずだ。それなのに、木々の葉が、まるで下から噴き出すように舞っている。

「……なに、あれ」

 困惑しながら、もっと上方へと移動すると、森からの風も止んだ。起きた時と同じような唐突さだ。空に浮き上がった葉っぱが、またふわふわと森に落下していく。

「──ファル、もう一度森に近づいてみな。風に煽られないように気をつけろよ」

 この様子をじっと黙って眺めていたキースが、何かを考えるようにそう言った。

 うん、と返事をして、今度はゆっくりと下降していくと、森の木々に寄ったところで、また同じような風が下から吹き上がった。


 どうやらこの謎の突風は、他の接触、それも上方向から近づく何かがあった時に発生するものらしい。


「……もしかして」

 ファルが上へと昇りながら呟く。距離が離れれば、風はまたぴたりと止んだ。やっぱりそうだ。これは環境や気圧などからもたらされる、自然現象などではない。

 キースも頷いた。

「あれだけの高さから堕ちた天界人たちが、どうして死なないで済むのかと不思議だったんだが、ようやく腑に落ちた。あの風が、上からの落下物を受け止める役割を果たしていたんだ。どちらにしろ落ちるわけだが、地面に叩きつけられる時の衝撃は、かなり少なくなる。森に心がある──とまでは言わないが、苗床となった天人の意志が、木々の中に残っているのかもしれないな」

「天人の意志……」

 納得したようなキースの言葉を小声で繰り返し、ファルは森を見下ろした。



 ──始祖と呼ばれる男とその仲間に、家族を、友を、そして自分自身も殺されて、雲の上の世界から落とされた天人たち。

 それは、どれほど無念で、どれほど悲しいことだっただろう。

 空からは、同胞の死体が無造作に降り注ぐ。翼が折れ、血に染まり、もう飛ぶことの叶わなくなった無残な種族が、塵や芥のように放り出される。

 踏みにじられ、蹂躙されて、彼らが築き上げた平和な楽園は崩壊した。どれだけ手を伸ばしても届かない蒼穹を見上げ、天人たちは、次から次へともの言わぬ物体と成り果てた仲間たちが落ちてくる悲惨な光景を、どう思いながら光を失くした目で眺めていたのだろう。

 何も出来ない。誰も助けられない。何ひとつ、救えない。

 なんという無力。なんという弱さ。自分たちの生命など、宙を舞う羽根よりも軽かった……きっと、そう絶望したはずだ。

 親も、子も、妻も、夫も、恋人も、友人も、愛する者のすべてが失われ、消えていく。それなのに、この身体は、腕は、足は、もうどこも動かない。翼はもがれ、空を飛ぶことも出来ない。嘆きの声さえ、上げられない。

 しかしどうか。どうか、もう、これ以上──

 天人の遺骸に根付いた植物の芽は、彼らのその意志を、涙を、慟哭を呑み込んで育った。

 木々となって大きく高く成長し、葉を広げ、雲の上から落ちてくるものがあれば、風を起こして優しく受け止める。

 もう誰も、これ以上傷つかずに済むように。



「…………」

 ぐ、と唇を噛みしめる。キースを抱える腕に力を込め、空を仰いだ。

「行こう、キース」

「……ああ。行こう」

 キースもまた厳しい表情で、頭上に広がる雲と、その向こうにあるもうひとつの世界を見据えた。



          ***



 デンは走り続けていた。

 無我夢中でキノイの里を飛び出したはいいものの、呪われた森までは距離がある。とても一時間や二時間で到着できるものではない。

 ただでさえデンは運動が得意ではないし、普段からのんびりとした動作をしているので、走るだけでも大変な困難だ。間もなく息が切れ、心臓がばくばくと暴れだし、足がもつれはじめた。

 よろよろと足を止め、膝に両手を置いて喘ぐように呼吸する。汗が一気に噴き出して、ぼたぼたと落下した。あの場所はまだ遠い。この分では、行き着けるのはいつになることか。

 なんで俺はこうなんだろう、と情けなさで視界が滲んだ。

 肩で荒い息をしながら見上げた茜色の空に、もうあの白い鳥の姿はない。もっと上のほうへと舞い上がってしまって、デンの目にはすでに捉えられない高さのところまで行ってしまった。

