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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
63/73

飛翔



 キースとファルがクイートたちと一緒に赤の離宮を出て行くと聞いて、ファルが「先生」と呼んでいる老人は、非常に渋い顔をした。

「わしの忠告を無視しおって……あのガキと行動を共にすると、ロクなことにはならんぞ」

 彼がどこまで事情を知っているのか定かではないが、クイートが父王や兄弟王子たちにも内密で、何事か暗躍していることだけは理解しているらしい。この人物のことだから、たとえクイートがすべてを話すと申し出たとしても、「聞きたくない、勝手にやれ」と怒った顔で突っ撥ねそうだ。

「ごめんね、先生。でも、わたしたち、自分で考えて、自分で決めたことだから」

 ファルが眉を下げて謝ると、先生はますます大きく口を曲げて、不愉快そうになった。

 しかしキースもファルも、彼がニグルと同じで、表に出ているものと内心で思っていることが一致しないタイプだということは、もう知っている。おそらく、自分たち二人のこれからを心配してくれているのだろう。

「おれがこうして動けるようになったのは、あんたのおかげだ。感謝している」

 キースの言葉に、先生はふんと鼻から息を吐き出した。

「感謝なんかしなくて結構だ。あのガキに付き合っていたら、身体がいくつあっても足りんようなことになるのは目に見えとる。わしがせっかく治してやったのに、どうせまたボロボロになるんだろうが。恩を仇で返しおって、バカタレどもが」

 そこは否定できないなと、キースは口を噤んだ。ファルはファルで、困ったような顔をしているだけだ。

 二人が何も返さない──どうにも返答のしようがないほど、この先が不透明なことに自分から首を突っ込もうとしている、ということに気づいたのか、先生は顔をしかめたまま深い息を吐いた。

 その息をすべて外に出した時には、声の調子から、棘が抜けていた。

「あまり危険なことはするな……と言っても、無駄なんだろうな。また怪我をしたら診てやるから、真っ直ぐわしのところに飛んで来い。お前の背中には、便利なものがついとるようだし」

 ちらっとファルのほうに視線をやって、ついでのように言う。これまでファルに対しては「細い」だの「もっと飯を食え」だの「ちったあじっとしとらんか」だのといった小言しか言わなかった先生だが、ちゃんと天人や翼についても知っていたようだ。

「──また、ここに戻って来い。待っとるから」

 最後にぼそりと言葉を落とした先生に、ファルは嬉しそうに微笑んだ。

「……うん。ありがとう、先生」

 先生が、ふんともう一度鼻息を漏らすのと同時に、部屋のドアが開いてクイートが顔を覗かせた。

「二人とも、準備は出来たかい? そろそろ出発するよ」



          ***



 ──もう一度忌み地に戻り、咎人の森から天界へと向かう。

 どうやってあの場所に行くかと考えた時、悩むまでもなく出た結論が、それだった。

 少々時間がかかってしまうが、仕方ない。

 ファルがキースを抱えて飛ぶ以上、距離は出来る限り最短でなくてはならない。成長して多少力もつき、天界からこの地界に堕ちた時とは状況が異なるとはいえ、リジーから直接天界に向けて飛行するなど、現在のファルには到底無理な話である。


 そういうわけで、赤の離宮を出た一行は、馬車に乗って一路、中央の陸地を目指して進んだ。


 馬車は二台、一方にはキース、ファル、クイートが乗り、もう一方にはエレネとゴウグが乗っている。境界検問所の手前までは御者がいるが、その先は自分たちで馬を操り、忌み地へは五人だけで入るという。

 国越えをしなければならないのだから、もちろん日数はかかる。しかし、その行程は、キースがかけた時間とは比べ物にならないほどの、目まぐるしいものとなった。

 馬は限界まで走らせて、動けなくなったら次の馬に買い替える。宿などとらずに就寝はすべて客車の中で済ませる。一般人には入れないような道でも、特権を振りかざして有無を言わさず押し通る──という無茶苦茶なやり方で、ほとんど迂回もせずに、クイートは真っ直ぐ国を突っ切ったからだ。

 クイートのような、強引で金も権力も持った男が本気を出すと、旅路の距離ですら存在しないも同然になるのである。キースは自分が辿った道のりの長さを思い出して、この世の不平等さを感じずにはいられなかった。


 しかし、クイートがそこまで急がせるのは、リジー王国内部の事情も絡んでいるらしい。


 どうやらやっぱり、クイートがファルという隠し玉を持っていることは、リジー王には薄々気づかれているようなのだという。天人の翼をその目で見た兵たちもいるのだから、いくら箝口令を敷いたところで、それも仕方のないことだっただろう。

 金枝宮からは、毎日のように、参上せよとの矢のような催促が来る。その要請を無視し続けてきたクイートだが、それもそろそろ無理が生じてきた。兄弟王子たちを抑えるのも限度がある。下手をしたら、反逆や謀反の疑いをかけられて、赤の離宮に軍が突っ込んでくる、という事態も想定せねばならなかった。

 キースたちが滞在していた時には口に出さなかったが、クイートのほうでも、周囲からの干渉を跳ね除けるのは、相当な努力が必要だった、ということだ。

 彼はなんとしても、余計な横槍が入れられる前に、自分の意志を貫きたいということであるらしかった。

「金枝宮が関わってくると、面倒なことにしかならないのが判りきっているからね」

 と、肩を竦めてクイートは言ったが、その点に関しては、キースも同意見だ。


 キースは正直、リジーという国にはまったく興味がない。それだけではなく、地界の君主たちの事情なども、どうだっていい。

 上にいる連中の勝手な主張と利己的な思惑に、ファルを巻き込ませるのも、振り回させるのも、真っ平だった。


 ガラガラというけたたましい音を立てて、馬車は疾走している。

 視線を下にやると、その騒音の中でも、ファルはぐっすりと眠り込んでいた。

 狭い客車内の椅子で上半身だけ横に倒し、キースの膝を枕にして、寝息を立てている。ついさっきまで、窓から外を見て、笑ったり喋ったりしていたファルが、いきなり糸が切れたように寝入ってしまったので、向かいに座るクイートは「本当に子供みたいだなあ」と呆れた顔をした。

 その言葉と表情が、どこまで本気で出されているのかは、疑わしいのだが。


 赤の離宮を出発してからというもの、毎日毎日ほぼ一日中、この閉ざされた空間の中で同じ時間を過ごしているのだ。時々、ファルが意識を失うようにぱたっと眠りに引き込まれていることには、クイートも気づいているはず。

 どうでもいいことを話しながら、測るような目が、ファルとキースとの間を行ったり来たりしていることも知っている。腹立たしいほど頭の回転の速い男だから、キースが決して口には出さない何かを抱えていることくらいは、勘づいているだろう。


「…………」

 キースは唇を一直線に結んだまま、自分の腿の上に広がる蜂蜜色の髪を手で梳いていた。

 指で掬い取り、そのまま先へと流すと、絡まることもなくさらさらと落ちて滑々とした頬にかかる。軽い髪の毛は、一本一本が絹糸のように手触りが良かった。しっとりとした輝きが、妙に艶めかしい。長くなっちゃったから切りたいんだけどエレネさんが許してくれないんだよとファルは不満げに零していたが、確かにこれを切ってしまうのは、エレネでなくとも勿体ないと思わずにいられないだろう。

 顔の半分を隠すように覆う髪の毛を、滑らせるように払ってやった。その下から現れた目は、未だ閉じられたままだ。手の甲で頬をそっと撫でて、そのまま寝息を洩らす唇を指先で触れる。


 ……ファルはまだ、起きない。


 そこで、ゴホン、という咳払いが聞こえた。

「……あのさ、俺の存在を忘れてない? なんとなく愛撫を見せられているようで、居たたまれないんだけど」

 もちろん、クイートのその文句を聞き入れる気なんて毛頭ない。キースは目線をファルに向けたまま、顔も上げなかった。

「嫌なら、いつでもあっちの馬車に移って構わないぞ」

「もう少し君が遠慮してくれればいい話じゃないかな? ここにゴウグがいたら、発狂しかねないよ」

「それは面白そうだな」

 表情ひとつ変えずに返してから、「……どうして、そうしなかった?」と聞いた。

「うん?」

「本来なら、この馬車に乗っておれたちに目を光らせる役は、あの男だったはずだろう? あるいは、あのエレネという女か。お前は敵が多いようだし、もしもこの機に乗じて何者かが襲いかかってきても、おれはお前を守る気なんてこれっぽっちもないぞ。もしも危険が生じたら、お前なんてさっさと見捨てて、ファルを連れて逃げる。その可能性をまったく考えなかったか?」

 興味なさそうなキースのその問いかけに、クイートは笑った。

「うん、その場合、もしかしたら君はそういう判断を下すかもね。……でも、ファルは絶対に、その道を選択しない。ファルが逃げないと言えば、君も方針を転換せざるを得ない。そうだろう?」