 このまま走り続けたって、何にもならないだろう。呪われた森に着いたところで、デンが探しているものはきっと見つからない。今まで、彼が欲しかったもの、求めたものが、手に入ったためしは一度としてなかった。

 つまらない人間だ。それは誰よりもデン自身が知っていたし、自覚もしていた。頭が悪く、行動も鈍く、口だって上手に廻らない。こんな男だから、親にも兄弟にもそっぽを向かれ、友人も出来ず、誰からも見向きもされずに生きてきた。

 誰のせいでもない。誰かを恨んだりしたこともない。悪いとしたら、こんな出来損ないに生まれた自分が悪かった。邪魔者扱いされるのも、「そこにはいないもの」として無視されるのも、何もかもこんな人間である自分が悪かったのだ。

 ずっと、そう思ってきた。

「ファル……キース」

 デンはだから、あの二人に、自分が何かをしてやれることがあるとは、毛頭考えたことはなかった。ファルもキースも、しっかりしていて頭も廻る。デンなんかいなくたって、ちゃんとやっていけるだろう。

 こうして必死に走っているのだって、意味はないことだと、よく知っている。たとえばあれが本当にファルとキースであったとしても、デンに二人の助けになるようなことが出来るはずがない。自分のような役立たずで、意気地なしで、気の弱い人間、いてもいないのと同じだ。

 でも。

 流れ落ちる汗を腕でぐいぐいと拭う。

 一息ついて、森に向かって再び走りはじめた。


 ──逃げてばかりの人生だったデンにも、ひとつだけ、出来ることがある。


「待ってる。……俺は待ってるからな」

 それだけ。たったそれだけ、だけど。

 どうしても、今はそれがとても大事なことのように思えた。




          ***



 空気を切り裂くように、ファルは真っ直ぐ上に向かって飛んだ。

 上空に行くに従って、風が冷たくなり、強くなる。びょお、という音が耳元を掠めて流れている。その風に負けないようにと、翼を大きく上下させ続けると、ファルの体力はどんどん削られていった。

 バサッバサッという羽ばたきの音に混じって聞こえる、自分の呼吸音が激しくなっていく一方だ。ファルは上に顔を向けて、ひたすら白雲宮最深部の穴が見えてくるのを願ったが、そこはまだ白く厚い雲に覆われている。

 あの雲を抜けなければ目指す場所には辿り着けないのに、そこまでの距離はちっとも縮まっていく気がしない。

 抱えているキースの身体が、次第に重みを増していく。ファルの飛行の邪魔にならないようにと、キースは言葉を発しないし、ほとんど身動きもしなかった。彼にとっても、この状態が長く続くのは苦痛でしかないだろう。

「く……」

 歯を喰いしばって翼を動かす。両腕が震えはじめていた。なによりも恐ろしいのは、この腕からキースを落としてしまうことだ。ぼんやりと曖昧になっていく意識を、ファルは死に物狂いで引き戻した。こんな時に、天人の本能なんかに乗っ取られている場合じゃない。

 なんとしても、キースは無事に天界へ連れて行く。

 気力を奮い起こして腕に力を込める。ようやく、雲が近づいてきた。残照を浴びて輝く、白い綿のような雲だ。それが頭上にまで迫っている。

「突き抜けるよ!」

 そう声をかけて、翼で雲をかき分けるようにして潜り込んだ。薄い雲は上へ行くほど厚くなり、視界が利かなくなる。腕の力も翼を動かす力も体力も、すべてが限界になりつつあるファルには、何も見えないのは雲のせいなのか、それとも自分の目が眩んできたせいなのか、その判別がつかない。

 この雲を抜ければ、天界だ。

 どこもかしこも真っ白なその世界で、ファルは天界での記憶を必死になって手繰り寄せていた。滝のように流れ落ちる汗で、自分が抱えているはずのキースの姿さえもよく見えない。頭の中まで霞のかかったような状態で、アストン屋敷のことを思い浮かべるのは、並大抵ではない努力を要した。