「…………」

 その言葉をキースも否定できなかった。ファルは確かに、そこにいるのがクイートであれ誰であれ、見捨てるということはしないだろう。

 ……いや、出来ないのだ。


「難儀だよねえ。俺には理解できないよ。──でももしかしたら、そういう性質こそが、尊いものであるかもしれないよね。ひょっとしたらそれを、人の善なる部分、と呼ぶのかもしれない。……天人の、というよりも、それはファル個人の資質なのかな」

 わずかに遠い目をして、クイートは独り言のように言った。


「君ほどではないけど、俺たちもその程度のことはファルのことを知っている、ということさ。だからゴウグもエレネもこの組み合わせに何も言わなかった。もし何か事が起こった時、ファルと君がいればかえって俺の身は安全だ、と考えているんだと思うよ」

「……他人任せか」

「信頼、というものだよ。エレネはファルのことを信じているし、ゴウグもなんだかんだ言って、君の実力を認めている。そういうことさ」

 キースが黙っているのを見て、また笑う。今度は意味ありげなものを含んでいた。

「──それに、君は君で、早く天界に行きたい理由があるんだろう? そのためには俺の協力は不可欠だ。そうじゃない? だから逃げないし、何かがあったら俺を守るしかない」

「…………」

 忌々しいが、その通りだ。クイートがいなければ、こうまで時間を短縮させることは出来なかった。金銭的にも物資の面でも、クイートに頼らざるを得ない部分は確実にある。

 先生には苦言を呈されたが、それぞれ理由は異なるとはいえ、互いの利害と目的が一致しているからこそ、こうして行動を共にしているのだ。


 一刻も早く、天界に。


「キース、君、博士に何か──」

 核心部分を問いかけるため、クイートが改めて口を開きかける。しかし答える気も、その先を聞く気もないキースは、ようやく目だけを上げて向かいに座る男を見た。

「クイート」

「うん?」

「お前、人体の中で、攻撃されると『死んだほうがマシ』と思うくらいに激しい苦痛を感じる箇所がどこか、知ってるか?」

「わかった、もう聞かない」

 即座に撤回して、クイートが両手を挙げる。キースは再び視線を落として、ファルの口許に自分の指を当てた。

 温かく柔らかい感触を伝える指の上を、静かな呼気が通過していく。


 ──ちゃんと息をしている。

 それは判っているのに、どうしても確かめずにはいられない。彼女が目を開けるまで、この強張りも解けないままだ。

 今は、他のことに目も意識も向ける気にはなれなかった。


「そうそう、ファルが寝ているうちに、君に渡しておきたいものがあるんだった」

 思い出したように言いながら、クイートが上半身を屈めて、椅子の下をゴソゴソと探りだす。姿勢を戻し、その手に持っているのは、頑丈そうな鉄の箱だった。

「まずこれ、銃ね。ちゃんと手入れしてあるから」

 箱の中から取り出した銃を、無造作に手渡してくる。しょうがないので、キースはファルから手を離し、それを受け取った。

「それから予備の弾丸。あと、銃を収納するホルスター。……それから、これを受け取るかどうかは、君の判断に任せるけど」

 ちらっとキースを見てから、クイートは新たに箱の中から取り出した筒状のものを差し出した。

 分厚い紙に包まれた、円柱の形をしたもの。先端からは紐のようなものが飛び出している。

 キースは見たことがなかったが、その独特の臭いで、大体の用途は見当がついた。銃と同じ、火薬の臭いだ。

「この導火線の先端に火を点けると、中にみっちりと詰め込まれた爆薬が爆発する。単純な仕組みだろう?」

「……威力はどれくらいだ?」

「西の大陸には鉱山があるんだけど、その山を崩すためにこれが使われている。人が長い時間をかけて掘ったり削ったりしなきゃならないものが、この爆薬を使えば一瞬だ」

 つまり、硬い山を吹き飛ばすくらい、ということか。

 まったく、地界の進歩というのは、恐ろしいものがあるな──と、キースは感嘆しながら思った。


 現在は鉱山の採掘という実用目的にしか使われていなくとも、天界の関与がなくなれば、これらの知識はすぐに、高性能の武器や兵器に形を変えて発展していくのだろう。

 天人が暮らしていた頃の天界は、一人の娘の恋心が楽園の崩壊を招いた。

 地界は地界で、飽くなき探求心と利益への欲が、自らを破滅へと導こうとしているのではないか、という気がしてならなかった。


 ちらりと視線をファルの寝顔に移す。これを渡す時にクイートが今を選んだのは、まったく正しい判断だった。

「……使うかどうかは判らないが、一応、もらっておく」

 キースはそう言って、クイートの手からそれを受け取った。爆薬と、銃と、ナイフと、弓矢。持てるものに限りがあるので、そんなにあれこれと欲張ることは出来ない。しかしそれでも、これだけのものを身につけたキースは、まるで生きた武器収納庫だ。

「──あと、もう一つ、用意してもらいたいものがあるんだが」

「いいよ。なんでもどうぞ」

 キースがその「用意してもらいたいもの」を口にすると、クイートは、はあ? と変な顔をした。




          ***



 猛烈な勢いで驀進した甲斐あって、驚嘆するような早さで、馬車は東の大陸を抜け、境界検問所に到着した。

 検問所の番兵たちは、クイートが話をして何かを見せただけで、すんなりと二台の馬車を忌み地の中に入れた。ほとんどフリーパスのような扱いに憮然とするしかない。役人の扮装をして成りすましたり、女の子を誘拐したりと、やりたい放題が出来るわけだ。

「大体、なんでクイートはあの時、忌み地に来たの? 遊びに?」

 という至極もっともなファルの疑問に、クイートは軽く笑った。

「いやだな、人聞きの悪い。俺はね、たまにこの場所を見に来るんだよ。いつもの恰好じゃ目立ってしょうがないから、役人の服を着ているだけさ。実を言うと、あれ、嫌いなんだよね。地味で」

「クイート、派手好きだもんね……」

「趣味がいい、と言ってくれる? まあ、俺も一応リジーの王族に生まれたからには、責任ってものがあるからさ。いろんなことをこの目で見て、知っておかないと」

「……見て、知るだけ?」

 ファルは繰り返して、正面からクイートを見据えた。


「ここにいる人たちを、救ってあげようとは思わないの?」


 真っ直ぐ向かってくる視線と、直截すぎるほどの問いに、クイートは苦笑した。

「救う、というと?」

「ここにいるのはみんな、東西の大陸で居場所がなくてやって来た人たちなんでしょ? 万が一天界がなんらかの攻撃を仕掛けてきた時、いちばん大きな犠牲となるのも、ここの人たちだって、クイートは知っているんだよね?」

「その通りだね」

「だったら、なんとかするべきなんじゃないの?」

「なんとか?」

 クイートは唇の端を上げた。そういう顔をすると、性格の悪さが滲み出る。


「ここに住む人たちを一人一人説得して、大陸に戻ってくるよう言い聞かせるのかい? それとも、大陸の住民たちの税金を膨大に注ぎ込んで、ここの暮らしを少しでも楽にするよう取り計らってやるかい? あるいは、天界の存在を教えて、ここは危険なんだと伝え、パニックを起こさせるかい?」


「…………」

 冷たい口調で畳み掛けられて、ファルは言葉に詰まった。

「ファル、勘違いをしないでくれ。ここに入った連中は、自ら望んでそうしたんだ。大陸でいくらでも生活を立て直すことだって出来ただろうに、すべてを投げ出して逃げることを選んだのは彼ら自身なんだよ。一度忌み地に入ったらもう出られない、それを何度も何度も確認されて、それでもいいと肯ったのは本人だ。誰も強制も無理強いもしていない。それでもこちらから手を差し伸べてやるべきだと、君はそう言うの?」

「……でも」

 ファルは反論しようとしたのだろうが、その言葉は続けられることなくまた喉の奥へと戻っていった。デンをはじめとしたキノイの里の住民たちが、故郷に愛着を抱き、それと同じくらい戻ることを恐れているのを、ファルは身をもって知っている。