 広い屋敷。綺麗な絨毯の敷き詰められた、重厚な書斎。煌めく蝋燭の灯火。テーブルの上に広げられた、色とりどりの菓子。ソファに座って、一緒に食べていた人。



 ──苦いものと甘いものは嫌いなんだ、と彼が言う。

 なんでも食べなきゃ大きくなれないよ、とファルが言うと、おまえが言うなと笑われた。

 こんな痩せっぽっちで、今までよく生きてこられたなと感嘆したようにまじまじとファルを眺めるその人は、細身だが、しっかりした体格をしている。

 猫のようにしなやかな、引き締まった身体つき。背が高くて、彼と話す時は、ファルはいつも首が痛くなりそうなくらい見上げなきゃいけなかった。力もあって、あの書斎に出入りする時は、片手で軽々とファルを持ち上げていたっけ。

 ファルの手をすっぽりと包み込む大きな掌を、今もよく覚えている。

 闇のような黒髪と、鋭い碧の瞳が無愛想で、人を寄せつけない感じがするけれど、実はけっこうよく喋るし、笑うと優しい。

 そんな──大人のキース。



 強い光輝が迸った。

 しかしファルにはそれさえも、はっきりとは認識できない。夕陽とは違う輝きに包まれているような気がしたが、周囲が真っ白な上に雲に反射して、何が光を放っているのかも判らなかった。

 と同時に、腕にかかる重量が増した。

 負荷の変化についていけず、翼が勢いをなくし、失速する。ファルはぎゅっと目を瞑った。暗闇の中で、ちかちかとした閃光が走る。引きちぎれそうな腕の痛みに、歯噛みをして耐えた。

 汗が入り込む目をなんとか薄く開くと、そこに広がっているはずの空がなくなっていた。

 とうとう雲を抜けたのだ。

 目の前に、大きな壁が立ちはだかっていた。いや、頭上にあるのだから、頑丈な天井に塞がれている、と言ったほうがいいかもしれない。本来なら、そこにあるはずのない、無機質な石の遮蔽物。


 雲の上にある、もうひとつの世界。


 朦朧としてきた意識と視界の中で、ファルの目はそこに大きな穴を見つけた。

 あれこそが、白雲宮の最深部。天界への入口だ。

 全身で暴れ回る苦痛を押さえつけて、ファルは少しずつ上昇した。翼にも、もう力が入らない。ようやく外周に辿り着き、腕の中から重さがふっと消失した瞬間、限界が訪れた。

 穴の縁にかけようとしていた手が、するりと滑る。飛んで自分を持ち上げようとしたのに、畳まれた翼は開かなかった。どうして、と思う間もなく、目の前が真っ暗になった。一瞬、気を失ってしまったらしい。

 翼が光の粒子になって消えていく。それと同時に、ファルの身体は重力に従って下へと向かった。落ちる──と、おぼろげな意識で思う。

 その手を、誰かの大きな手がしっかりと掴んだ。

 ふわっとした浮遊感と共に、あっという間に上へと引き上げられる。そのまま、力強く抱き上げられた。

 ん? とファルは汗まみれで目を瞬いた。

 そこはすでに、見覚えのある部屋の中だった。薄暗い室内は、穴から射し入る赤い光だけがぼんやりとあたりを浮かび上がらせている。壁に立てかけてある板や斧も、あの時のままだ。

 どうやら、また地界に落下する、ということにはならずに済んだようだ。……しかしそれにしても、ずいぶん、視点が高いような。

 目をすぐ前に向けると、そこには、これまた見覚えのある男の顔があった。

「よくやった、ファル」

 天界にいた頃のキース──二十三歳のキースが、笑って言った。




 どうも、消耗のあまり、幻が見えるようだ。

 そう思い、何度か目を開けたり閉じたり、ごしごしとこすったりしてみたが、一向にその幻は消える気配がなかった。それどころか、「何してんだ、おまえ」という呆れたような声も、いつもと違ってやけに低く聞こえる。