「──でも、そればかりじゃ、ないんだろ」

 代わりにキースが続けると、クイートは少し嫌そうに眉を寄せた。

「この忌み地は天界のすぐ下にある。つまり、目につきやすい。だからこそ、無人のままにして放置しておくわけにはいかない、という事情もあるんだろ?」

 ファルが目を瞬いてキースのほうを向く。

「どうして?」

 キースは馬車の窓の向こうの景色に目をやった。


「天界人の目に触れるような場所では、適度に人がいて、適度に遅れた文明で暮らしていなきゃならない、ってことさ。地界には、引き金ひとつで人が殺せるような武器があり、もうすぐ新しい動力まで開発されるかもしれないところまで進化している、ってことを悟られちゃまずいんだ。おれたちのように、天界から堕ちても化け物にならないような特殊な人間がいないとも限らないしな。だから『ここ』では、みんなが苦労しながら原始的な生活を余儀なくされている。勝手に栄えられても困るが、全滅されても困るんで、ほどほどに施しを与えて、上手いこと調整しているんだろう。要するに天界に対する、体のいい目くらましとして、ここの住人たちは、地界の国々の君主たちの思惑によって閉じ込められ、生かされているわけだ。もしも天界から害悪が降ってきても、被害がこの中だけに収まるように、壁で囲ってな。……この地はいわば、地界から差し出された生贄だ。当然、クイートはそんなこと、ちゃんと判っているだろうがな」


 それが皮肉だということはもちろん通じたらしく、クイートは表情を歪めた。

「……本当に、俺、君のこと嫌いだよ」

「気が合うな。おれもだ」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、クイートが唸るような息を吐く。

「──あのね、ファル」

 眉を上げているファルに向かって、口を開いた。

「俺も一応、何度か話してはみたんだよ。忌み地の様子を見に来るたびに。ここを出て、大陸でまた新しく生き直してみる気はないかって。……でも、駄目。誰一人として、耳を貸してくれる人はいなかった。上のほうの思惑がどうあれ、彼らはみんな、相応の覚悟を持ってこの地に足を踏み入れている。その覚悟を引っくり返すのは、なまじのことでは不可能だよ」

「…………」

 ファルはうな垂れるように首を前方に傾けた。

「そうだな──でも」

 クイートが、何かを思いついたような声を出す。口許に手を当て、目線が宙に浮いた。

「思ってもいなかったような異変があれば、ひょっとしたら、その頑固な考えも変わるかもしれない」

「異変?」

 ファルが問い返すと、クイートの目がそちらに戻った。

「境界検問所の番兵が言っていたんだけど、どうも今、天界では何事かが起きているようだね」

「何事か?」

 今度訊ねたのはキースのほうだ。ざわりとした不吉な予感が、胸を撫で上げる。

 クイートは頷いた。


「……最近、咎人の森の化け物の数が、一気に増えたらしい」


 ファルがはっとしたように息を呑む。キースの顔つきが鋭く引き締まった。

 咎人の森の化け物──それはつまり、天界から堕とされた罪人、ということだ。

 それが一気に増える? どうしてそんな事態になっているのか、キースには想像も出来ない。

 天界から地界に堕とされるのは、天界における第一級犯罪者。第一級犯罪者とは、通常、天帝あるいは天の一族に関わる罪を犯した人間に限られる。しかも天帝の裁可が必要という、それほどまでの重罪だ。ごく内密に処理されるとはいえ、多くて年に一人か二人、といったところだった。

「それも、どうやら」

 クイートがさらに続けた。口許は笑いの形を取っているが、その目は厳しい光を放っている。


「新たに増えた化け物には、罪人のしるしが(・・・・・・・)ついていない(・・・・・・)、という話だよ」


 キースはぐっと自分の手を握り込んだ。

 ──天界で、何かが起きている。

 柔らかく微笑む青年の顔が脳裏に浮かぶのを、止められなかった。



          ***



 忌み地内を馬車で疾走し、とうとう咎人の森に到着した。

 地面に降り立ち、茂る緑を見上げる。天人の遺骸に根づいた苗が生育して大きくなったという森だ。恨むことを知らないというのなら、この地に染みついているのは、彼らの涙と痛みだけなのだろうか。