「……キース?」

「見りゃわかるだろ」

 見ても判らないから聞いているのである。いや、判らないことはないのだが、どうしてこうなっているのか判らないから混乱しているのだ。

「な……なんで、戻ったの? 地界では子供の姿で、天界では大人の姿? え? それって、自動的にそうなるの?」

「そんなわけあるか。おまえには、博士から聞いたことと、おれの考えをちゃんと説明しただろ」

「き……聞いたけど」


 ──現在の天界人は、地界での環境に適応できず、内部から崩れて人の形を保つことが出来なくなる。

 キースが地界に堕ちても人間でいられたのはファルが無意識に天人の力で護ったからで、子供の姿になったのは、その副次的な産物だったと思われる。

 だとしたら、似たような状況下であれば、また同じことが起こる可能性はある──と。


 聞いた。確かに聞いた。しかし正直、理屈がまったく判らない。ファル自身にはそんなことをしたという記憶もない。堕ちた時に「死なないで」と思っていたことくらいは覚えがあるが、「子供になって」などとは思っていなかった。だからファルがそれを、話半分に聞いていたとしても、無理のないことではないか。

「おまえ、ぜんぜん信じてなかったな?」

 片手でファルを抱き上げたまま、キースがもう片手でファルの頬っぺたを摘んだ。そんなこと言われたって、今もちっとも信じられない。

「おれが頼んだとおり、飛びながら、もとの姿になるよう念じていたんだろ?」

「……うーん」

 もとに戻れ、とは思っていない。ただ、天界にいた頃のキースの姿を思い浮かべていた。

 事前に、キースにそう指示されていたからだ。白雲宮が近くなってきたら、大人だった時のおれのことだけを考えろ、と。

 ファルはその通りにした。それは本当だ。しかしそれがこの結果になったと言われると、やっぱり半信半疑で首を捻ってしまう。


「ま、いいさ。天人ってのは、自分の力さえ、完全に把握していないものらしいからな。結果がよければすべてよし、だ」


 キースはあっさり肩を竦めた。そんなことでファルと討論しても無意味だと考えているらしい。

 しかし、子供の時とは違って、大人キースはそんな仕草も非常にサマになっている。キースはキースなのだが、久しぶりに会う人のような、変な感じだ。

 もちろん、大人でも子供でも、ファルは別に構わない。外見がどうであろうと、中身がキースでありさえすれば、ファルが彼に向ける感情にはなんの変化もない。大人になった分、キースにとって有利なことや便利なことは格段に増えたのだろうから、ファルもよかったと思うべきだということは判っている。

 でも、これから成長していくにつれて、十五歳のキースとか、十七歳のキースも見られるのかと思って楽しみにしていたので、なんとなく残念な気もする。

 子供の姿も可愛かったのに……

 と思っていたら、頬っぺたをつねられた。

「いたいいたい」

「今、変なことを考えてただろ」

 キースは人の色は見えないが、目敏い。少しくらい子供のキースを思い出してしんみりしたっていいではないかとファルは思うのだが、キースはあの姿にこれっぽっちも未練というものがないようだ。

「ところでキース」

「ん?」

「……そろそろ下ろしてくれない?」

 ファルはまだ抱き上げられた格好のままである。ぴったりと寄せられた顔は、温かいが、もう柔らかくはない。現在のキースはどこもかしこも大人の男なので、こういうことをされると鼓動が跳ね回って心臓に悪い。

 しかしキースは離すどころか、ますますぎゅっと力を入れた。無駄のない筋肉のついた長いその腕は、現在のファルの体重を難なく支えて、びくともしない。おまけに、どういうつもりか、何かを確かめるように軽く揺すってみては、はあーと長い息を吐き出したりしている。

「もう少し、噛みしめさせろ」

「…………。そう……」

 あまり顔には出ていないけど、実は相当、嬉しいんだね……

 姿は大人に戻っても、なんだか彼が可愛らしく思えて、ファルはキースの頭をよしよしと撫でた。



          ***



 ようやく気が済んだのか、ファルを床に降ろすと、キースは真面目な顔つきになった。

「ファル、これから白雲宮の上階へと向かう。この最深部は罪人の処刑がなければ誰も来ないところだし、穴から入ってこられる人間がいるとは想定もしていないから、こんな風に無警戒で無防備だ。でも、上はそういうわけにもいかない。一瞬たりとも、気を抜くな」

「はい」

 厳しい調子で言われて、ファルも神妙に頷いた。ここに来るまではともかく、白雲宮内部のことはファルはほとんど何も知らない。キースに一任するしかないのだ。

「時間が長引けば長引くほど、天人のところに行き着くのは難しくなるだろう。迅速に探すが、それでも見つからなければ……」

 そこまで言って、キースはふと、口を噤んだ。

 何かを考えるように、目線が宙を彷徨う。目の高さが今までと違うので、ファルには彼のその碧の瞳の中にあるものを見つけることは出来ない。それがひどく、もどかしいような気がする。