 地界に来て、はじめて目にした場所。長い時間をかけて、キースとファルはまた、ここへと戻ってきたことになる。

 そろそろ陽が落ちかけて、辺りを金色に染め上げようとしていた。そういえば、この森から出てきた時も、草原が赤い夕陽に照り映えていたなと思い出す。

 ファルは目の前の木々ではなく、草原の向こうへと目をやっていた。そちらはキノイの里がある方向だ。彼女の心に浮かんでいるのが誰の面影なのかは、聞かなくても判る。

「……なんだったら、キノイの里に寄っていくかい?」

 クイートもファルの内心を慮ったのか、そんな提案をしたが、こちらを振り返ったファルははっきりと首を横に振った。

「デンさんには、あとで会いに行く」

 あとで──と、ファルは言った。天界に行ってから、という意味なのだろう。

「うん」

 キースも頷いた。自分たちは天界に帰る(・・)のではない。

 帰るのは、この地界だ。

 デンも、ニグルも、博士も、先生も、みんな「待ってる」と言ってくれた。


 待っている人々のいるところこそが、自分たちの帰る場所であり、生きる場所だ。


「……しかし、お前さ」

 ゴウグがキースを見下ろし、微妙な顔をした。

「なんでそんな格好してるんだ? それじゃ、いくらなんでも動きにくいだろ」

 エレネも声に出しては言わないが、まったく同じことを考えているようなのが顔に出ている。無理もない。薄いシャツと脛が出るくらいの短めのズボンという、動きやすい軽装のファルと違い、キースは誰がどう見ても不自然な恰好をしているからだ。

 着ている白いシャツと黒いズボンは、明らかに身の丈に合わない大きさで、袖も裾もブカブカなため何重にも折り曲げられている。子供が大人の服を借りて、無理に身につけたらこうなるだろう、という感じだ。

 その姿で、脇にはホルスター、腰にはナイフ、背中には弓矢の入った筒を提げているわけで、異様なことこの上ない。

「服が小さいと、不都合があるかもしれないだろ」

「いや、どう考えても、そっちのほうが不都合……」

「おれにはおれの事情がある」

 切り捨てられて、ゴウグは困惑したようにファルとクイートのほうに視線を向けた。

 そちらはそちらで、「うーん」と二人して首を傾げている。

「だよね……言われたとおり用意したんだけどさ、意味がよく……」

「わたしも……そんなこと、本当に出来るのかなあ……」

 自信なさげなファルに、「いいから、頼んだとおりにしてくれ」とキースは念を押した。うん……と返事をするものの、納得はしていないらしい。当人にはあの時の記憶がないというのだから、無理はないのだが。

「とにかく、準備はいいかい? 二人とも」

 クイートの問いかけに、キースとファルは同時に頷いた。


「じゃ……」

 ファルが静止して、真っ直ぐ立つ。

 その背に、光が集まってきた。


「ファルさま、どうぞ、お気をつけて」

 エレネが両手を組み合わせ、心配そうに言った。

「おいキース、ちゃんと戻ってこいよ。俺はまだお前との決着をつけていないんだからな!」

 挑むように言うゴウグに、キースは呆れたような目を向けた。

「ここに来るまでの道中で、休憩のたびにさんざん相手をしてやっただろうが」

「俺はまだ完全に負けを認めたわけじゃねえって言ってんだよ! ファ……ファルを頼むぞ! ちゃんと守ってやれたら、二人の仲を許してやってもいい」

 最後の言葉は、赤い顔で付け足された。お前の許しを得る必要はまったくないんだが、とキースは思ったが、面倒なので黙っていた。

「……ファル、キース」

 一拍を置いて、クイートが口を開く。

「君たちは、君たちの生命を最優先にして行動してくれ」

「お前の望みどおりに事が運ばなくてもか?」

 少し意地の悪い気分で聞いてやる。クイートもにやりと笑って、胸を張った。

「君たちに出来なきゃ、俺は俺の力で道を切り開くまでさ。……だから無事に帰っておいで、二人とも」

「うん」

 まだまだ甘いなと、厭味のひとつでも言ってやりたかったのだが、その前に、ファルがにこっと笑って返事をした。

「わたしはわたしの、出来ることをするよ」


 ファルの両手が、キースの身体に廻った。

 実体化した白い翼が、ばさりと空を切るように羽ばたく。

 ふわ、とキースの両足が地面から浮き上がった。


「──いってきます」

 ファルがキースを抱え、真上にある天界に向けて、飛んだ。



          ***



 デンはその時、何かを感じて立ち止まった。

 誰かに呼ばれたような、そんな気がしてきょろきょろと周囲を見回す。キノイの里はいつものように静かで穏やかだ。変わったことなどあるはずがない。しかし妙に胸がざわざわして、顔を上げた。

 空はすでに、赤く染まりつつある。いつもと同じ、夕焼けが広がっている。しかしそこに、いつもはないものを見つけて、デンは立ち竦んだ。

 ──鳥?

 白い翼を優雅に動かして、空高くへと舞うように飛んでいく鳥。でも、あんなに大きな鳥がいるものだろうか。しかもその鳥は、何か──誰かを抱いているように見える。

 遠すぎてよく判らないけれど、でも、確かに。

 あれは、呪われた森の方角。

「ファル?……キース?」

 デンは小さく囁くように、震える声で呟いた。





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