 キースの視線が再びファルのほうへと戻ってきた。


「……時間制限をつけよう、ファル」


 その言葉に、というより、その声音の調子に、ファルの胸が嫌な感じで波打った。

「時間制限、って」

「時計台の鐘の音だ。あれを合図にしよう」

 天界で、一日に一度鳴らされる、時計台の鐘の音。

「あの鐘が鳴るまでに天人を探し出せなかったら、今回の計画は失敗、ということだ。一度、地界に戻って今後のことを考える」

「失敗……」

「白雲宮の警備は赤の離宮のように甘くはない。というより、容赦がない。侵入者として兵に捕まったら、牢に入れるよりも前に殺される。長くここに留まれば留まるほど、危険が増す。短い時間でどれだけのことが出来るかが、事の成否を分けるんだ」

「……うん」

「いいか、ファル、鐘の音だ。あの音は天界のどこにいても聞こえる。白雲宮の中でも、ここでもだ。鐘が鳴ったら、そこで終わり。それを頭に叩き込んでおけ」

「うん」

 ファルが頷くと、キースは上体を屈め、両肩に手を置いた。

「──そして、もしも、鐘が鳴った時に」

 碧の目が真っ直ぐにこちらを覗き込む。キースの表情は真剣そのものだった。


近くにおれが(・・・・・・)いなければ(・・・・・)おまえは一人で(・・・・・・・)地界へ戻れ(・・・・・)


 ファルは目を見開いた。

「──いやだよ」

 きっぱりと否定して首を横に振ると、肩を掴む手の力が強まった。

「ファル、おまえには翼がある。天界のどこからでも、自由に飛び立てる。でもおれは、場合によってはそうはいかないかもしれない。これから、万が一おれたち二人がはぐれて別行動になった時には、おまえはその翼で、自分の身を守るんだ。いいな?」

「…………」

 ファルはまた首を横に振った。キースの周りの青色がさっと濃くなる。こちらに据えられる視線は怖いほどに険しかった。

「ファル、頼む。これだけは大人しく聞いてくれ。……別に、おれを見捨てていけ、と言っているわけじゃない。一度地界に戻って、クイートに相談しろ、と言ってるんだ。あいつは嫌いだが、きっと最も的確な判断をするだろうから」

「…………」

 クイートの的確な判断。

 それが時に、冷淡なものになることくらい、ファルだって知っている。

「いや」

「ファル」

 きつい声に、ビクッと身が縮んだ。他人に怒鳴られるのは慣れているが、キースから怒気を向けられるのは耐性がついていない。この姿の時のキースは余計にだ。

 拳を強く握りしめ、目を中空に据えた。穴の下では、風が強く巻いている音がする。

 少ししてから、ファルは顔を上げ、真っ直ぐキースを見返した。

「時計台の鐘の音が合図だね。それまでに天人を見つけられなかったら、この計画は失敗。そこは理解した。……それからのことは、その時になってから考えようよ。二人で(・・・)

「…………」

 きっぱりと言いきるファルに、今度口を閉じたのはキースのほうだった。彼は彼で、その意見に簡単に同意してくれるつもりはないらしい。

 これでは話は平行線を辿るだけだ。今はほんの少しも時間を無駄には出来ない。キースはため息をついて、踵を返した。

 向けられる後ろ姿が固い。怒っているのだろう。

 ファルは迷ってから、その背中に声をかけた。

「キース?」

「なんだ」

「……もし、キースが地界に『戻れない』じゃなくて、『戻らない』って言うなら」

「よせ」

 ぴしゃりと遮って、顔だけを振り向かせたキースがファルを睨む。眉が吊り上がっていた。

「──その先は言うな」

「……うん」

 小声で返事をして、歩き出したキースの後について足を踏み出す。

 広く大きな背中を見ながら、痛む胸をそっと手で押さえた。自分はもっと前から、この問題にちゃんと向き合って考えるべきではなかったか。



 ──もしかして、ファルはこれから、キースにひどく残酷な選択をさせることになるのかもしれない。






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